第20話 最初の報復

 イザナは焦土のように焼け尽くされた心を抱え、冷たい冬の街をまるで幽霊のように彷徨っていた。


 冬の風は、剥がれかけたポスターをまるで哀悼の旗のように残酷に、無感情に叩きつけた。

 鉛色の重い雲は世界から光を奪い去り、空を物理的に押し潰しているかのように見える。

 通い慣れた路地はすべて色彩を失い、血が抜けたようにモノクロとなり、世界全体がまるで、ノアのいない現実を永遠に続く葬送曲そうそうきょくで静かに悼んでいるようだった。


 そんな時、近くの空き地から子どもたちの騒がしい声がした。

 聞き慣れた、無邪気な笑い。

 だが、次の瞬間に耳を刺した言葉が、イザナの体を冷たい氷のように硬直させる。


「やったー、これでもう鬼ごっこ途中でやめなくていいね!」

「ノアくん、いなくなって嬉しい! 弱くて、いつもゲームの邪魔だったもん」

「ほんとほんと。つまんなかったもん、あいついると!」


 世界が音を失った。空気がぴんと張り詰め、すべてが異様に鋭く、幼いイザナの視界を締め付ける。周囲の景色がゆっくりと溶け、トンネルのように狭まっていく。小さな胸は激しく上下し、鼓動が耳を裂くように響く。

 世界が、あまりにも残酷で、手を伸ばしても届かない場所にあることを、初めて知った瞬間だった。


(邪魔……?)


 そのたった一言が、イザナの内側に残されていた理性の最後の鎖を確実に砕いた。

 ノアの存在を「無駄」と言い捨てる醜悪な声――その汚染に、理性の皮膜が乾いた音を立てて剥がれ落ちる。


 気づけば、イザナは自身の意志という枷を外し、機械的に歩き出していた。彼の足音は雪混じりの地面に吸い込まれ、息遣いさえも外界の冷気に凍りついて聞こえない。

 すべてが世界から切り離された、孤立した存在。ただ冷たい風が耳元を鋭く吹き抜ける中、彼は無音のまま、審判者のように空き地へと踏み込んだ。


 言葉は不要。警告も不要。


 一瞬の間もなく、イザナの拳が鉄の塊のように振り下ろされる。鈍い衝撃音が、雪混じりの空気に溶けた。

 ノアを侮辱した少年の顔が憎悪にねじれ、赤い飛沫が灰色の砂に無惨に散る。


 それでも止まらなかった。

 イザナは衝動に支配され、倒れた少年の上に馬乗りになったまま、何度も拳を振るった。怒りではなく、ただの空白。

 胸の奥に湧いた冷たい確信――「ノアを否定する世界は、すべて壊さなければならない」――その法則だけが、彼を機械のように動かしていた。



 暴行の衝撃音が止んだ刹那、甲高い悲鳴が堰を切ったように響き渡った。

 逃げ惑う子どもたちの靴音は雪混じりの地面を掻き立て、恐怖を撒き散らす。

 そして、恐怖に染まった大人たちの叫びが、凍てついた空気を鋭い刃のように切り裂いた。その混沌こそが、イザナの犯した罪が現実の世界にもたらした、最初の証明だった。


「イザナ! やめなさいッ!」

「この子が何をしたっていうの!」


 腕を掴まれ、力づくで引き剥がされ、泥と血にまみれたイザナが地面に押し倒される。

 泣き叫ぶ声、怒鳴り声、罵声。それらがすべて遠く、濁った水の向こうで鳴っているようだった。


 イザナは、無表情で大人たちを見上げた。

 その瞳には、恐怖も後悔もない。ただ、ひとつの純粋な疑問だけが宿っていた。


(……何が悪い?)


 ノアを侮辱した。ノアは奪われた。

 ならば、その口を黙らせるのは当然の報復だ。世界の方が狂っている。

 正義も道徳も、ノアを救わなかった。


 イザナの目は、怒鳴る親たちを氷のように見据えた。その眼差しには、もはや「子ども」という概念が残っていなかった。



 その瞬間、イザナは世界から切り離された。


 愛の喪失と共に、彼の中の神への信仰も、人間としての倫理の枷もすべて崩れ落ちた。

 残ったのはただひとつ。奪われたノアを取り戻すという、冷たく狂気じみた、闇の使命だけだった。







 警察や被害者への対応という世俗の濁流が一時的に引いた頃、イザナは家の奥の小さな部屋に呼び出されていた。


 部屋には、重い雨雲のような沈黙が張り詰めている。向かい合う両親の顔には、息子への愛情と、息子の犯した行為への恐怖が混ざり合い、言葉にならない疲労と、深く暗い影を落としていた。


「イザナ……どうして、あんなことをしたの」


 母の声はガラスのように震えていた。

 息子を責めるというより、自分の無力さを責めているようだ。父はそんな母をなだめるように肩へ手を置き、深く、諦めにも似た溜息を吐く。


「イザナ、お前がノアのことを大切に思っていたのは分かってる。だが――暴力は、いけない」


「そうよ。お母さんだって、あの子たちがノアくんを悪く言ったなんて、許せない。でもね……あんなこと、してほしくなかったの」


 母の声には、献身への理解と倫理的な後悔がねじれた鎖のように絡まっていた。

 イザナは静かに俯いたまま、泥と血のついた手を膝の上で強く握りしめていた。

 その手がまだ誰かを殴った冷たい熱を覚えているようで、微かに、しかし断続的に震えている。


「……ノアくんは、こんなの望んでない」


 母のその常識的な一言が、部屋の空気を完全に凍らせた。その瞬間、イザナの瞳から光がすっと消える。

 それは命の火ではなく、人間性の灯が消えた音だった。


 ――ノアは、もういない。


 イザナの内側で、彼らが信じる世界の全てが静かに崩れ落ちた。

 ノアが望むも望まないも、そんな次元はとうにあの炎の中で燃え尽きた。

 彼は金のために売られ、残された家族は死を選び、家は焼かれて虚無に消えた。

 この世界は、それをただ傍観していた。そんな世界の「正しさ」に、今さら何を語るというのだ。


 イザナは何も言わなかった。

 その口は、永遠に閉じられた墓石のように固く結ばれている。母が嗚咽にまじった涙声で彼の名を痛ましく呼びかけても、父が静かに、諦めたように彼の名前を呼んでも、返事は一切なかった。彼はただ、部屋の空気のすべてを吸い込み、その空気を冷たい、重い沈黙へと変質させて返す。

 それは、彼と世界の間に、もはや対話は成立しないという絶望的な宣告だった。


 彼の瞳は、もうこの家の壁や両親の顔を見ていなかった。彼の意識は、この場所に居ること自体が、どこか違う世界の出来事のように思えた。


 ――きっと、あの日の炎が、ノアの家だけでなく、自分の心も、人間としての感情の全てを焼き尽くしたのだ。




 その夜、イザナは決して眠らなかった。

 カーテンの隙間から夜明けの希望の光が冷たく差し込んでも、彼はまばたきをしなかった。心の奥底で、純粋な愛も友情も倫理もすべてが確実に死んだのを、彼自身が一番よく知っていた。


 残ったのはノアを取り戻すという呪いと、世界への憎悪だけだった。











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