第十九話 蓮の本気

 放課後の体育館裏は、いつもより少しだけ静かだった。

 剣道場の窓からこぼれる光が、コンクリートの地面に細長い四角を並べている。夕陽はそれよりも強く、赤い膜みたいに空気の上にかぶさって、砂ぼこりの粒を一つ一つきれいに見せた。遠くでは運動部のかけ声。ボールが地面を弾む音。水道から落ちる水のしずくの連打。全部が、今日の終わりをやさしく急かしている。

 壁にもたれて腕を組んだ蓮が、まぶたの影からこちらを見た。

「最近のお前、強くなったな。俺もサボってられねぇ」

 春斗は首の後ろでタオルをぎゅっと絞って、汗のにおいを空へ逃がした。

「珍しいな。あの完璧人間が焦るなんて」

「バカ。焦るんじゃねぇ、燃えるんだ」

 蓮はゆっくりと壁から離れ、道場の備品庫から木刀を一本、音を立てずに抜いた。柄を握る手に、無駄な力がない。肩は落ち、腰は安定して、足の指が地面の感触を正確に拾っている。何度見ても、蓮の構えは教科書に載せたくなる。

「一戦、やるか?」

 問われて断る理由は、今の春斗にはない。

 木刀を受け取り、両手を少しだけ開いて構える。防ぐための持ち方じゃない。受け止めて押し返す、攻めでも守りでもない第三の位置。最近、蓮に教わったばかりの形だ。

「手加減なしだぞ」

「こっちのセリフだ」

 息を合わせるまでもなく、互いの足が同時に動いた。

 木刀が空を割り、最初の音が夕焼けの中へ飛ぶ。乾いた、気持ちのいい音だった。二撃、三撃。力任せのぶつけ合いで始まって、すぐに角度と間合いの読み合いに変わる。蓮の速さは相変わらずずるい。視線で釣り、足音で裏切り、刃の影で時間をずらす。春斗の腕は早い音についていけないはずなのに、今日は遅れない。体の前に薄い板を置くように、恐さを一回どこかへ預けてから、空いた手で前に出る。

 木刀が斜めに重なり、火花の代わりに夕陽が跳ね返った。

「守る動きが攻めになってる。面白ぇ」

「そっちも、全然ブレねぇな!」

 蓮の踏み込みが一段深くなる。足の裏で地面を押す音が、耳ではなく骨に届く。春斗は正面から受けず、角度をひとすじだけずらして、蓮の力を地面へ返す。砂が舞う。返したはずの力の余熱が腕に残り、指先がじん、と痺れる。

 蓮の目が少し笑っていた。

 それは余裕ではなく、純粋に楽しいから浮かぶ笑みだ。

 春斗も、同じ顔になっている自覚があった。

 打ち合いはたぶん長く続いていない。長く続いた気もした。時間は汗に混ざると伸び縮みする。最後、互いの木刀が空中で止まった。まっすぐ、斜め、押し合って、息を吐く。同じタイミングで、同じ量を。

「……」

 先に木刀を下ろしたのは蓮だった。

 表情も姿勢も、ふっと真面目に戻る。いつもの、生徒会長の顔。その目は叱るためじゃなく、確かめるために向けられている。

「お前、本当に変わったよ。昔の春斗は、自分なんかって言ってたのにな」

「今も強くねぇよ。でも——」

 言葉はすぐに見つかった。

 胸の前に置いた薄い板と同じ場所から出てくる声。

「守る理由が、できたからな」

「雪乃か?」

 蓮の問いは軽いけど、軽くない。

 春斗はほんの一瞬だけ黙って、タオルの端で耳のうしろを拭いた。照れというやつは、汗に似てる。放っておくと勝手に流れる。

「……まあ、あいつだけじゃねぇ。芽衣も、お前も、学校も。全部守りたい」

 蓮はわかりやすく笑って、木刀を肩に乗せ、春斗の肩を軽く叩いた。

「だったら、俺も全力で守る側に回る」

「一緒に、な」

 肩に残る手の感触は、約束の重さにちょうどよかった。

 その時だった。体育館の表の扉が勢いよく開き、乾いた足音がこちらへ向かってまっすぐ走ってくる。

「おーい! 二人とも!」

 芽衣が角を曲がって現れた。髪は片側だけ跳ねて、肩から下げたポーチがばたばた鳴る。顔は笑っていない。息はちゃんと整っている。緊急時の芽衣は、むだに慌てない。

「生徒会に緊急連絡! 街で“黒薔薇”の動きがあったって!」

「まじか」

 蓮と春斗が同時に言った。声の温度が、夕陽より一段低くなる。空気が一瞬で薄く締まって、汗の粒が冷たく感じる。背中の筋肉が、何もしなくても立ち上がる。準備は、体が先にやってくれる。

