第2話 しゃべらない系ヒロイン、でも距離は近い

 月曜の朝。

 靴箱で上履きに履き替えると、まだ新しさの残るゴム底が少しだけきゅっと鳴った。教室の前まで来ると、扉のガラス越しに見慣れた後ろ姿が見える。窓際、二列目の右側。桐ヶ谷ミサはもう席についていて、光を背にノートを開いていた。黒髪の影が肩に落ち、肩より少し下でとまる髪先が、静かに、ほんの少しだけ揺れている。


 教室に入ると、タカヒロがさっそく肘で俺の脇腹をつついてきた。

「おはよう、隣氏」

「その呼び方やめろ」

「じゃあ、右隣の覇者」

「もっとやめろ」

「じゃ、ユウト」

「最初からそれでいい」


 いつものやり取りで体温が少し上がって、俺は自分の席へ回り込む。椅子を引くと、桐ヶ谷が気配だけこちらに向けた。目線はノートの罫線に落ちたまま。俺は息をひそめて教科書を取り出す。手元でシャーペンが机からころんと落ちた。あ、と思った瞬間、椅子の下にすべり込んだペン先を、白い指が拾ってくれる。


「……シャーペン、落ちたよ」


 差し出されたのはうっすら指先の熱を帯びたペン。指が触れた。一瞬だけ。静電気みたいに心臓まで跳ねる。


「ありがと」

「別に」


 返事は短い。けれど、その短さの中に、とげはない。たぶん俺の耳の方が勝手にやわらかく聞いているだけ、なのかもしれない。いや、でも少しはやわらかかった気もする。気のせいかもしれない。どっちだろう。でも、どっちでもいい。


 朝のホームルームが終わる頃、前の列からハルカが振り向いた。頬杖のまま、いたずらを企む子どもの目でこちらをのぞく。

「おはよ、ユウト。隣、今日も満席だね」

「なんの入場券も売ってないけどな」

「人気席はだいたい招待制だよ。……で、どうなの?」

「どうって?」

「どういう気持ち?」


 どうというほど何もしてない。してないのに、心拍数がひとりでに前のめりになるのはなぜだ。俺は曖昧に笑ってごまかした。ハルカは「ふうん」と口だけで笑って前を向いた。


 はじめの授業は英語だった。

 神谷先生が大きく手を叩く。「よーし、宿題の答え合わせ終わったな。次は音読ペア練だ。隣同士で三往復。恥ずかしがるな、声出せよー」


 声、出せよ。言われるまでもなく、教室のあちこちで小さな悲鳴と笑い声が上がる。恋の運試しのひもを引くみたいなざわめき。俺は横を見る。桐ヶ谷は、こくんと小さくうなずいてノートを開いた。


「……私、読むから、聞いて」


 ページの上で言葉が滑る。驚くほどきれいな発音。音程がひくくも高くもなく、ちょうどいいところに着地していく。耳に心地いい波だ。何度も聞ける。CD音源みたいだ、と思ったけれど、口には出さない。変に褒めると嘘っぽくなる。


「すごい」

 それだけ言うと、桐ヶ谷はほんのわずかに目尻をやわらげた。

「図書室で練習してるだけ」

「図書室で、練習」

「音読の本、あるから。借りて、返して、また借りて」

「真面目だな」

「……普通」


 普通。桐ヶ谷の口から出た「普通」は、世の中の大多数が目標にしているあの普通とは、たぶん別物だ。隣にいるだけでわかる。ノートの取り方、プリントの揃え方、教科書の角のすり減り方。ぜんぶが丁寧で、雑音がない。


「じゃあ、次は俺、読む」

「うん」


 俺が読み始めると、桐ヶ谷は鉛筆の先でリズムを取りながら、首をほんの少しだけ傾けて聞いていた。途中でつっかえると、単語の末尾を指先で軽くトン、と示してくれる。そのたびに、示されたところ以外がぜんぶ真っ白になる。脳みそが単語ひとつぶんしか入らない構造になってしまったかのようだ。


「……今のは、伸ばすんじゃなくて、弾く」

「弾く」

「そう。もう一回」


 やり直すと、「うん」と短い合格が出る。たった一文字なのに、胸ポケットが重くなるくらいの重みがある合格だ。俺が勝手に重くしているだけだとわかってはいる。わかってはいるが、重い。


