第11話 職員旅行と家族旅行、どっち行く?

 「先生、職員研修旅行の参加確認です」


 放課後の職員室。コピー機の排紙トレイに両手を乗せて、紙が出てくるのを待っていた俺の背中に、氷を押し当てるみたいな声が降ってきた。教頭・鵤。今日もネクタイは直角、笑顔は最低限、語尾だけがやわらかい。


 「行き先は温泉。集合は金曜の午後。出発前に校内研修、翌朝は現地でケーススタディ……」


 読み上げられる紙の項目の一つひとつが、コピー機の白い光に照らされて、いちいちきれいだ。きれいだけど、いま俺の頭の中はもっと派手な予定で埋まっている。


 ――双子との遊園地、金曜。


 日付が、ぴたりと重なる。いやな重なり方だ。重ね寿司のネタが全部わさびだった、みたいなやつ。


 「参加、可でよろしいですね」


 「行けません」


 口が先に出た。鵤の眉が一度だけ小さく跳ねる。


 「家庭の都合?」


 「家族旅行です」


 「……家庭優先か」


 皮肉の角を丸めて、やさしい言い方で刺してくる。言い方がやさしいほど、刺さる。俺はプリントの束を受け取りながら、正面から刺さるのを受け止める姿勢を整えた。


 「はい。事前に授業計画、提出します。留守の間の分掌業務は雨宮先生に引き継ぎ済みです」


 「……そう」


 鵤は短く頷いて、チェック欄に×をつけた。×は、見慣れた形のくせに、いつ見ても胸の裏に嫌な汗を作る。彼が去ったあと、プリントの束がやけに重く感じた。紙が重くなる魔法、学校には多い。


     ◇


 帰宅。玄関の扉を開けた瞬間、双子の声が飛んできた。


 「パパ、ジェットコースターの動画見て!」


 「パパ、わたしはメリーゴーランドで王様!」


 王様なのか。馬に乗って王様なのか。細かいところは後回しにして、俺は靴を脱ぎながら笑った。リビングではユメがレシピ本を開き、隣のモニタで遊園地のYouTubeを流しつつ、包丁をトントン鳴らしている。包丁リズムに合わせて双子が謎のダンス。家の光は温かい。温かいけど、言うべきことは言う。


 「遊園地、金曜、行こう」


 「いくー!」


 双子の返事は、いつも完璧にそろう。ユメは包丁を止めずに、目線だけ動かして俺を見る。


 「で、職員のほうは?」


 「温泉。温泉は逃げない。遊園地は、今だ」


 「パパ、仕事と家族、両方行けば?」


 「分裂できねえよ」


 「じゃあ、リモート」


「旅行でリモート!?」



 「できるよ。編集機材持って行けば。温泉宿はWi-Fi速いとこ、探す」


 「温泉宿に配信ミキサー持ってくやついるか」


 「ここに」


 ユメの人差し指が自分の鼻先をちょんと指した。強い。強すぎる。強い人の提案は、だいたい現実に勝つ。


 「でも、さすがに現地からZoomは……」


 「やらないよ。“連絡は即レス・成果は即提出”で気配だけ出す。現地に行ったかのように見える“働き”をする。編集は夜、双子が寝てから。寝かしつけは交代」


 「寝かしつけ、俺がやる回数が増えるやつだな」


 「パパ先生の読み、正解です」


 正解。甘い罠だ。俺はソファに腰を落とし、双子のダンスを眺めながら内心の家族会議をすませた。


 結論――家族旅行に行く。仕事は、やめない。やめずに、持ち込まずに、やれることを先回りで終わらせる。学校のプリントを広げて、付箋を貼りまくる。タスクを細かく切って、朝の電車と昼休みと夜の十分で消化する。やれる。やる。


     ◇


 翌日。職員室の空気は、わかりやすく二層に分かれていた。行く派と、行かない派。いや、行きたいけど行けない派もいて、層はもっと細かく分かれている。雨宮先生が俺の机に寄ってきて、声を落とす。


