第5話 紫宸殿の桜宴、香りの攻防
朝露が乾く頃、内里の紫宸殿(ししんでん)周りは既に賑わい始めていた。薫子は卯の刻(午前6時)に起き、昨日調えた「梅の淡香」を香爐に入れて火をつけた。清らかな香りが桐の間に広がり、昨夜の緊張が少し和らいだ。彼女は十二単の薄紅の着物を着せ替え、髪には八重桜の簪を差した——この姿が、今日の宴で帝の目に止まるのか、心はまだ掴めなかった。
「薫子さま、お待たせいたしました」
戸の外で明姬の声がした。開けると、明姬は珍珠の簪に添えて翡翠の装飾をつけ、上品な雰囲気をさらに引き立てていた。その傍らには陵子が立っており、薫子が買っていた青い京染の着物を着て、少し緊張して手を握り締めている。
「陵子さんの着物は、本当にきれいです」薫子は微笑んで言う。陵子の香りを嗅ぐと、昨日の不安が薄れ、少し「希望の淡い香り」が混ざっていた。
「ありがとうございます……薫子さまのおかげで」陵子は顔を赤らめて頷き、明姬と交わす視線にも自信が戻っていた。
三人が紫宸殿に向かう途中、廊下には各氏族の更衣や女官が列を成している。源氏の華子(はなこ)が、赤い十二単に金の装飾をつけて最も前に立ち、周りの人々の視線を独り占めしていた。彼女の袖からは「濃い麝香の香り」が漂ってきて、周りの更衣たちの香りを一気に圧倒している——これは、意図的に他者を無視させるための香りだ。
「藤原の者たちは、遅いものだね」華子は首を回し、薫子たちを見つけて冷笑した。「旁支の薫子さんも来たの?今日の宴で、和歌を詠める自信があるの?」
「自信はありませんが、一生懸命させていただきます」薫子は静かに応えた。華子の香りの中に、「傲慢さと敵意」が強く感じられるが、今は争いを避けるのが賢明だと判断した。
明姬が薫子の肩に手を置き、華子に向かって言う。「華子さま、宴が始まる時間です。帝がお待ちかもしれません」
華子は鼻を鳴らし、先に紫宸殿に入った。陵子が薫子の袖を軽く引くと、小声で囁いた。「薫子さま、華子さまの香り……怖いです」
「大丈夫です」薫子は手を陵子の手に重ねる。「私の梅の香りが、麝香を中和してくれるから。香りは、時に敵を倒す武器にもなるのだ」
紫宸殿の中は、天井に絵の巻物が掛けられ、卓は南北に並べられていた。中央の高い座には清和帝玄凌(せいわ・げんりょう)が、黒い束帯を着て座っていた。帝の顔は厳しく、目つきは鋭いが、額の皺からは疲労が隠せない——これは、政务に追われて休息が足りない証だ。
宴が始まると、各氏族の更衣が順番に和歌を詠み、香道を披露した。華子は「麝香の香り」を焚きながら、「春の野に桜が咲く」という華やかな和歌を詠んだ。帝は頷いたものの、眉を微かに寄せていた——麝香が強すぎて、頭痛を誘っているようだ。
「次は、藤原薫子さん」
呼ばれた薫子は、持ってきた香爐を卓の上に置いた。梅の淡香が徐々に殿内に広がり、麝香の濃さが和らぐと、帝の眉が緩んだ。
「この香りは……」帝は目を開き、薫子の方向を見つめた。「純元皇后が生前、嵯峨野の別荘で焚いていた香りに似ている」
薫子は心を落ち着け、事前に練習した和歌を詠んだ。「嵯峨の梅、雪に埋もれても、香りは春を待つ」
和歌が終わると、帝は少し笑顔を見せた。「『雪に埋もれても香りを保つ』——藤原の者は、芯が強いのだね」帝の香りを嗅ぐと、厳しさの中に「懷かしみの淡い香り」が混ざっていた。純元皇后の思い出が、この梅の香りで蘇ったのだ。
その時、明姬の侍女・ミツコが、明姬の卓に香り袋を置いた。「明姬さま、本家から『鎮魂香』をお届けいたしました。麗子さまが、明姬さまが緊張しないように……」
薫子の鼻先に、突然「腐った桜の香り」が漂ってきた。これは、昨日の香材に付いていた黒い粉と同じ香りだ!薫子は即座に明姬の腕を掴み、小声で言う。「明姬さま、その香り袋を触れないで!中に『眠れる草』の粉が混ざっています!」
明姬は驚いて顔を上げる。ミツコが慌てて香り袋を取り戻そうとすると、温香雅がその手を掴んだ。「ミツコさん、この香り袋を讓ってください」温香雅は香り袋を開け、指で粉を取って嗅いだ。「確かに『眠れる草』です。摂ると半日以上眠り続ける毒草です」
殿内が騒ぎ始まった。帝の目が鋭くなり、ミツコを見つめる。「この粉は、誰が入れさせた?」
ミツコは跪き、震えながら答えた。「……麗子さまです!麗子さまが『明姬さまと薫子さまを桜の宴に出られないように』と、命令しました!」
明姬の顔が青ざめた。「麗子……なぜ?同じ藤原氏でありながら……」
「本家の麗子さまは、明姬さまが帝の目に止まることを嫌っています」温香雅が静かに补充した。「さらに、薫子さまが純元皇后に似た香りを持っていることを知り、先に除こうとしたのだろう」
帝はため息をつき、侍に命令した。「麗子を召喚せよ。同族の者を害するなど、藤原の名を汚した。内裏から追い出す」
ミツコが連行された後、殿内は一時的に静まった。明姬が薫子にお辞儀をした。「薫子さま、ありがとうございます。もし薫子さまが気づかなければ……」
「明姬さまは悪くないです」薫子は微笑んで言う。「裏切ったのは麗子さまだけです。今後も、一緒に宮廷で生き残りましょう」
陵子がその場で和歌を詠み、緊張しながら帝に捧げた。「青の染に、桜の花びらを混ぜて、心を伝えます」素朴な和歌が帝の笑顔を誘い、「平の者でも、心のこもった和歌は良いものだ」と褒めた。陵子の香りに、「感謝と自信」が満ち始めていた。
宴が終わると、帝は薫子を呼び止めた。「薫子さん、明日の朝、御花園で梅の香りを聞かせてくれないか?政务の疲れを癒やすために」
「はい、ございます!」薫子は驚いてお辞儀をした。帝の香りに、「期待の淡い香り」が混ざっている——これは、宮廷での最初の勝利だった。
帰る途中、明姬と陵子が薫子を祝ってくれた。だが、薫子は廊下の隅で、華子の侍女が置いたと思われる小さな箱を見つけた。箱を開けると、赤い花びらが入っていて、「苦い毒の香り」が漂ってきた。これは「紅葉狩の毒」と呼ばれるもので、長く嗅ぐと肺を傷める——華子が、宴での敗北を恨み、新たな罠を仕掛けていたのだ!
薫子は箱を閉め、温香雅に渡した。「温香雅さん、これを内薬司で調べてください。華子さまの仕業だと思います」
温香雅は箱を受け取り、厳しい表情で頷いた。「承知いたしました。薫子さまは今後も、華子さまの行動に気をつけてください。彼女は、負けたことを認めない性格です」
夜が深くなり、桐の間に戻った薫子は、梅の淡香を再び焚いた。帝の約束に胸が躍る一方、華子の毒と本家の裏切りが、今後もどれだけ襲い来るか不安だった。
その時、窓の外で桜の花びらが舞い落ちた。月光が花びらを銀色に染め、薫子の八重桜の簪と重なった。彼女は《和香秘録》を開き、「毒香を避ける法」の章を読んだ。紙面には「敵の香りを知れば、防御は半分成功する」と書かれていた。
明日の御花園で、帝との約束を果たすために、まずは華子の新しい罠を見破らなければならない。だが、華子は既に、明日の会に何を準備しているのだろう?
薫子は香爐の火を鎮め、明日の準備に入った。内里の夜は静かだが、その静けさの裏に、新たな危機が蠢いていた。
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