涙をなくした少年

無咲 油圧

プロローグ 涙をなくした少年

人は、生まれたとき泣きながら、この世界にやって来る。

だからきっと、涙は生きることのはじまりにある。


けれど――その涙を、忘れてしまった少年がいた。


少年の名は、湊(みなと)。

幼いころ、ある日突然、彼の中から“泣く”という行為が消えた。

母が亡くなった日の夜、あの声を最後に、湊の心は静まり返ってしまった。


――泣いても、どうにもならない。


その言葉が胸の奥で固く結晶になり、やがて心を覆い尽くした。

悲しみも、痛みも、涙に変わらない。

喜びすら、どこか遠くに置き忘れたようだった。


高校二年になった今も、彼の世界は静寂に包まれている。

誰かの笑い声も、春の匂いも、窓の外の青空さえも、

心の奥に届く前に色を失ってしまう。


そんなある日の放課後。

灰色の雲が空を覆い、雨が降り出した。

湊は傘も差さずに、人気のない公園のベンチに腰を下ろす。

水たまりに映る自分の顔は、まるで別人のように冷たかった。


そのとき、ふと視界の端に“誰か”がいた。


滑り台の下で、小さな傘をさしながら、静かに空を見上げている少女。

雨に濡れた頬を、透明なものが伝っていた。

それが涙だと気づいた瞬間、湊の胸がかすかに揺れた。


――どうして泣いているんだろう。

――どうして、自分は泣けないんだろう。


その小さな疑問が、やがて長い旅のはじまりになることを、

このときの湊はまだ知らなかった。


雨の音が静かに降りしきる。

やがてその音は、凍てついた少年の心を、少しずつ溶かし始めていく――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る