 そのとき、斜め前の男子のひそひそ声が耳に刺さる。

「おい、距離近くね?」

「もうカップルかよ」

 クスクス。笑い声は刃物より軽いのに、切れ味はたいがい鋭い。


「ち、違うから」

 反射的に口が動いた。自分でも驚くほど早かった。


 桐ヶ谷のまつ毛が、ひく、と震えた。

「……そう。違うんだ」

 その言い方は、俺の耳には少し冷たく届いた。俺の声が先に冷たかったせいかもしれない。息のやり場をなくした空気が、窓の方へ、逃げるみたいに薄くなった。


 授業が終わって、休み時間。俺は自分の机の引き出しを、用もないのに開けて閉めた。引き出しは何も言わない。言ってくれた方がよかった。ごめんとか、遅いとか、なんでも。


 昼休みになった。

 タカヒロが弁当箱のふたを勢いよく開ける。いつもの鶏のから揚げがこれでもかというくらい詰まっていて、ほぼ肉の金庫だ。

「ユウト、共食いしようぜ」

「共食い?」

「俺のから揚げと、お前の何か、交換。ほら、共に食う。共食」

「言い方が悪い」

「じゃあ、相互供食」

「悪化してる」


 ハルカがやってきて、俺の弁当をのぞき込む。

「わ、ユウトんちの卵焼き、今日は甘め?」

「母ちゃんの手は日替わりだからな」

「交換しよ。はい、私のも甘め」


 と、そこに影が落ちた。

 桐ヶ谷が、二段の弁当箱の上段をぱちりと開ける。黄色が整列している。四角い卵焼きは、定規で測ったみたいに幅がそろっている。一本のつまようじで一個を刺し、迷いのない手つきのまま俺に差し出した。


「……今日の卵焼き、甘すぎた」

「いや、俺、甘いの好き」

「そう。……じゃあ、食べる?」


 教室の空気が一拍遅れて固まる。タカヒロが奥で咳き込む音、女子のざわめき、スマホのレンズがひかるような気配。全部いっぺんに押し寄せて、脳が会議をはじめた。

 この場で受け取るのはどうなんだ。注目を浴びる。浴びたくない。でも差し出された。断る理由はない。いや、受け取る理由ならある。ここにある。目の前に。


「いらないなら、いいけど」

 桐ヶ谷が少しだけ目線を逸らす。声の温度が、ほんの一度ぶん下がった気がする。


「いる!」

 気づいたときには、声が跳ねていた。

 教室のいろんな方向から笑いが起きる。タカヒロは机を叩いて笑い、ハルカは「正直者」と親指を立てた。俺はもう一回「いる」と言い直したくなったけど、二回言ったら欲張りみたいなので黙っておく。


「……もう」

 桐ヶ谷は小さくそう言って、差し出した手を下げない。俺は身を乗り出す。距離が急に近い。卵焼きが口元に来る。視界の端で長いまつ毛が震える。

 ひと口。

 ふわり。甘い。やさしい。味よりも先に、差し出した手の温度が届く。

「おいしい」

「よかった」


 たったそれだけ。けれど、昼休みがまるごと違う時間になった。

 そのあとの会話は、たいして続かない。課題の話、体育の評価の話、購買のパンの入荷の話。どれも短くて、でも全部、次の一言につながる形におかれている。桐ヶ谷は、言葉の置き方が上手い。多くを置かないのに、足りないと感じないように置く。たぶん、そのために沈黙まで含めて持ち歩いている。


 昼休みの終わり、タカヒロが俺の肩に腕を回した。

「なあユウト。攻めろ。お前はもっと攻められる」

「どこを攻めるんだよ」

「胃袋」

「それさっきの共食いの延長だろ」

「いや、あーんだ。あーん。こっちからも」

「やらない」

「今の笑顔、二学期の文化祭で最優秀にノミネートされる笑顔だったぞ」

「そんな賞ない」


 午後の授業のチャイムが鳴るまで、俺はずっと心臓の置き場所がわからないままだった。置き場所がわからない心臓は、だいたい落ち着かない。


 放課後。

 黒板消しを頼まれて、俺は黒い面を白く戻していく。消しカスがはらはら舞う。袖に粉がついた。軽く払っていると、背後で気配が止まり、やわらかい布がそっと当てられた。

「……ついてる」

「ありがと」

「動かないで」

 俺は素直に止まる。彼女のハンカチは石けんの匂いがした。きつすぎない、ちゃんと水で薄くなった匂いだ。拭き終えると、桐ヶ谷は鞄からノートを一冊取り出した。

「これ、宿題の答え。昨日、間違えてたから」

「俺の?」

「……うん」


 ノートを開く。俺の字が、俺が書いたままの位置に残っている。そのすぐ横に、小さく丁寧な字で正しい式と答え。間違えた理由も、短く添えられていた。ことばは少ないのに、説明はそれだけで足りてしまう。


