第15話 破壊の口づけ

 ノアは引き金に指をかけた。心臓の鼓動が止まる。時間そのものが粘度を増してねじ曲がる。


 非常灯の赤き警報が、深淵の闇の中で、ふたりの影を断続的に、血の警告のように照らし出す。その狂乱の閃光が、ノアの銃口に宿る冷たい銀を、まるで獲物を狙う獣の瞳のように鈍く、そして有無を言わさぬ冷徹さで光らせた。


「これ以上――俺に近づくな」


 低く、押し殺された声が空間に溶ける。

 それは恐怖ではない――理性の糸が音を立てて解ける瞬間、残された最後の警鐘のような響きだった。


 イザナは一歩も止まらず、ただその気配を踏み越えて近づく。唇の端に薄く浮かぶ笑みは、抗う力を奪う甘い諦観の香りを帯び、暗闇の中で彼だけが放つ光のように、逃れられぬ支配を示していた。


「ノア。お前は、俺を撃てない」


「やってみるか」


 ノアの声が怒りによってわずかに震える。

 銃口が、イザナの額の中心を正確に、逃さないように捉えた。



 次の瞬間。


 イザナの姿が残像もなく、ふっと闇に溶けるように掻き消えた。

 ノアの視界の端が、重力異常を起こしたように大きく揺らぐ。――そして脳が処理を終える間もなく、ノアの背中は冷たい壁に激しく押しつけられていた。

 冷たい金属の銃は、イザナの動きによって無慈悲に弾き飛ばされ、ノアの指先から重力を無視したように音もなく離れた。


 息が詰まるほどの距離で、イザナの手がノアの顎を容赦なく持ち上げた。

 その目は燃える炎ではなく、光を全て飲み込む底の見えない深淵の色をしている。


「殺せるなら殺せ。だが、撃つより先に――俺が、お前を壊す」


 ノアが息を飲んだ瞬間。イザナの唇が、勢いのまま荒々しく重なった。


 それは、優しさという概念が一切介在しない、暴力的な口づけ。

 静謐でありながら荒々しく、まるで激しい戦闘の延長線に組み込まれた支配の儀式。

 硝煙と火薬の匂い、そして掠れた血の匂いがふたりの間で渦を巻きながら交ざり合い、世界の音は深海の奥へと吸い込まれていった。


 ノアは抵抗しようとした。だが、両腕を強固に掴まれたまま動けない。

 イザナの指先が、ノアの感情を映すように微かに震えていた。それは激情のせいではない。

 恐怖のようなもの――それを隠すように、イザナはさらに深く、ノアを口づけで支配した。



 数秒か、数分か、時間の概念が消えた。


 唇が離れた時、ノアの瞳に、激しい怒りと混乱と、そしてほんの一滴の、自己を失った迷いが滲んでいた。


「……それが、お前の止め方か」


 かすれた声で言う。


 イザナは答えず、ただノアの熱を持った頬に指を滑らせた。


「お前が銃を構える限り、俺はこの方法で止める」


 穏やかな声で、しかしその瞳の奥では、決して折れない狂気が静かに、溶岩のように燃えている。


 ノアはその視線を逸らした。

 反抗心が一瞬、折れた証。その一呼吸の間に、イザナの支配的な腕が彼の肩から離れる。


 だが、空気はまだ熱を孕んでいた。ふたりの間に漂う沈黙は、戦いの余韻ではない――それは、まだ終わらない、歪んだ執着の始まりだった。


 ノアが乱れた呼吸を整える間もなく、イザナは氷のような静けさを纏い、抗いがたい一歩を踏み出した。


「……帰ろう、ノア」


 そうまるで自分自身に言い聞かせるように呟いた瞬間、ノアの視界が唐突に暗転した。

 イザナの指先が、首筋の極めて繊細な神経を躊躇なく、しかし正確に打ち抜いていた。


 意識が深い闇の底へ落ちる刹那、ノアの唇から微かに零れたのは、支配への反発でも肉体の抵抗でもなく――「なんで、俺なんだ」という、自身の存在がイザナに求められ続ける理由を問う、切実な問いだった。


 闇の底で、世界の全ての音が遠い潮騒のように静かに遠のいていった。







 イザナがノアを連れ戻した、激動の夜。


 ノアを自室の、清潔なシーツのベッドに細心の注意を払って静かに寝かせた後も、決して安堵しなかった。

 イザナは部屋の隅にあるレザーの椅子に深く腰かけ、孤独な儀式のように静かに煙草をくゆらせていた。


 細く立ち昇る煙は、夜の静けさの中で青白い幻影を描き出す。その揺らめく煙の向こうに、遠い過去の情景がまるで水彩画のように滲み始めた。イザナの視線はノアの穏やかな寝顔に注がれているが、その瞳の奥には、彼自身を縛りつけて離さない、忘れることのできない「あの日」の残像が映し出されていた。



 ――すべては、あの日、ノアが彼の世界から消えたことから始まった。










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