第6話 辞表の書き方を教えてください
午前二時。世界がいちばん静かで、考えごとだけがやたらうるさい時間。机の引き出しの奥から、いけない言葉が顔を出した。“辞表”。紙なんかどこにもないのに、そこにあるみたいに、はっきり。
スマホの画面には、みっともない検索履歴がずらりと並んでいる。《辞表 書き方》《新任 やめたい》《先生 逃げ方》。スクロールする指が止まらない。指は、心よりも先に現実へ向かう。逃げ道の形を探しあてて、ここから遠くへ連れていってくれるはずの、魔法の地図を欲しがっている。
「やめたやめた」って言えば、世界は止まってくれるのか。職員室のコピー機は俺がいなくても紙を吐くだろうし、教室の黒板は俺が書かなくても白い。学校は回る。回るようにできている。じゃあ、家は? 俺がいなくても、ユメは配信を回せる。双子はきっと笑う。笑うための筋肉を、すでに持っている。俺は何だ。何の部品だ。換えはきくのか。きく、と言ってしまうと、胸の内側がスースー冷える。
そこまで考えて、スマホをそっと置いた。置いた瞬間、肩の力が少しだけ抜けた。考え続けるより、置く。置いて、呼吸。吸って、吐く。この家の夜は、ちゃんと呼吸の音がする。寝室から、寝返りの小さな気配。廊下を流れる空気。窓の外の遠い車の音。
背中に毛布がふわりとかかった。ユメだ。いつのまに、と問う前に、彼女は当たり前のようにそこにいる。
「寒い?」
「うん。……ちょっと」
「辞表、書く?」
声が優しかった。責めない。引き止めない。逃げ道を塞がない。塞がないから、逆に立ち止まれる。
「わからない。やめたい。やめたくない。どっちもある」
「じゃあ、どっちも書いてみる?」
「どっちも?」
「“やめたい理由”と“やめない理由”。両方、紙に出して。見比べて決めよ」
ユメはペンとメモ用紙を持ってきて、何も言わず机の上に置いた。置かれた瞬間、行き場のなかった考えが、紙の上に座れるようになる。紙は偉い。載せる場所があるだけで、軽くなる。
俺はペンを握った。握った手が、ほんの少し震えた。震えは悪くない。生きてる証拠。
《やめたい理由:怒鳴り声/プリント山/数字至上主義/俺が高校生(主観)/怖い/人の目/教頭の灰色/出席簿の冷たさ/帰宅すると胸の奥の空洞が喋る》
書いていると、言葉が勝手に増える。怒鳴り声、の隣に、声の高さが書き加えられ、プリント山の横に、紙の角で指を切った回数が増えていく。数字至上主義、と書いたところで、数字そのものは悪くないことを思い出し、矢印で「数字の扱い方」と補足した。俺が高校生(主観)。これは事実。感覚の事実。怖い。短い言葉ほど、重い。
次に、もう一枚。
《やめない理由:タクミの編集/ミオの生活ノート/双子が“先生ごっこ”/ユメの笑顔/今日の拍手/黒板消しの粉の雪/体育館の床の木目/保健室の絆創膏/参観日の小さな「すきになる」/雨宮先生の雑な優しさ》
書きながら、指先があったかくなる。思い出は、体温を持っている。タクミのヘッドホンの跡、ミオの震える字、双子の丸い“先生”、ユメがライトを落とす前の深呼吸。今日の拍手。小さくて柔らかい音。柔らかい音が、耳の奥でまだ鳴っている。
書き終えると、紙の重さが違って見えた。やめたい紙は、湿っていて、冷たい。触ると指が少し冷たくなる。やめない紙は、しわくちゃで、手垢がついている。汚れているのに、捨てづらい。汚れているぶん、誰かの手が確かに通った感じが残る。
「どっちが好き?」
ユメが問う。選び方がうまい。正しいかどうかじゃなく、好きかどうか。
「……こっち」
