第二十二話 卒業までのカウントダウン

 二月の風は、容赦がない。校門をくぐるだけで耳たぶが痛くなるし、昇降口のマットに染みた水は昨日の雪の名残りで、踏むたびに冷たさが靴底から上がってくる。廊下には「卒業式当日係分担」と大書された紙が二枚、セロハンテープで斜めに貼られていた。紙は誰かの指で何度もなでられたらしく、角がくるりと丸まっている。

 列の真ん中あたり、黒マジックで「教室飾りつけ係」とあり、その横に名前が並ぶ。藤堂ユウト、桐ヶ谷ミサ。インクの濃さが違って見えたのは、きっと目のせいだ。

「……最後まで隣、ってこと?」

 紙の前に立ったミサが、顎を少しだけ上げて笑った。笑いは音にならない。目の端に小さい光が出て、すぐ消える。

「多分、そういう運命」

「運命って、便利な言葉」

「便利なものは使う」

「ずる」

「誉め言葉」

 ハルカが後ろからのぞき込み、「はいはい、おふたりさん、もう公認で」と肘で俺の脇腹をつつく。タカヒロは「飾りつけより俺の進路を飾れ」と大袈裟に嘆いて、結局「体育館椅子並べ係」に名前を書き足されていた。神谷先生は「勝手に増やすな」と言いながら、笑っている。二月の学校は、急に優しい。

 準備の日は、曇天。窓際の長机に色紙、画用紙、輪っかにするための細長い帯、ホチキスの替え針、テープ台、ペーパーフラワーの芯。机の上を一色に染め尽くすほどの赤と白と金。時計の針は早くも遅くもない。ストーブの吸気の音だけが、静かに響く。

「輪っか、百個ノルマ」

「強気」

「数字は嫌い?」

「君が言うと好き」

「じゃあ、百二十個」

「増えるのか」

「うん。だって、好き」

「反則」

 ミサは、紙の端を器用にくるりと丸めて、テープでとめていく。動きに無駄がなくて、角度が揃っている。作った輪を渡されるたび、俺はそれをつないで長くしていく。鎖みたいに、色が交互に続く。赤、白、赤、白。たまに金。窓の外は薄い灰色で、雪がときどき縦になったり横になったりして落ちていく。冬の光は、紙の色を少し大人に見せる。

「ねえ、これ、どこに吊る?」

「黒板の上と、後ろの掲示板の縁。あと、扉のところ」

「扉?」

「入ってくるとき、頭でくぐるの。ちょっとだけ引っかかって『わ』ってなる」

「性格悪い」

「演出だよ」

「なるほど、監督」

「主演はあなた」

「恥ずかしい」

 教室の後ろでは、黒板アート係の女子が白いチョークで「祝 卒業」の下描きをしていて、細かい花弁を一枚ずつ重ねている。消し跡でスカートが白くなるのも気にしない。そういう熱心さに、冬の空気が少し温かくなる。

 昼休み、机を寄せて食べる。弁当は、いつもより少し豪華だった。母の卵焼きが甘い。ミサは、細長いタッパーからきゅうりの浅漬けを出して「塩気交換」と差し出す。口の中の甘いとしょっぱいが入れ替わるたび、世界の色が一段階はっきりする。

「……もうすぐ、終わるね」

 箸の先でペン先みたいに机をつつきながら、ミサが言う。

「終わらせたくないけどな」

「でも、“隣”って、永遠じゃないでしょ」

「俺が勝手に永遠にする」

「……勝手だね」

「勝手に好きなんだから、仕方ない」

 言ってから、ちょっとだけ恥ずかしくなって、味噌汁のふたを開けたり閉めたりして誤魔化す。ミサは顔を真っ赤にして、短く息を吸った。

「……そういうの、反則」

「減点?」

「減点。けど、今日だけ不問」

「ありがとう寛大な判定員」

「審査基準は気分」

「難易度高い」

「合格したいなら、輪っか増やして」

「了解」

 午後の作業は、花紙で作る花へ移った。一枚ずつ重ねて蛇腹に折って、真ん中をねじって、そっと広げる。開くたびに花が生まれる。指先が紙の繊維を覚えて、次に触れる速度が速くなる。ミサの作る花は、ふんわりしていて形が崩れない。俺が作る花は、最初は四角く、段々丸くなる。

「上手くなった」

「先生がいい」

「だれ?」

「隣の席の人」

「そう。……講師料高いよ」

「分割払いで」

「じゃあ、未来予想図を月賦で」

「無利子でお願いします」

「検討」

 笑いながら指を動かす。笑っていると、紙が軽くなる。紙が軽いと、作業が楽しい。楽しいと、時間が早い。早いと、終わりが近い。それが怖いから、少しだけゆっくり折る。

 飾りつけは何日かに分けて続いた。黒板アートに色が足され、クラス写真のベストショットが掲示板に並び、中央には「あなたの隣、誰が座っていましたか?」のカードが貼られた。文化祭のときに使った文言を、少しだけ大人にして。机と椅子を二つ並べ、名札の代わりに空白の付箋を置く。そこに自由に書いてもらう。「ありがとう」「宿題写させて」「毎朝起こしてくれて」「背中押し」「消しゴム貸した」「いびきうるさい」いろんな筆跡が、いろんな感情を連れて集まった。

「書く?」

 ミサが付箋を差し出す。ペンと一緒に。

「書く」

 付箋の小さな四角に、何を書ける? 迷っていると、ミサが覗き込んでくる。覗かれると、妙に手が止まる。結局、短く書いた。

〈空席が嫌いって言った人の、隣に座れてよかった〉

 書いて貼る。金色の輪っかの端の近くに。誰も気づかない位置に。ミサはそれを見て、口の端だけで笑った。彼女は別の付箋を取り、さらさらと書いて俺に見せないまま貼った。背伸びして高い位置に。見えない。気になる。けど、聞かない。聞かないでいられる距離は、心地よい。

 音楽室では、卒業式の合唱練習が始まっている。「旅立ちの日に」。歌い出しが揃わず、指揮者の手が止まる。やり直し。やり直すたび、誰かの声が良くなる。教室へ戻ってきたクラスメイトの頬がうっすら赤いのは、歌のせいか、外の寒さのせいか、区別がつかない。タカヒロは「俺、ハモリ職人になる」と言って、結局主旋律に戻されていた。

「ミサ、歌、出る?」

「出ない。声、細い」

「細い声、好きだけど」

「反則。今日は二回目」

「累積?」

「うん。三回で没収」

「なにを」

「卒業式の写真」

「やめて」

「じゃあ、抑えて」

「善処」

 窓の外の雪は、降ったり止んだりを繰り返した。晴れた日の光はやけに冷たくて、空の青は心配なく深かった。校庭を横切る風が、枯れ葉を集めては散らす。季節が過ぎる音が、目に見える。

 係同士の打ち合わせで体育館へ。壇上では飾り付け班の上級生が白布を張っている。ロープが通るたび、布の影がゆらゆら揺れる。床にはパイプ椅子が整列して、番号札がテープで留められている。前の列に座ってみると、いつもより視界が広く感じた。天井の鉄骨が、無数の線で空を支えている。

「椅子、全部並べ直しだって」

 タカヒロが顔をひきつらせて戻ってくる。「間隔が狭い」らしい。全員で再配置。体育館の床は思ったより柔らかく、椅子の足がわずかに沈む。数センチの差を目で測り、足で感じる。単純作業は、考えを静かにしてくれる。