「場所は?」

 蓮の声は短い。

 芽衣は手帳を開かない。頭にある地図をそのまま口にする。

「商店街の外れ。駅へ降りる坂の途中。見張りの情報だと、人の流れが切り替わる場所。夕方の買い物客が多い時間帯を狙ってる」

「悪い趣味だな」

 蓮が目を細める。

「先生は?」

「連絡済み。警備の人も向かってる。でも、到着には少しかかる。うちらが一番近い」

 蓮は短くうなずいて、木刀を備品庫へ戻した。

 その手際は、戦いに行く前の儀式みたいに丁寧だ。道具をぞんざいに扱わない人は、たぶん人の心もぞんざいに扱わない。

「今度は、俺たちの街だ」

「もう逃げねぇ」

 春斗の言葉に、芽衣が小さく笑う。

「はい、カッコいい宣言、録音完了」

「公開すんな」

「限定共有」

「やめろ」

 三人は走り出した。体育館裏の影を抜け、校門を飛び出し、街へつながる坂道へ。夕陽は背中を赤く染め、その色はだんだん薄くなって、やがて街灯の明かりと混ざる。息は上がるのに、足は軽い。心が先に前に行って、体がそれを追いかけている。

 坂を下りながら、春斗は商店街の匂いを鼻で拾った。焼き鳥のタレ。パン屋の甘い気配。古本屋から流れてくる紙のにおい。全部、ここにいて当たり前のものだ。当たり前だから、なくなったら痛い。守りたい理由はいつも、生活のど真ん中に置いてある。

 角をひとつ曲がったところで、蓮が速度を落とした。

「走りながら作戦。芽衣、合図と記録。避難の導線は駅の手前の広場を経由。雪乃には——」

「雪乃には私から連絡済み。向かってる。氷の帯、すべらない道、作ってもらう」

「よし。春斗」

「前室を作る。人の流れと敵の動線、間に薄く、広く。ぶつけないで逃がす」

 蓮は頷いた。

「俺は矢。点で刺す。無駄打ちしない」

 駅へ降りる坂は、夕方の人でほどよく混んでいた。買い物袋が揺れ、制服のポケットから覗く缶ジュースがカランと鳴る。子どもがベビーカーから身を乗り出して、犬の尻尾を追いかける。

 その流れの中に、黒いコートの男が紛れていた。ひとり、またひとり。前を歩く人と同じ速さで歩き、同じ場所で立ち止まる。目だけが、同じものを見ていない。

 蓮が指先で合図を出した。

 短く、細く、確実に伝わる動き。春斗はうなずき、胸の前に板を置いた。怖さは前室へ。手は空ける。空けた手で、前を押す。

 最初の衝突は、静かに来た。

 男のひとりが袋を落とした女性に近づいて、拾うふりをして、手首を取ろうとした。自然な距離。自然な角度。自然の皮をかぶった侵入。

 春斗はその手と女性の間に、空気の薄い膜を差し込んだ。男の指は空を掴んだまま、つるりと滑る。女性は自分の靴紐につまずいたと勘違いして、ありがとうと笑って頭を下げる。男の目が一瞬だけ狭くなった。

 次。

 別の男が坂の中ほどで立ち止まり、背負っていたケースの留め具を外した。中には見慣れない装置。音はほとんど出ない。空気の手触りだけが変わり、人の足が自然とゆっくりになる。人の流れが滞れば、狙いは通りやすくなる。

 蓮が一歩で距離を詰め、装置の角を指で弾いた。軽い音。ケースの内側の固定具が外れ、装置は中で自分の重さに負けて傾き、スイッチから外れる。男が顔を上げた瞬間、蓮の視線が正面から刺さる。言葉はない。言葉の代わりに、斜めからの軽い蹴り。男の体は派手に倒れず、すべるように後ろへ退く。周りは気づかない。気づかないまま、危なさだけが排水溝に流れるみたいに消える。

「南の広場へ、歩いてください。走らなくて大丈夫。荷物はそのまま」

 芽衣の声が、いつの間にか拡声器越しに坂を満たしていた。落ち着いていて、命令にならない指示の声。蛍光イエローの誘導棒が、夕暮れに小さな道を灯す。先生たちの腕章も、反射で光った。

 坂の下から、白い息みたいな冷気が上がってきた。

 雪乃が到着していた。片手を高く上げ、指先で空を撫でるみたいに動かす。歩道の縁から縁まで、薄い霜がすっと走る。すべらない、けれど危なくない帯。子どもは面白がってつま先を置くが、転ばない。年配の人の足は自然に安全地帯へ誘導され、流れは広場へときれいに変わる。

「雪乃」

 春斗が名前を呼ぶと、雪乃は短くうなずいた。

 ふたりの間に言葉はいらない。板と帯は相性がいい。前室の外で帯が道を作り、帯の外で前室が入口と出口を調整する。ぶつかりそうな圧は斜めに逃げ、逃がした先で蓮の矢が必要最小限に刺さる。芽衣の声が流れを守り、先生の腕章が安心の形をくっきりさせる。

 黒薔薇の男たちは、狙いを街の音に溶かすことに長けている。だが、それだけだ。

 彼らの目は、道の気配を知らない。商店街の角の匂い、歩幅の合図、夕方の会話の温度。そういうものを知らない目は、どうしても“遅い”。

 最後のひとりが、坂の中腹で立ち止まった。

 コートの内側から薄い刃物のような光を出しかけて、やめた。春斗がそこへ前室を広げているのを、気配で読んだのだ。

 男は視線だけで蓮を探す。

 蓮はもう、探される位置にいなかった。坂の上でも下でもなく、横の、光が当たりにくい場所。岩と手すりの間。そこから出た矢は、空気の癖と坂の角度を重ねて、男の手首の前でだけ軌道を変える。刺さらない。けれど、確実に止める。

 男の肩から、ため息に似た息が漏れた。撤退の合図でもある。

 坂の影がにじむように動いて、彼らは散った。狙いが切れた獲物は、彼らにとって興味の外だ。

 坂の上から小さな拍手が起き、それはすぐに買い物袋のガサガサに紛れた。人の流れが戻り、白いビニールが夕陽を受けてやさしく光る。犬は尻尾を振り、子どもは飽きて欠伸をする。店先の灯りが一つ、また一つ、夜の準備に切り替わっていく。

 雪乃が息を吐き、春斗の横に立った。

「間に合ってよかった」

「おつかれ」

 春斗は笑って、肩を軽くぶつけた。

「守るの、得意だからな」

「私も、少しは」

「いや、かなり」

 芽衣が拡声器を抱えたまま駆け寄ってきて、親指を立てる。

「先生から伝言。『無茶はするな。……ありがとう』」

「順番逆じゃない?」

 春斗が笑うと、芽衣は「どっちも本音」と肩をすくめた。

 蓮は少し離れたところで、空の端っこを眺めていた。

 表情は静かで、目だけが遠くを見る。春斗が近づくと、蓮は口の端だけを持ち上げた。

「お前が前だと、俺は矢を減らせる。いい配置だ」

「お前が矢だと、俺の板が薄くて済む。いい相性だ」

「だったら——」

 蓮は春斗の目をまっすぐに見た。

 その目は、さっきの打ち合いの時とは違う熱を持っていた。

「俺は本気で行く。守る側って、言葉で言うのは簡単だ。やるのは、難しい。でも、やる。今日から、手を抜かない。学校でも、街でも」

「今まで抜いてたみたいな言い方すんなよ」

「抜いてない。でも、今日の俺は、昨日の俺より前だ。そういう意味で本気」

 春斗は肩を揺らして笑った。

「わかった。じゃあ俺も本気だ。胸の板、もう一枚増やす」

「増やすな。厚みは増やせ。枚数は増やすな。構造が複雑になる」

「急に理系みたいなこと言うな」

「言ってない」

 くだらないやり取りに、緊張の角が丸くなる。角は丸いほうが折れにくい。

 空はもう、青の割合が減って、駅前の看板の明かりが目立ってきた。風が夕飯の匂いを運ぶ。家へ帰る人の背中は、同じ方向へ揺れている。

 走ってきた時と同じ道を、今度は歩いて戻る。

 坂の上から、笑い声。改札の前から、再会の声。パン屋から、明日の仕込みの音。

 春斗は、胸の前に薄い板を置いた。恐さはそこへ、期待はポケットへ。手は空けておく。その手で、次の誰かを押す。前へ。倒さないで、進ませる。

 校門が見える頃には、空は紫に近くなっていた。

 体育館裏へ戻ると、道場の窓からの光はもう消えていて、代わりに夜風がタオルの塩気をさらっていく。昼の汗は夜になると、少しだけ誇らしくなる。

 蓮が壁にもたれて、もう一度だけ構える真似をした。

 木刀は持っていない。

 でも、目はさっきより鋭い。

「続きは、明日やるか」

「明日も、負けねぇ」

「勝ち負けじゃない」

「知ってる。でも、負けねぇ」

 芽衣が大きく伸びをして、「はいはい青春、解散」と手をひらひらさせた。

 雪乃は小さく笑い、春斗の袖をつまんでから離す。合図みたいな、癖みたいな、約束みたいな仕草。

 帰り道、星は少なかった。

 でも、街の灯りは十分に多い。

 灯りの数だけ、守る理由はある。

 春斗は上を向いて歩いた。

 胸の奥で、薄い板が静かにあたたかかった。

 そして横では、蓮の歩幅が、ほんの少しだけ大きくなっていた。

 それは、誰かのための歩幅だ。

 本気の歩幅は、きっとこのくらいがちょうどいい。

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