俺はやめない紙を持ち上げた。すこし重い。重さは、嫌いじゃない。
ユメはにっこり笑って、俺の指を握った。握る力は強くも弱くもない、ちょうどいい。
「なら、朝まで預かる。やめたい紙は、わたしが“家のゴミ”にする。明日は先生の仕事、わたしは配信。お互い、やることやろ」
「ありがとう」
「どういたしまして。先生」
寝室に戻ると、双子の寝息が波のように押し寄せてきた。小さい波が交互に寄せては返す。布団にもぐり、目を閉じる。目を閉じる直前に、机の上の二枚の紙が重なって見えた。重なって、少しずれて、どちらも見える。見えるまま、眠りに落ちた。
翌朝。学校の空気は、えらく角張っていた。提出物の未回収、机の落書き、スマホの横向き。教室の天井の蛍光灯が一本だけチカチカしている。音はしないのに、うるさい。俺は黒板の前に立った。腕を組んだり、腰に手を当てたり、格好をつけたくなるのを抑える。格好より、言葉。
「今日は、掃除をします」
一瞬でざわめき。笑うやつ、露骨に嫌そうなやつ、聞こえてないふりのやつ。だいたい、全部いる。全部いて、教室は教室になる。
「は?」「なんで?」
「国語の授業だ。言葉には“前置き”が要る。ここは、汚い。だから、前置きを作る」
言いながら、黒板の端に積まれていた雑巾を取る。冷たい。バケツの水は、すでにぬるま湯から遠い。俺は先頭で床を磨いた。膝をついて、力を込めると、床の木目が顔を出す。木目は、掃除すると嬉しそうだ。なんとなく、そう見える。
沈黙の数分。最初の数分は、だいたい沈黙だ。沈黙の裏で、頭の中の言い訳が生まれては消える。「掃除は掃除係が」「授業時間が」「国語は読むもの」。言い訳に正論を混ぜると、説得力が増す。増すけど、今は聞かない。今必要なのは、音だ。擦る音、絞る音、窓が開く音。
やがて、一人。椅子が引かれる小さな音。二人。足音。タクミが黙って黒板の上端を拭く。脚立を使わず、背伸びで届くギリギリの高さ。腕の筋が細く浮く。ミオが窓を開ける。金具が少し渋い音を立てる。風が入る。風は、掃除の仲間だ。廊下のほうでは、誰かが気になってのぞいている。のぞき見は、たいがい好意だ。
「天野、なにやってる」
教頭の声。灰色のスーツが廊下の光を受けて、少しだけ白っぽい。扉のところに立ち、眉間に皺。視線は冷たいが、目だけは少し興味がある顔。興味を否定するのが、管理職の技術。
「国語です」
「掃除じゃないか」
「言葉の前置きです」
毛細血管みたいに細い沈黙が、教室の隅々まで広がる。俺は視線を逸らさなかった。逸らさないまま、喉の奥で「飲むな」と自分に命令する。言葉が出てくる前に、飲むな。
「授業は、整った場所でやります。整えることも、授業です」
言い終えて、腹筋の奥で何かが鳴った。こわい。こわいけど、言った。こわいと、言ったことは、両立する。
しばしの静寂。教頭は舌打ちを飲み込み、肩で息をひとつして、去った。去る直前、教室の床を一瞥した。木目が出ている。出ている木目を、出ているものとして見る目だった。ゼロじゃなかった。
掃除が終わる頃、教室がほんの少しだけ明るく見えた。蛍光灯は相変わらずチカチカしているのに、明るい。床が光を拾い、机の脚が音を立てずに動く。雑巾を絞る最後の水を、窓の外に流す。風がそれを奪っていく。
「じゃあ、はじめよう。今日の詩は短い」
チョークを持つ。指に白い粉がつく。粉は雪みたいに積もらない。指先にだけ残る。黒板に三文字。
《再 始 動》
チョークの音が、教室に芯を通す。俺は一文字ずつ、ゆっくり読み上げた。
「再」
「始」
「動」