「ねえ」

 椅子を運びながら、ミサが小声で言う。

「“終わらせたくないけど、終わる”って、どうやって受け止めるの?」

「うーん」

 考えて、答えはすぐには出ない。椅子を下ろしてから、言葉が見つかる。

「終わらせない部分を作る」

「どこに」

「手の中」

「抽象的」

「じゃあ、具体的に言うと、合図二回」

 俺はミサの手の甲に、そっと親指で二回、軽く押す。人目につかないように、すぐ離す。ミサの目が、ほんの少し丸くなって、それから細くなる。

「……はい」

 短い返事の中に、いろんな意味が詰まっているのは知っている。体育館の天井の光が、彼女の髪に白を落とした。

 そんなふうにして、二月が半分過ぎた。飾りは揃い、係の動線も決まり、黒板アートは完成に近い。担任の神谷先生は朝礼で「残り二週間で高校生だ」と言い、「中学生のうちにしかできない馬鹿をしろ」と付け足した。タカヒロが「じゃあ放課後、校庭にでかいハート描くか」と言い出し、本当に雪の上に足跡で描いた。上から見ればハートでも、下から見るとただの迷路だ。ミサは「迷路でいい」と言って、その真ん中に立った。風が白い粉を運んで、線が少しずれる。ずれるのを、二人の歩幅で直す。直しきれなくても、笑えるなら問題ない。

 家に帰ると、玄関の匂いがいつもより冷たくて、ストーブの前から動けなくなる。机に向かっても、手はノートよりスマホに伸びる。既読がつくのを待つ時間は、相変わらず長い。今日はメッセージを送るべきか、送らないべきか。迷っている間に、通知音が鳴った。

〈卒業式の日、“本番”ね〉

 ただ、それだけ。短い。短いのに、部屋の温度が一段上がった気がした。指が震えて、返信の文字列がうまく打てない。

〈了解。練習続ける〉

 送ってから、布団に倒れ込む。天井の白を見ながら、今日の教室の色を思い出す。金の輪っか、赤白の花、黒板の白文字、窓の外の灰色。全部が頭の中でゆっくり回る。目を閉じる。閉じると、体育館の天井にぶらさがる白布がゆらゆら揺れる映像が浮かび、その前に立つ自分たちが見える。壇上の左側、二列目。壇上からだと、クラスメイトの顔はどんなふうに見えるだろう。親の席には誰が座るだろう。泣く人は何人だろう。笑う人はどれくらい。

 眠ろうとして、眠れない。寝返りを打つ。枕が冷たい。窓の外は静かで、時々、遠くの道路をタクシーが滑っていく音がするだけ。ポケットからマフラーの端切れが出てくるわけもなく、机の中から封筒が光るわけもない。手を胸の上に置く。心臓が規則正しく動いている。規則正しいけれど、少し早い。少し早いのを、数えて誤魔化す。一、二、三。数えるほど、眠れない。笑うしかない。

 スマホがまた光る。起き上がって見ると、ミサから。

〈ねえ〉

 それだけ。こういうときの「ねえ」は、続く言葉を探している合図だ。

〈起きてる〉

〈眠れない〉

〈同じ〉

〈歌、ちゃんと歌えるかな〉

〈腹式呼吸〉

〈難しい〉

〈じゃあ、俺の肩で〉

〈それは本番で〉

 数秒、間があいて、もう一通。

〈本番、楽しみだね。怖いけど〉

〈怖いけど、楽しみ〉

〈うん〉

 やりとりはそれだけ。短くて、落ちない。落ちないから、残る。残るから、眠れない。笑いながら、目を閉じる。合図を二回、枕の上で指先に押す。返ってくるはずの返事はない。でも、押した感触だけで、十分に近い。

 翌日。飾りつけの最終チェック。金の輪が一本足りなくて、ミサと俺は残ることになった。夕方の光が机の角を薄く照らし、ストーブの火が小さくなる時間。二人で最後の輪をつなぐ。机の上のテープ台が軽くなっていて、芯が見える。テープが終わる。最後の一周だけ、ホチキスで留めた。

「これで、ほんとに終わり」

「終わらせるなって言ったの誰」

「言った。撤回しない」

「じゃあ、どうする」

「終わらせた先で、続ける」

「それ、すぐ言えるのすごい」

「練習したから」

「ずる」

「誉め言葉」

 輪を持ち上げて、黒板の上へ。脚立の上に立ったミサが、腕を伸ばしてテープで留める。姿勢が伸びるたび、制服の裾が少しだけ揺れる。紙の鎖が、黒板の「祝」の字の上をやわらかく横切った。

「落ちない?」

「落ちたら受け止めて」

「俺が下で?」

「うん。落ちたら、もう一回」

「もう一回」

「ね」

 脚立から降りたミサは、黒板アートの端に手を置いて、粉を指で払った。指先に白が残る。白は、冬の色。白は、終わりの色で、始まりの色だ。

「……もうすぐ、終わるね」

 同じ言葉を、彼女はもう一度言った。午前と違う声で。

「終わらせたくないけどな」

「終わるのは、季節。場所。時間」

「じゃあ、終わらないのは?」

「目と目」

「抽象的」

「手の中」

「またそれ」

「合図」

 俺は人差し指で机の端を二回、軽くたたいた。コン、コン。木の音が小さく跳ね返り、ストーブの最後の息と重なる。ミサは笑って、同じ場所を二回たたいた。コン、コン。返事がちゃんと来るのは、いつでもうれしい。

 教室を出ると、もう外は薄闇で、窓の向こうに家庭科室の明かりがぬくく灯っていた。廊下を歩くと、掲示板の係分担の紙がまた角を丸めていて、「教室飾りつけ係」の文字が少し薄く見えた。誰かが指でなぞったのだろう。名前の横に指が止まって、何かを確かめるみたいに押す。その姿を想像すると、胸の中の温度が上がる。

 昇降口で靴を履き、外へ出る。空気が強くて、鼻の奥が痛い。校門の前でミサと立ち止まり、息を吐く。白い息が重なって、すぐに溶ける。溶けるのが悔しいときは、もう一度吐く。何度でも吐いて、何度でも重ねる。重ねた回数は、見えない。見えないものは、案外強い。

「じゃあ、また明日」

「また明日」

「練習、続けて」

「うん。……ねえ」

「なに」

「本番、びびっても、逃げないで」

「逃げない。逃げたら、追いかけて」

「追いかける」

「じゃあ、安心」

「ずる」

「誉め言葉」

 別れ際の合図を、今度は手の中で。親指で二回。二回。冬の空気の中で、小さな音もしないのに、ちゃんと届く。届くと、胸の奥が静かに広がる。

 その夜、布団に入っても、やっぱり眠れない。天井の白の代わりに、黒板の白が浮かぶ。黒板の上の輪っかが、ゆっくり左右に揺れて、眠りを誘う。誘われるふりをしながら、目を閉じない。目を閉じないまま、スマホを顔の横に置く。画面は消えている。消えているけれど、文字が見える気がする。

〈卒業式の日、“本番”ね〉

 短い約束は、長く効く。長く効くものは、重くないほうがいい。軽いから、ずっと持っていられる。持っているうちに、形が手に馴染んで、手の形が約束の形になる。

 ひとつ深呼吸をして、天井に向けて言う。声にはならない声で。

 だが、俺の隣は今日も満席だ。

 満席は、席の数で決まらない。輪っかの数でも、花の数でも、紙の枚数でもない。合図の回数と、笑った回数と、同じ方向を見た回数で、決まる。二月の冷たい夜に、布団の中で目を閉じる。瞼の裏を雪が横切っていく。雪は、降っては止み、止んでは降る。それでも少しずつ、地面を白くしていく。そんなふうに、約束も、練習も、重なっていく。終わりに近づくほど、重なりは厚みを増す。厚みが重くなったら、半分ずつ持つ。持ちきれない日は、机の上に置く。置いた場所は、明日も分かる。

 目を閉じたまま、指先だけが、また二回、小さく動いた。返事はない。でも、返事が来る場所まで、あと数日。胸の中で、静かにカウントダウンが始まっていた。

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