第十話 体育祭と、ハチマキがほどけた瞬間
朝の校庭は、普段と同じ土の色なのに、空気の密度が違った。白線がまっすぐ引かれ、色別ののぼり旗が風に鳴って、どこからともなく笛の試し吹きが聞こえる。クラスの列が入場門の脇で折り重なって、先生たちはゼッケンとプログラムを配りつつ、半分は交通整理、半分は火消しみたいに走り回っている。
俺――藤堂ユウトは、白い体操服に赤いハチマキ。汗をかく前から、手のひらだけが落ち着かない。視線の先、少し離れた場所では、桐ヶ谷ミサが赤組の列の中にいた。いつもの下ろした髪じゃなく、今日は高めの位置で結んだポニーテール。赤い布が髪の根元で一周して、結び目の向きまできっちりしている。顔は正面を向いているのに、まつ毛の影が、いつもより元気そうに見えた。
(うわ、なんか……反則レベルで可愛い)
思っただけで足もとがふわっとする。体操服の襟から風が入って、ただでさえ浅い呼吸が、さらに浅くなる。
開会式が始まり、校長先生のありがたい話が「短くします」の宣言つきでいつもより長い。体操係の掛け声とともにラジオ体操が始まる。タカヒロが隣でわざと一拍遅れて腕を振るから、笑いが腹にたまって体操にならない。
「おいユウト、第一競技、徒競走だぞ。ヒーローになるチャンス」
「いいから真面目に手首回せ」
「ヒーローは手首から。知らんけど」
最初の徒競走。コースに並ぶと、白線の上にスパイクの先がきれいに並ぶ。ピストルの代わりの笛が鳴ると、土の粒が一斉に跳ねて、風が顔を叩く。俺は真ん中よりちょい後ろでゴール。息が上がり、肺の奥が熱い。観客席からクラスメイトのばらばらな声援が飛んできた。
綱引きは、みんなが同じ方向を見て同じ力を出す競技だ。掛け声がそろう瞬間だけ、クラスがひとつの動物みたいになる。ミサは最前列で綱を握り、歯を食いしばって引いていた。普段は無表情に近い顔が、ほんの少しだけ必死で、そこに目が吸い込まれる。終わったあと、手のひらを見て「……痛い」とつぶやくのを、俺は少し離れた場所で見た。
「おーい隣氏、見惚れてるのはわかるが、玉入れの玉は君のこと待ってくれない」
タカヒロが袋から赤い玉を三つ押し付けてくる。
「いや、それはゲームの都合だろ」
「恋もゲームも、締め切りは突然来る」
玉入れ。カゴの高さが絶妙に嫌らしくて、入りそうで入らない。俺の投げた玉が rim で跳ね返り、タカヒロの額に当たって、彼は勝手に倒れた。周りの女子たちが「何してるの」と笑いながら玉を拾って、自分のカゴに入れていく。ハルカは器用に片手投げで連続ヒットを決め、終わってからウインクしてきた。
「ねえユウト、今のはわざと?」
「違う。玉が意思を持った」
「なら、その意思は反抗期」
昼休憩をはさんで、午後。日差しが強くなり、白線が目に痛い。水筒の氷がまだ音を立てている。午後の最初はクラス対抗リレー。各クラスの期待と無茶ぶりが、同じトラックの上に集まる時間だ。俺とミサは同じチーム。ミサがアンカーで、俺はその一つ前。プログラムの紙の上で、二人の名前が横に並んでいるのを、さっきから何度も見てしまう。
バトンを握った上級生がスタートラインに立つ。歓声が波打つ。うちのクラスは真ん中よりちょっと外側のレーン。先頭が走り出し、砂煙が低い雲みたいに流れていく。バトンは確実に、でもためらいなく人から人へ移っていく。俺の番が近づくほど、心臓は勝手に加速した。スタート位置にしゃがむと、靴ひもをもう一度きゅっと引き直す。
「行ける?」
後ろから小さな声。振り返ると、ミサがバトンを胸の前で持ち、短くうなずいた。赤いハチマキが、額にぴたりと沿っている。
「……渡すから、落とさないで」
「落とさない」
「落としたら、怒る」
「怖い」
言いながら、笑ってる。厳密に言えば、笑ってないけれど、目の端が柔らかい。俺はそれを目でつかまえて、前を向いた。
俺の前の走者がコーナーを回ってくる。砂を切る音が近づいて、バトンの銀色が日差しを弾く。俺は低く構え、叫ぶ。
「来い!」
手のひらに硬い重みが乗った瞬間、地面が後ろへ流れた。走る。空気を切る音が耳の横を走る。視界の端で、観客席が色の固まりになって揺れる。前の走者の背中が、思いのほか近い。追いつける、と思った。足は言うことを聞く。肺は抗議する。残りの距離の数字が、頭のどこかで勝手にカウントダウンを始めた。
残り、三十メートル。たぶん。ふいに額のあたりで、締めつけが緩んだ。赤い布が耳の横をするりと抜け、視界の端を赤がかすめた。ハチマキがほどけた、という認識は、遅れてやってくる。ずれて落ちかけた布を手で戻そうとして、バトンと手のひらが危ない角度になる。ミサが待っている。前を見る。手はハチマキに触れない。触れないと決める。足は勝手に前へ行く。
テープが胸に当たって、弾けた。俺は、止まれない身体を無理やり止める。肩で息をして、視界を水平に戻す。歓声の種類が、さっきまでと少し違う。誰かが「ハチマキ」と叫んで、誰かが笑って、誰かがこちらに手を振る。俺はようやく、ずり落ちた赤い布を手で押さえた。
ゴールの先で、ミサがタオルを持って駆け寄ってくる。ポニーテールが一瞬遅れて揺れる。目が、いつもより大きい。
「……大丈夫?」