 「鵤の“……家庭優先か”って顔、食らった?」


 「正面から」


 「正面からは、偉い」


 「痛かった」


 「湿布貼っとく」


 ペタ、とポストイットが机の端に貼られる。そこには丸文字で「おみやげ話」と書いてあった。物じゃなくて、話。いい言葉だ。俺は貼り替える。自分のノートの表紙に。


 反対側から、数学の笠松先生が鼻を鳴らす。「若いのはええな。家族と遊園地だと。わしも孫と……いや、研修や」


 口ではそう言いながら、目の端が少し笑っている。大人は、顔と口のどっちかが正直だ。今日は目のほうが正直だ。


     ◇


 出発の朝。駅の改札で双子と手をつなぐ。小さな手の熱は、列車の出発ベルより確かだ。ユメはリュック+ショルダー+謎の箱(ミキサー……)で、ふつうに旅人の装備を完了している。


 「チケット、点呼!」


 「はーい!」


 「おやつ、点呼!」


 「はーい!」


 「宿題、点呼!」


 「えー!」


 最後のだけ声が小さい。よくできました。快速に乗り込み、窓の外がすべる。双子の実況が始まる。「電車のひと、ねてる」「あの犬、駅のかおしてる」。駅の顔の犬ってなんだ。笑いながら車内アナウンスに耳を貸し、そのあいだに学校宛の連絡を一本入れる。研修資料の事前確認・代替案・週明けの報告書フォーマット。鵤へのメールは短く、でも必要な情報は過不足なく。送信。届いた。


 遊園地に着いたら、もう空気が違った。音が馬鹿みたいに多い。歓声、機械の唸り、ポップコーン、石畳の靴音、遠くのショーの音楽。人が多い場所の音は、最初はうるさいが、だんだん背景になる。背景にする練習は学校でも役に立つ。双子は背景を前景にする達人で、看板のキャラクターを見つけては手を振り、スタッフに「いらっしゃいませ」されては「おじゃまします」と返す。礼儀の方向が独特だ。


 最初の絶叫マシンは、身長制限の壁に双子が立ち、リコがぎりぎりで通過、ラコが紙一重でアウト。ラコの口がへの字になる。ユメがしゃがんで目線を合わせ、あっさり言った。


 「ラコは観覧車の王様になろ?」


 「王様?」


 「うん。王様は上から世界を見る。下の崖で戦うのは兵隊。王様だから、今日は観覧車の王様」


 「王様は、たかいとこ、こわくない?」


 「王様だから」


 「じゃ、ラコは王様」


 切り替えが早い。さすが我が子。俺とリコは絶叫の列へ、ユメとラコは観覧車へ。列の途中、リコが手の中で細い紐を弄りながら聞いてくる。


 「ねえ、パパ。先生なのに遊んでいいの?」


 「先生だから、遊んでいいんだよ」


 「なんで?」


 「遊びって、“生きてる”練習だから。本番より安全で、本番より自由。でも、ちゃんと本気出したら、練習じゃなくて本番になる」


 リコがきょとんとした顔で、うん、と小さく頷いた。後でユメに「あそこ、録音したかった」と言われるやつだ。言葉は出るときにしか出ない。出たときに、拾える人が拾ってくれれば、それでいい。


 コースターは、死ぬほど速かった。風は容赦がない。曲がるし、落ちるし、急に止まるし、唐突にまた走り出す。人生だ。リコは最初に叫び切り、途中から笑って、最後は無言でガッツポーズ。偉い、と思う。俺は降りた瞬間、膝が笑った。膝が笑うのは、笑えるうちが華だ。


 昼。外に出る売店の焼きそばの匂いは、学校の文化祭と同じ味がする。ユメが日陰を取り、俺は列に並ぶ。ソース、マヨ、青のり。双子は紙コップのジュースをこぼしかけて、ぎりぎりで持ち直す。持ち直すのも練習だ。昼のテーブルでユメがスマホを開き、ちょっとだけ眉をしかめた。


 「研修のチャットで、資料の差し替え。パパ、五分でできる?」


 「やる」


 ベビーカーの影にノートPC、ポータブルバッテリー、テザリング。ユメが風よけになり、双子が紙の資料を抑える。家族が防風林。ちいさな編集、ちいさな差し替え、ちいさな送信。これで現地の先生が困らないなら、やる価値は大きい。数分後、鵤から「受領」の返事。句読点なし。句読点のない“受領”は、今日のところは合格点だ。


 午後。王様の観覧車に乗って、ラコが世界を見下ろす。「あれ、わたしの小学校よりおおきい」「あれ、パパの学校?」。違うけど、たぶん明日からはパパの学校にも見える。リコはショーで踊るアニメキャラの振り付けを完コピし、俺はそれを撮る。カメラロールの中に、今日がどんどん増える。増えた分だけ、たぶん俺は明日の授業で語れる。


 夕方、遊び疲れた足で温泉宿へ。畳の部屋。布団は白い海。双子は海に飛び込み、三分で寝た。早い。王様の寝息は偉そうだ。湯上りのユメと二人、麦茶で乾杯。


 「先生、今日、どっちが大事だった?」


 「家族」


 「それで正解」


 「でも、職場に嫌味言われた」


 「その人、家族いないの?」


 「いや、いるけど」


 「じゃあ、その人の“家族との時間”を、誰かが守ればいい。パパが今日やったのは、たぶんその役。自分の家族を守りながら、職場の“だれかの家族時間”も守る。そういう順番の日もある」


 ユメはそう言って、俺のグラスに麦茶を注ぎ足す。畳がひんやりして、障子に月が丸い。静かな時間は、音がよく通る。心の中の独り言も、よく聞こえる。


 「“やめたやめた”って、仕事をやめる意味じゃない。自分を責めるの、やめたって意味でもいい」


 ユメの声は、月よりやわらかい。俺は頷いた。責めるのをやめる、と、呼吸がスッと入る。入った呼吸が、体の隅まで届く。届くと、眠くなる。眠れるのは、勝ちだ。


 夜更け、寝息のリズムに合わせて小さな仕事を一本だけ片づけ、ミキサーをそっと閉じる。画面の中の世界の音量をゼロにして、部屋の音を最大にする。風の音、廊下の板の鳴る音、双子の寝返り。いい宿だ。


     ◇


 帰宅後。月曜の学校の空気は、少し冷たかった。冷たさは、たぶん湿度のせいだ。たぶん湿度のせいにしておく。職員室のドアを開けると、鵤がひとつだけ頷いた。頷かないより、ずっといい。雨宮先生が「温泉の代わりに、土曜に足湯行く?」と肩で笑う。足湯、行く。予定の表に小さく書く。


 教室に入ると、生徒の目が違っていた。


 「先生、遊園地行ったんでしょ」


 「うん。なんで知ってんの」


 「リコちゃんの動画。“先生は遊びもまじめ”って書いてあった」


 「あいつ、勝手にハッシュタグ作るんだよな」


 笑いが起きる。笑いが、今日の授業の最初の油になる。黒板の前に立ち、チョークで大きく書いた。


 《遊びもまじめ》


 「今日の国語。遊びについて、まじめに説明せよ。三分で、例をひとつ。例は今日の自分の生活から。嘘は書くな。盛ってもいいけど、盛りすぎるな」


 「先生、それ国語っすか」


 「国語だ。言葉にできたら、だいたい国語だ」


 ざわざわしながらも、手が動く。鉛筆の音が机の板に小さく跳ねる。ミオが手を挙げた。


 「なんか今日の先生、楽しそう」


 「そりゃあ、遊園地帰りだからな」


 また笑い。笑いは二回目の油。タクミがペンをくるくる回して、ニヤリとする。


 「“遊びは生きてる練習”。今日の名言、先生のショートで出しましょう」


 「やめろ、照れる」


 「照れの切り抜き、伸びます」


 クラスに小さな火が回る。発表。最初のやつは「ゲームでタイムアタックやった。三回目で更新できた。集中の練習」。次は「妹とごっこ遊びした。交代で役を決めた。交渉の練習」。次は「部活の先輩とふざけた。空気を読みすぎない練習」。言葉が出る。出る言葉は、思ったより具体だ。具体は強い。


 俺もひとつ、例を出す。


 「先生は週末、観覧車の王様を見た。高いところが怖い子が、“王様だから”って言われて、王様になった。王様になる練習は、将来、別の場面で効く。呼び方を変えると、世界の取っ手が変わる。そういう遊び方、できる人になってくれ」


 ミオが笑って、ノートに「王様=呼び名の魔法」と書く。書いた字は真っ直ぐで、今日の空気も真っ直ぐだ。


     ◇


 昼休み。廊下の突き当たりで鵤と出会う。彼は立ち止まらず、しかし短く。


 「温泉の代わりに、わたしは昨日、子どもの運動会に行った」


 「それは、良いです」


 「“家庭優先か”と言ったのは、皮肉だった。訂正する。“家庭優先でいい”」


 「ありがとうございます」


 鵤はそれ以上言わず、歩き去った。言いすぎない大人は、案外やさしい。背中の四角いスーツが、ほんの少しだけ丸く見えた。


     ◇


 放課後。黒板の端に今週の名言を貼るスペースがある。今日はそこに、少し長い言葉を貼った。白い紙、黒い字。


 《遊びは、未来の本番の練習。だから、手を抜かない。それでも失敗して笑えるのが、遊びの権利。》


 タクミがそれをスマホで撮り、ミオが生活ノートの最後のページに小さく書き写す。笠松先生が通りかかって、「遊びで培った集中が、受験で効く」とぽつり。数式より短い言葉が、今日は教室に長く残る。


 帰り道。昇降口のガラス越しに空が赤い。靴箱の上に置き去りにされたメモ用紙に、誰かが鉛筆で書いている。


 《先生、王様になれました(観覧車)》


 雑な字。雑な字は、だいたいほんとうだ。俺はその紙を手帳に挟み、外へ出る。秋の風が首筋を通り抜ける。風はどこから来て、どこへ行くのか。そんなことを考える余裕がある日は、だいたい勝ちだ。


     ◇


 夜。家。双子は風呂上がりの牛乳で口の端に白いヒゲを作り、俺はその写真を撮る。ユメは配信のサムネを作りながら、ぼそっと聞く。


 「パパ先生、今日の先生は何点?」


 「百点満点で七十八点」


 「高い」


 「職員旅行に行かなくて、後ろめたさゼロじゃない。だから二十二点は宿題」


 「残りは?」


 「明日、教員室で“褒め切り抜き・教員版”をやる。鵤の提案」


 ユメが目を上げて、ゆっくり笑う。


 「いい上司、いるじゃん」


 「うん」


 「パパの今日の名言、もう一回」


 「遊びは生きてる練習」


 「それ。ショートで十秒。パパの声で」


 「やめろ、照れる」


 「照れるのは、効いてる証拠」


 ユメはそう言って、俺の額を指で軽く弾いた。こつん。いい音がした。


 寝室へ行く前、壁の時計が一瞬だけ逆回転した。秒針が、ぐるりとひと目盛り、戻る。すぐにまた進み出す。慣れた。驚きは小さくなった。けれど、毎回、意味はある。


 ――“やめない”を選ぶチャンスの合図。


 俺は時計に向かって、指でちいさく丸を作る。


 「OK、続行」


 布団に潜り、目を閉じる。瞼の裏に、観覧車の夜景が浮かぶ。王様の座席の革の感触、窓ガラスの冷たさ、双子の寝息、ユメの麦茶。どれもぜんぶ、明日の教室の言葉になる。遊んだぶんだけ、教えられる。教えたぶんだけ、遊べる。そういう循環の中で、針は今日も進む。進みながら、時々、立ち止まるふりをして、俺に合図を出す。


 やめない。やめたやめた、は、自分を責めるのをやめた、の合図にしておく。そう決めて、眠った。秒針の音は遠く、すこしだけやわらかかった。

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