「どうしてわかったの」

「……隣の字、見えたから」

「見てたの?」

「……見てない」

 小さい声だった。だが、その小ささが逆に真っ赤に見せた。視線がくるくると逃げ場を探して、それでも逃げ切れずに、最後は俺の肩くらいの高さに落ち着く。


「もしかして、ずっと俺のこと――」

「見てないっ」

 いつもより一段高い声で遮られた。桐ヶ谷が顔を覆うようにノートを閉じる。

「違うの。違うけど……その、間違ってるの、気になって。だって、隣の席」

「……そっか」

「だから、べつに、見てない。……見てない」


 繰り返すたびに、ますます見ていたみたいになるのが不思議だ。俺は笑いをこらえるのに必死で、でも口角が少しだけ勝手に動いた。

「ありがとう。助かった」

「ううん。……空席、苦手だから」

「空席?」

「隣の席、空いてると、なんか寒い。だから、埋まってた方がいい」

 昨日も聞いた言葉の、少しだけ言い回しの違う形。

「じゃあ、今日も俺、埋めとく」

「……うん」


 そこでチャイムが鳴った。自習の時間に切り替わる合図だ。桐ヶ谷は小走りに教室を出て、廊下の向こうで立ち止まる。振り向く。

「……また明日」

 手は振らない。目だけで振る。俺はうなずいた。


 昇降口へ向かう途中、ハルカが横に並んだ。

「たのしそうだね」

「べつに」

「べつに、は満更でもない、の略だよ」

「略しすぎ」

「じゃあ、満更でもない」

「否定しづらい」

「でしょ」

 ハルカは笑って、先に走っていった。廊下に残る足音が軽い。俺の足は、もう少しだけ重い。いい意味で。


 夕方。

 部活のかけ声やボールの音を背に、俺はゆっくりと帰った。雲の切れ目から見える青が水色に近くて、息を吸うと胸の真ん中がひんやりとする。家に着いて、部屋のドアを閉めた途端、スマホが震えた。クラスのグループが騒がしい。

〈今日の昼、桐ヶ谷さんが藤堂にあーんしてた〉

〈生で見た。ガチだった〉

〈写真ある人、共有よろしく〉

 コメント欄があっという間に増えていく。タカヒロが「羨ましい人生」と書き、ハルカが「次は動画で」と燃料を投下する。俺は「やめて」とだけ打ち込んだ。さらに通知。個人チャットがひとつ。


 送り主は、桐ヶ谷ミサ。

 画面の文字は短い。


〈あの件、別に気にしてないから〉


 あの件、がどれの件なのか、迷う間もなく、指が勝手に返信欄をひらく。昼の“いる!”事件か、朝の英語の“違う”か。どっちにしても、気にしていたのは俺の方だ。


〈俺も。ありがとう〉


 既読の印が一瞬でつく。続けて、また短い文字。


〈……明日も、隣。〉


 句点まで含めて、俺の胸ポケットの中にすとんと入ってきた。入ったまま、しばらく動かない。動かしたくない。俺はベッドに仰向けになって、天井の白い模様を見つめる。

 たぶん、これからもっと近くなる。少しずつ、ゆっくりと。

 その「少しずつ」と「ゆっくり」を焦らないでいられるかどうかが、明日をうまくやれるかどうかの分かれ目だ。あわてると、だいたい転ぶ。転んだときに手を差し伸べてくれる人がいればいいけど、毎回あるとは限らない。だから、急がない。急がない練習を、今、ここでしておく。


 机に向かって、昨日から始めたメモのページをひらく。タイトルはてきとうに「今日の出来事メモ」。そこに箇条書きで書き足していく。

 席は今日も隣。

 朝、ペンを拾ってもらった。

 英語の音読、教えてもらった。

 昼、卵焼きを食べた。甘かった。

 放課後、ノートを直してもらった。

 空席は寒い、という話。

 明日も隣、という約束のようなことば。


 最後の行に、ペン先を迷わせたあと、ゆっくりと書く。

 だが、俺の隣は今日も満席だ。

 満席の意味は、きっと座席の数じゃない。空いてるところがなくなることじゃない。空いてるところが空いてるままでも、寒くないこと。そこに座ってほしい誰かの影が、ちゃんと温度をくれること。今日、少しそれがわかった。明日、もっとわかる気がする。


 机の上でスマホがまた震いた。タカヒロだ。

〈ユウト。明日、購買の新作パン、出るらしい。取りにいくか。あと、胃袋を攻める練習〉

〈攻めない〉

〈じゃあ、守備。卵焼きの守備範囲を広げろ〉

〈意味がわからない〉

〈わからなくても、だいたい楽しいのが高校だ〉

〈それはそう〉


 やり取りを切って、部屋の灯りを弱くする。カーテンの隙間から、遠くの街の灯りが、点と点でつながっているのが見える。どの点にも誰かの夜があって、それぞれに誰かのメッセージが届いているのかもしれない。俺のところには、さっき届いた短いことばが、まだ胸ポケットの中で、静かに温かい。


 布団にもぐって目を閉じる。耳の奥に残ったのは、桐ヶ谷の「うん」と「よかった」と「……明日も、隣」。どれも短い。短いのに、全部がちゃんと響く。長い文章は少しずつ褪せていくのに、短いやつはいつまでも明るい。

 しゃべらない彼女は、たぶん、言葉を大事にしている。むだにしない。だから、一言でも重い。だから、胸の内側で長く鳴る。

 眠りに落ちる前、俺はもう一度だけ、心の中でつぶやいた。

 だが、俺の隣は今日も満席だ。

 そして、明日も。たぶん、明後日も。俺がちゃんと席をあけず、でも窮屈にもしないやり方で、ずっと。

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