子どもたちの声が重なる。重なって、少しズレて、また重なる。声のぶつかるところに、意味が濃くなる。タクミが笑わない口元で笑い、ミオが目を細める。黒板の下の粉が、さっきより少し少ない気がした。
詩は短いが、短いからこそ、余白が仕事をする。余白に、各々の今日が入る。黒板をゆっくり消す。粉が白い尾を引く。尾が消えたところだけ、少し涼しい。
授業の終わり、ミオが近づいてきた。ポケットの中で何かを握っている気配。彼女は目線を上げたり下げたり、決めきれないまま、やっと机の前で止まった。
「先生、……掃除、手伝ってごめん。授業、サボったみたいで」
「ありがとう、だよ」
俺は即答した。ミオはうつむき、ポケットから折り目だらけの生活ノートを取り出した。「昨夜、書いた」。表紙の角が擦り切れて丸い。開くと、震える文字で日々の時間割が記してあった。
朝食づくり。祖母の薬。送り出し。学校。帰りに買い物。柔らかい食事を選ぶ。刻む。温度。テレビ。夜間の介護。夜中のトイレ。シーツの替え。洗濯。宿題ゼロの理由。ゼロを見ると、胸が苦しくなる。苦しくなると、机から離れる。離れると、ゼロが増える。増えると、もっと苦しくなる。だから、逃げる。逃げる場所は、台所と、ベランダと、祖母の隣。
「提出物、ちょっとだけ待って。計画、立てるから」
「いい。……じゃなくて、いいよ。待つ。いっしょに立てよう」
言いながら、俺はノートの余白に小さく書いた。週に一枚。一日十五分。朝五分、昼五分、夜五分。できた日に丸。できない日は、「できない」を書く。できない理由を、言葉にする。言葉にすると、敵じゃなくなるときがある。
ミオはうなずいた。うなずく顔に、少しだけ血の気が戻った。戻った血は、目尻の色を変える。
その日の放課後、職員室。赤ペンの匂いと、コーヒーの匂いが混ざる空気の端っこで、雨宮先生が紙束をとじながら、小声で言った。
「あなた、辞表書くのやめた?」
「はい。……家のゴミになりました」
雨宮はふふっと笑う。笑い方が雑で、雑なのに器用だ。
「いいゴミの日ね。燃える?」
「燃えます。よく燃えるやつです」
「じゃ、燃やしときなさい。灰にして、土に混ぜれば、芝が元気になる」
雨宮先生の例えは時々荒いが、方向はだいたい合っている。芝は、元気なほうがいい。ピッチの走りが変わる。
帰り道、夕焼けが長い影をつくる。足が影を踏むと、なぜか少し楽しくなる。影は踏んでも怒らない。踏まれて伸びる。学校の門を出る手前で、鵤が向こうから歩いてきた。お互い会釈。彼は立ち止まらず、でも、ほんの一瞬だけ、口の端が動いた。動いたかもしれない。見間違いかもしれない。どちらでもいい。ゼロじゃない。
夜。玄関を開けると、匂いが迎えてくれる。玉ねぎを炒めた甘い匂い。コンソメの落ち着く匂い。靴を脱いだところで、ユメが台所から顔を出し、指でゴミ袋を指さして、片目をつむる。ウィンクというより、合図。
「燃える? 燃えない?」
「全部、燃やした」
ユメは口角を上げ、皿を置いて、まっすぐ近づいてきた。俺の胸に額を預け、小さな声で言う。
「先生、おかえり」
言い方がずるい。二文字短いだけで、こんなに効くのか。「おかえり」に「先生」がつくだけで、肩にちゃんと戻る場所ができる。俺は返事の代わりに、彼女の髪にそっと触れた。髪は、昼より少し乾いていた。
布団の山から、双子が飛び出してくる。
「せんせい、おかえり!」
「おかえり!」
今日だけは、「パパ」じゃなくて「せんせい」。偶然か、作戦か。どっちでもいい。二人はそのまま俺の足に抱きつき、同時に転び、同時に笑った。笑いの音が、床の木目に入っていく。
食卓でスープをすすりながら、今日のことを話す。掃除のこと、黒板の三文字、ミオのノート、雨宮先生の雑な例え。ユメは相槌でリズムを作り、双子は途中でスプーンをマイクに見立て、勝手にリポートを始める。
「本日のニュース。せんせいは、そうじをしました」
「床はきれい」
「粉はすくない」
「こくばんは白い」
「せんせいはえらい」
最後のは自分で言ったら恥ずかしいやつを、遠慮なく代読してくれる二人。ありがたい。ありがたすぎて、笑うしかない。
風呂上がり。髪をタオルで拭きながら、ユメがゴミ袋に目線を送る。袋の口はきっちり縛られていて、中身は見えない。見えないけれど、わかる。中にあるのは、やめたい紙。その紙に書いた言葉たち。怒鳴り声、プリント山、灰色。全部、今夜は家のゴミ。家のゴミは、明日には消える。
「明日、配信のタイトル、どうしよ」
「“再始動”」
「そのまんまがいちばん強いね」
ユメはソファに座り、タオルをごそごそ丸めて枕にする。俺も隣に沈む。ソファは二人分の負荷を知っていて、正しい沈み方をする。
壁の時計の秒針が、今日もきれいに進む。きれいに、という言い方がふさわしい滑らかさ。けれど、ふいに逆回転しそうになる瞬間が一度だけあった。ほんのわずか、ためらうような“間”。いつもの癖なら、俺はそこで「やめたい」と読んでしまう。引き返す合図。逃げろ、と。
けれど、その瞬間、気づいた。逆回転は“やめたい”サインじゃない。――“やめない”を選ぶチャンスの合図だ。針が一瞬ためらうのは、選べ、の合図。前に進むための、意地悪じゃないブレーキ。止まっているように見せかけて、踏み切る準備をさせるための、短い助走。
「ねえ、先生」
ユメが目を閉じたまま言う。呼ばれ方に、さっきより甘さが混じる。
「“やめない理由”、明日になっても残ってる?」
「残ってる。しわくちゃで、手垢がついたまま」
「それ、好き」
「俺も」
双子の寝息が、ソファまで届く。届いた寝息が、部屋の空気を柔らかくする。柔らかい空気は、言葉の角を丸くする。角が丸くなった言葉は、遠くまで届くようになる。今日の三文字も、きっとどこかへ届いたはずだ。
「明日、黒板、なんて書く?」
「秘密。……でも、最初の一画は、もう決めた」
「どんな一画?」
「上に、すっと伸びるやつ」
ユメはうなずき、タオルの枕に顔を埋めた。世界は大きな音をやめて、小さな音だけになった。冷蔵庫の低い唸り、外の風、どこかの犬の一回だけの鳴き声。耳が慣れると、秒針の音は消える。代わりに、胸のなかの音が大きくなる。やめない、という音。昨日より少し太い。
目を閉じる前、机の上のメモを思い出した。やめない理由の紙は、ユメの手の届くところ。やめたい理由の紙は、家のゴミ。どちらも、俺の言葉だった。捨てたほうを否定しない。否定せずに、別の場所に置く。置いて、燃やす。燃やして、灰にして、土に混ぜて、芝を元気にする。明日、グラウンドを走る誰かの足が、少し軽くなる。俺の足も、ついでに軽くなれば、なおいい。
眠りに落ちる寸前、また秒針がほんのわずかためらった。ためらって、前へ進んだ。ためらいのぶんだけ、進みが確かに感じられた。針は、いちど戻りかけたように見せて、進む。俺も、そうする。やめたい、が来たら、やめない、を選ぶチャンス。そう読めるように、読み方を練習しておく。国語の授業みたいに、声に出して。
再、始、動。
心の中で三文字をもう一度読み、目を閉じた。明日の黒板の最初の一画は、上へ。短く、迷わず、すっと。
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