第三章 閉ざされた記憶
その日から、湊は放課後になると自然と公園へ向かうようになった。
学校が終わり、街のざわめきが静まるころ、
滑り台の下にはいつも紬がいた。
彼女は小さなノートに何かを書いたり、瓶を陽にかざしたりしていた。
湊が近づくと、いつも穏やかな笑みを浮かべる。
それがまるで“おかえり”とでも言うように。
「今日も来たんだね。」
「……うん。」
「じゃあ、今日の涙の話をしてあげる。」
紬の声は、風の音と混ざり合いながら湊の耳に届いた。
「今日はね、あるお母さんの涙をもらったの。病院で眠る娘さんの手を握りながら、『もう一度だけ笑ってほしい』って泣いてた。あの涙は、やさしい色をしてたよ。悲しいけど、愛がこもってた。」
「……そんな涙もあるんだな。」
「うん。涙ってね、流すたびに人をつなげるんだよ。泣くことを恥ずかしいと思う人も多いけど、本当はその逆。誰かを想って泣けるって、それだけで美しいことなの。」
湊は黙って聞いていた。
紬の語る“涙の物語”は、どれも悲しくて、でもあたたかかった。
話を聞くたびに、胸の奥がかすかに疼く。
何かが少しずつ、形を取り戻していくような感覚だった。
しかし――
そんな日々が二週間ほど続いたある日、紬は突然姿を見せなくなった。
放課後、公園へ行っても誰もいない。
滑り台の下には、昨日まであった足跡さえ消えている。
ただ、ベンチの上に小さな瓶が置かれていた。
蓋には白いリボンが結ばれており、中には淡く光る“ひとしずく”の水。
そして瓶の底には、小さく折りたたまれた紙が入っていた。
湊は震える手でそれを取り出し、広げた。
「あなたの涙は、まだここに眠っている。泣けないことを責めなくていい。でも、忘れないで。本当の痛みは、まだあなたの中にあるから。」
文字は優しく、どこか切なかった。
紬の筆跡だとすぐにわかった。
湊はその場に立ち尽くした。
空は曇り、風が冷たく頬を撫でる。
胸の奥が妙にざわついて、息が詰まるようだった。
「……紬?」
呼んでも、返事はない。
その代わりに、頭の奥で何かが“ぱちん”と弾けた。
目の前が白く滲む。
そして――
記憶の扉が、静かに開いた。
あの日の記憶。
雨の日、母の声、そして壊れていく世界。
車のブレーキ音、割れるガラス、鉄の匂い。
視界の中で、母の姿が倒れていた。
自分の手には、母の温もりがまだ残っている。
「いやだ、いやだ……お母さん!」
泣き叫ぶ幼い自分。
それでも、誰も助けに来ない。
救急車のサイレンが近づく音だけが、遠くで響いていた。
そのとき、誰かが背中を撫でながら言った。
「大丈夫、もう泣かないで。」
その言葉が、湊の中で“禁句”になった。
泣くことは、弱いこと。
泣いたら、誰かを困らせる。
そうやって、自分を守るようにして心を閉ざしたのだ。
気づけば、湊は膝を抱えてベンチに座っていた。
瓶の中の光が、夕暮れの色に染まりながら微かに揺れている。
涙は、まだ出なかった。
けれど胸の奥が熱い。
何かが溶け始めているのがわかる。
「……紬。」
その名を呼ぶと、どこからか風が吹いた。
木々の葉がざわめき、瓶の中の光が一瞬、強く輝く。
その光の中に、淡い人影が見えた。
――紬だ。
白いワンピースをまとい、優しく微笑んでいる。
「思い出せたね。」
「……君、どこにいたんだ。」
「私は、ずっとここにいたよ。あなたの心の中に。」
紬の声が、直接胸の奥に響く。
現実の音が遠のいていく。
「湊くん、泣いていいんだよ。」
「……でも、怖いんだ。」
「怖くてもいい。痛みは消えないけど、涙を流せば――少しだけ、優しくなれる。」
光の中で、紬がそっと微笑む。
その姿は少しずつ薄れていく。
まるで光に溶けるように。
「紬!」
湊が叫んだ瞬間、光ははじけ、世界は再び静寂に包まれた。
手の中には、小瓶だけが残っていた。
けれどその瓶は、もう空ではなかった。
底に、ほんのわずかに――“しずく”がひとつ。
それは、湊の涙だった。
夜、家に帰ると、窓の外には満天の星が広がっていた。
湊は机の上に瓶を置き、その光を眺めた。
母のことを思い出しても、もう胸を締めつけるような痛みはなかった。
代わりに、あたたかな記憶が静かに蘇る。
母が笑ってくれた日。
手を繋いで歩いた帰り道。
風に揺れる彼女の髪の匂い。
そのすべてが、ひとすじの光のように胸の奥に流れ込んでくる。
そして、気づいた。
頬を伝う温かいものがあることに。
――泣いていた。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
ようやく心が“生きている”と感じた涙だった。
湊はそのまま、小瓶を胸に抱いて目を閉じた。
風がカーテンを揺らし、夜の星が静かに瞬いている。
「涙は、失うためのものじゃない。誰かとつながるためのものなんだよ。」
――紬の声が、どこか遠くでやさしく響いていた。
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