第40話 無性の特異性

 黒い車は静かに街の外れを抜け、夜の冷たい空気の中で孤独な存在のように滑るように進んだ。


 街灯は次第に途切れ、遠ざかる街の光は小さな点となり、ノアの胸の奥にぽっかりと穴を開けた。夜の闇は深く冷たく、窓越しに吹き込む風は薄いコートの隙間からノアの肩や腕に鋭く刺さった。


 やがて車は鉄とコンクリートで無理やり組み上げられた、巨大で圧迫感のある建造物の前で静かに止まった。


 研究所――その名は、空気にすら侵入する冷たさを帯びていた。

 外壁は漆黒の壁面にほとんど窓がなく、昼の光も夜の星も、その存在を拒むかのように跳ね返している。建物の影は地面に長く伸び、まるでこの世界の温もりすら吸い尽くす黒い爪のようだった。


 ノアの目には、建物の直線的で角ばった輪郭が異様に映る。どの角も鋭く、人間の感情を受け入れる余地はない。窓の少なさは外界と隔絶された牢獄の扉のように見え、壁面は冷たい灰色の波として心に重くのしかかる。

 息を吸うたびに、空気は機械油と消毒液の匂いを運び、身体の奥まで冷えを染み込ませる。


 周囲に立つ街灯や樹木も、この建物の圧倒的な異質さの前では存在感を失い、全てが不自然に押し潰された。


 ノアは思わず肩をすくめ、胸に手を当てる。

 鼓動は高鳴るのに、心は完全に凍りつき、世界の温かさが一瞬にして奪われた感覚がした。


 車のドアが開く。冷たい金属音が静寂を切り裂き、白衣の研究員たちが、感情を削ぎ落とした無表情で現れる。ノアはその姿に息を呑む。

 彼らの存在は、まるで生身の人間ではなく、冷たい装置の一部が動いているかのようで思わず目を逸らしたくなる異質さだった。


 外界の光や温もりを完全に断ち切ったこの建物の空気には、温かさの記憶や希望すら届かない。

 ノアはかすかに震え、手のひらを汗で濡らす。ここは、世界のどこにもない、感情を奪い去る異形の城――孤独と痛みだけが支配する場所だと、本能的に理解していた。



 ドアが開くと、冷気と消毒液の匂いが混ざった空気が押し寄せた。床は光沢のある白タイルで光を反射してまぶしいほどだが、その光は人の温度を拒む。

 部屋のすべてが白で統一され、天井の蛍光灯は冷たく無機質に輝き、ノアの影をどこまでも薄く引き延ばした。


 研究員たちは白衣を纏い、無表情でノアを迎えた。彼らの瞳には、好奇も優しさも一切ない。


 ノアは「検体No.14」と呼ばれ、その名前以外に自分を呼ぶ言葉は存在しなかった。


 問いかけはすべてデータを取得するためだけのもの。ノアが返す返答も、研究員の目には反応としてしか映らない。


 ノアの体は、無性であることによりこの研究所では極めて特別な対象と見なされた。

 女性としての特徴も、男性としての特徴もない、特殊なホルモンバランス。そして「性別の枷を持たない」身体。


 科学者たちはそれを「禁断の完成形」と呼び、彼を観察と実験の対象として切り刻むように扱った。




 毎日ノアの体は、その無性という特異な遺伝情報を極限まで引き出すため、理解不能な薬剤や実験的な処置に晒された。

 処置室の冷たい蛍光灯の光の下、注射針は容赦なく彼の薄い皮膚を何度も何度も貫いた。


 その痛みは瞬間的な鋭さではなく、骨の髄まで響く、鈍い、継続的な苦痛だった。




 体内に注入された薬剤は、瞬く間に神経を焼き、筋肉の奥で微細な稲妻のように走り抜けた。ノアの体は勝手に痙攣し、喉奥で嗚咽が泡立つ。

 吐き気は胃を逆巻き、胸の奥で薄い膜のように張り付いた痛みと混ざり合い、呼吸のたびに肺の内壁が擦れる感覚が走る。


 副作用が引いた後、ノアの肌にはまるで深海で押し潰されたクラゲのように、青紫の斑点が透明な膜を通して浮かび上がる。

 光を吸い込み、血管の赤さが霧のように滲み出て、まるで傷ついた果実の内側を透かしたようだ。皮膚に触れれば、冷たく湿った痛みが指先に染み入るかのようで、無数の微細な痙攣がまだ体の奥でうねっている。


 その「紋章」は、肉体が受けた暴力と、心の孤独を映した生々しい地図だった。

 静かな白い部屋の中で、ノアの体は脆く、触れるものがいれば破れそうな透明感を帯び、世界から切り離された絶望をそのまま形にしていた。


 寒さと薬の熱が体の内側と外側からせめぎ合い、ノアの体は細かく、止まることなく震え続けた。冷たい床に敷かれた薄いマットに寝かされ、仮眠と称する短時間の拘束。


 光も音も、人間としての安息を拒絶し、ただ、痛みと薬品の匂いだけが彼の存在を証明していた。


 彼の意識は、痛みの波間を漂う、沈没寸前の小舟のようだった。そしてその波に打たれるたびに、過去の記憶が微粒子のように崩れて消滅していった。




「性別の枷を持たない君の体は、細胞の順応性が驚異的だ。我々の研究の集大成になる」


 主任研究員の声が、ガラス越しのスピーカーから冷たく響いた。

 人間としての名前も尊厳も、今や「検体No.14」としての存在に吸収されてしまった。ノアの耳に届くのは、数字とデータと、制御される痛みだけ。


 精神的隔離も残酷だった。

 隣に人がいることも、目を見て会話することも許されず、昼も夜も、白と冷たい光の中で孤独に晒される。誰も触れず誰も声をかけず、存在が実験データに変換される。

 その中で、ノアの体も心も少しずつ自分の輪郭を失っていく。


 ノアは眠ることもできず、ただ白い天井を見つめながら、自分が生きる意味すら失っていく感覚を味わった。

 痛みと孤独は彼の体を蝕み、魂を白い壁と冷たい光に溶かす。彼の涙は誰の手にも触れられず、床に落ちて白いタイルに小さな濡れ跡を作るだけだった。


 ここでは夜の闇でさえも救いにならない。

 風のざわめきも、星の輝きも届かない。


 ノアは「人間」としての感覚を失い、ただの観察対象となった。

 温かさも、愛も、救いも、すべて遠く届かない世界。目の前の白は温もりを拒絶する氷のようだ。


 ノアは白く光る天井を見上げた。

 四方を白い壁に囲まれ、冷たく響く足音だけが彼の存在を確認するかのように反響する。

 昼も夜も、光は蛍光灯に限られ、窓の外に広がる空も星も、街の灯も、ここには届かない。すべてが遠く、手の届かないものに感じられた。


 彼の心の中にひっそりと、しかし鋭く浮かぶ想いがあった。


 ――イザナ。


 あの温かい胸に預けられた、かすかな体温。夜の丘の上で抱きしめられたあの感触。

 ノアはその温もりを、ここで閉ざされた無機質な白の中に、強く求めた。頭の中で繰り返すのは、ただ一つの願い。


「助けて……イザナ……」


 それは、あの夜の草原で最後に縋った「王子様」への、か細い哀願だった。


 しかし現実は無情だった。

 彼の声は吸音材を使われた、冷たい、厚い、白い壁に一瞬で吸い込まれるだけで、何の反響も返事もなかった。彼の心の中に響く空虚な沈黙。


 代わりに規則的に訪れるのは、皮膚を穿つ、注射の針の鋭い痛み。体内で暴れる薬の熱と意思とは無関係に体を捩じる痙攣。

 そして、それを鎮めるための、体を縛る分厚い革製の拘束帯の冷たさだった。摩擦で皮膚が擦り切れ、血が滲む。


 孤独と肉体の痛みは、夜ごとノアの骨の隙間、細胞の奥まで入り込み、かつて彼が知っていた家族や幼馴染との「温かさの記憶」を、霜のように徐々に、確実に侵食して凍結させていった。


 白い部屋の角で、小さく丸まる。

 体はわずかに震え、髪は乱れ、手のひらにかすかな汗が滲む。その指先で空気を掴もうとするが、そこには何もなかった。

 冷たいタイルの床は、彼の体温を奪い、肌に触れる光は刺すように白く、目に残るものはただ単調な光の反射だけ。


 それでも、心の奥ではあの温もりを思い描く。イザナが抱きしめたあの瞬間、丘の上の草の感触、冬の風の中で震える体、そして月光に照らされた微かな頬の温かさ。

 すべては今の孤独に反して、眩しい記憶として輝く。


「……イザナ……来て……」


 声は小さく、涙は冷たいタイルに滴り落ちる。だが、この部屋に反応する者はいない。

 ノアの存在は、ただのデータとして白衣の科学者に記録されるだけで、人間としての心を汲む者はどこにもいなかった。


 孤独、痛み、恐怖、絶望。すべて渦巻き、ノアの心を締めつける。しかし、彼の中にはまだ小さく、消えそうな光があった。


 触れられた温もり。囁かれた言葉。夜空の丘の光。

 それらがどれほど白い壁と無機質な光が支配する世界でも、彼の魂をかろうじて支えていた。


 ノアは目を閉じて体を震わせながら、わずかな希望にすがる。冷たい現実に押し潰されそうになりながらも、その胸の奥で、唯一の温もりに触れられる日を夢見る。


 ――いつか、イザナの元へ。

 夜の闇を突き抜け、再びあの丘の上に立ち、抱きしめられる日を。


 白い光と無機質な世界に閉ざされ、涙と痛みだけが日常となったノアの体は、小さな息とともに、静かに、しかし確かに生きていた。

 絶望の中で魂の片隅に光を保ち続ける――それだけが、彼の存在証明だった。

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