「うん。ちょっとハチマキが……」
言い終わる前に、ミサは足もとに落ちかけた赤い布を拾い上げた。迷いがない動作で、俺の正面に立つ。タオルを俺の首に一回だけ掛けると、額の布の位置を直すために、両手が俺のこめかみに来た。
「……動かないで」
「……ごめん」
近い。距離、十センチ。いや、もっと近い。彼女の指の腹が、耳の上を軽く押さえる。汗の流れが指先に伝わってしまうんじゃないかと、妙なところで恥ずかしくなる。額に赤い布が戻り、後ろで結び目を作るために、彼女の腕が俺の首の後ろを回る。その弧の内側に、俺の顔がある。髪が頬にかかって、石けんの匂いがふっと来る。
「汗、ついてる」
「うわ、ごめ――」
「……嫌じゃない」
言った本人が真っ赤になった。耳まで。俺は息の仕方を忘れて、ただ立っているしかない。ミサは最後の結び目をきゅっと引き締め、指先で布の端を外側へ整える。完成した赤は、さっきよりまっすぐで、さっきより俺の額に似合っている気がした。気がした、だけで十分だった。
「ありがと」
「……落とさないで」
「うん」
「落としたら、怒る」
「はい」
返事が、子どもみたいに素直になる。タカヒロが遠くから「リア充爆発」と棒読みで叫び、誰かが「実況やめて」と突っ込んだ。ハルカは手を口に当てて、目だけで「よし」と言っている。先生は「走者は速やかに退場」と言いながら、こっちを見て笑っていた。
午後の競技が終わるころには、空の色が少しだけ薄くなっていて、風が涼しい。閉会式で総合得点が発表され、うちの赤組は惜しくも二位。歓声とため息が同時に起きた。俺たちは互いの背中を軽く叩き合って、今日一日の汗と砂と笑いの重さを確かめた。
片付けが一段落した夕方、校庭の隅でミサが髪をほどくのを見た。赤い布を外すと、ポニーテールがさらりと肩に落ちる。髪に残った跡が一瞬だけ波を作って、元に戻る。彼女は布を畳んでポケットに入れ、振り返って言った。
「……冷たいもの、飲む?」
「行く」
購買の自販機の前で、俺はスポーツドリンク、ミサはオレンジ。缶のプルタブを引く音が二回、同じ高さで鳴った。ベンチに並んで座る。校庭の白線が、少しずつ消えていく。砂ぼこりの匂いの奥に、遅い夏の匂いが混じる。
「さっきの、ありがと」
「……嫌じゃなかった?」
「嫌じゃなかった」
「……よかった」
会話は短いのに、報告としては長い。沈黙の間に、距離が少しずつ近くなる。今日はもう、これ以上は近づかなくてもいい気がした。十分、近いから。
夜。風呂上がり、脚がちょっと重い。ベッドに倒れ込む前に、スマホが鳴った。クラスのグループラインが、いつもより騒がしい。通知を開くと、タイムラインに誰かが上げた連続写真が貼られていた。リレーのゴール、ずれたハチマキ、そして――桐ヶ谷が俺の額に結び直している瞬間。コメント欄は地獄の合唱団。
〈桐ヶ谷さん、ユウトのハチマキ結んでた!〉
〈ひゅーひゅー!〉
〈リア充爆発しろ!〉
〈これは保健委員の域を超えてます〉
〈公式発表はまだですか〉
俺は慌てて入力する。
「誤解だ!!」
送った直後、既読の数が気持ち悪い速度で増える。すぐに、短い返事。
〈誤解じゃない。解けたから結んだだけ〉
それだけでも場は再びざわつくのに、数秒置いて、同じ名前からもう一行。
〈……でも、嬉しかった〉
時間が、一瞬だけ止まる。沈黙のあと、既読の数が爆発した。スタンプだの「は?」だの「尊い」だの、いろいろな言葉が画面を流れていく。タカヒロは「いい試合だった」と意味のない総括を投げ、ハルカは「明日、現地で取材します」とわけのわからない宣言をしている。
俺はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。笑いが込み上げる。笑ってしまうと、今日の疲れがいいほうの重さに変わる。腕を上げて、赤い布の感触を探す。額にはもう何もないのに、指先には、きつく結び直された結び目の記憶が残っている。解けても、また結べる。結ぶ相手がいれば、なおさら。
机の引き出しから“今日の出来事メモ”を出す。ペンがするすると進む。
開会式、校長先生長い。
徒競走→風が痛い。綱引き→手、痛い。玉入れ→タカヒロに玉命中、反省。
リレー、バトン受け取り。残り三十くらいでハチマキほどける。手、出さないって決めた。前だけ見た。
ゴール後、桐ヶ谷に結び直してもらった。近かった。匂い、覚えた。
「……嫌じゃない」。今日の主語は、たぶん俺じゃない。
夜、ライン。「……でも、嬉しかった」。俺も、嬉しかった。
明日、きっと修羅場。でも、悪くない修羅場。
最後の行に、いつもの一文を書き込む前、ペン先が一瞬だけ迷う。体育祭のにぎやかさが耳の奥でまだ跳ねている。結び目を確かめるみたいに、ゆっくり書く。
だが、俺の隣は今日も満席だ。
満席という言葉の中には、白い校庭と赤い布、砂の匂いと、額に残った締めつけの感覚が入っている。ほどけても、また結べる。結び直す指は、もうちゃんと知っている。明日の教室がどうざわつこうと、席の埋まり具合は変わらない。俺の右隣は、明日も、明後日も、ちゃんと満席だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます