第5話

◆◆◆第5章 覚醒と絶望――操られた真実


深夜3時。


玲奈は、眠っている熊五郎の横で、ノートPCに向かっていた。


手元には、小さな注射器。


中には――熊五郎の血液。


彼が眠った隙に、採取したものだ。


(ごめんなさい、熊五郎)


玲奈は公安の秘密回線で、検査機関に送信した。


『緊急分析依頼。至急結果を』


返信は、30分後に来た。


画面に表示される分析結果。


玲奈の顔が、青ざめた。


---


検出物質:特殊化学薬品「ソムニウムX」

効果:記憶抑制、暗示命令への従属

投与方法:定期的な注射が必要

開発元:警察庁科学研究所


---


「……やっぱり」


玲奈は拳を握りしめた。


SLEEP WALKERプロジェクト。


それは、本当に存在していた。


そして――


熊五郎は、操られていた。


玲奈は立ち上がり、窓の外を見た。


夜明けが近い。


(どうする……? このまま黙っているべきか)


(それとも――)


その時、背後で声がした。


「……起きてたのか」


振り返ると、熊五郎が目を覚ましていた。


「あ……ええ。眠れなくて」


「そうか」


熊五郎はソファから立ち上がった。


大きな体が、薄暗い部屋に影を落とす。


「玲奈」


「何?」


「俺……やっぱり、変だよな」


玲奈は息を呑んだ。


熊五郎が続ける。


「記憶が飛ぶこと。

 あれ、ただのストレスじゃない気がする」


彼は、自分の手を見つめた。


「もしかして……俺、本当に何かしてるんじゃないか?」


玲奈は答えに迷った。


(言うべきか……?)


だが――


熊五郎の目には、覚悟があった。


真実を知る覚悟。


玲奈は、小さく頷いた。


「……熊五郎。一緒に確認しましょう」


「何を?」


「あなたの記憶。正確に」


---


玲奈はノートPCを開いた。


「あなたが記憶を失った日時を、全部教えて」


熊五郎は、スマホのメモを見ながら答えた。


「……3週間前の金曜、夜10時から深夜1時まで」


玲奈は、その日のニュースを検索する。


画面に表示される見出し。


『六本木ヒルズで投資家殺害。熊の爪痕』


死亡推定時刻:午後11時30分


熊五郎の顔が、強張った。


「次は?」


「……2週間前の水曜、夜9時から11時」


玲奈が検索する。


『西麻布クラブオーナー殺害』


死亡推定時刻:午後10時20分


熊五郎の手が震え始めた。


「まだある?」


「……1週間前の月曜、夜8時から11時」


検索。


『タワマン住人殺害』


死亡推定時刻:午後9時40分


そして――


『麻布の研究者・相沢研一郎殺害』


死亡推定時刻:午後10時15分


完全一致。


全ての殺人時刻と、熊五郎の記憶の空白が――


完全に一致していた。


熊五郎は、床に膝をついた。


「……嘘だろ」


声が震えている。


「俺が……俺が殺したのか……?」


玲奈は、彼の肩に手を置いた。


「熊五郎。あなたは操られていた」


「でも……」


熊五郎は、自分の手を見つめた。


この手が。

この爪が。

4人を殺した。


「相沢さんも……俺が……」


涙が、床に落ちた。


巨大な熊が、子供のように泣いていた。


玲奈は、静かに言った。


「あなたは被害者よ。でも――」

「分かってる」


熊五郎が顔を上げた。


「俺の手が、人を殺した。

 それは、事実だ」


彼は立ち上がった。


「自首する」

「待って」


玲奈が腕を掴んだ。


「まだ終わってない」

「何が?」


玲奈はノートPCを向けた。


画面には、神宮寺と相沢昂一の通信記録。


「これを見て」


---


神宮寺→相沢昂一


『熊五郎の"起動"は成功。世論は完全に熊族排除に傾いた』


相沢昂一→神宮寺


『よし。次は"逃亡ルート"の準備だ』


神宮寺→相沢昂一


『北方ルートは確保済み。熊族の船も用意した』


相沢昂一→神宮寺


『完璧だ。日本は熊を排除し、ロシアに……』


(以下、暗号化)


---


熊五郎が眉をひそめた。


「……逃亡ルート?」


「ええ。あなたを逃がす計画があるの」


「なぜ? 俺は犯人だぞ?」


「それが分からない」


玲奈は画面をスクロールした。


「でも、何度も出てくるの。

 "北方ルート"って言葉が」


「北方……?」


その時――


窓ガラスが割れた。


閃光弾が転がり込む。


「伏せて!」


玲奈が叫んだ。


次の瞬間、爆音と光。


視界が真っ白になる。


ドアが蹴破られた。


武装した警官たちが雪崩れ込む。


その先頭には――雛森。


「熊五郎! 投降しろ!」


熊五郎は立ち上がった。


「雛森……」


「射殺命令が出ている。抵抗するな」


銃口が、熊五郎に向けられる。


玲奈が叫ぶ。


「待って! 彼は操られていた!」


「知ってる」


雛森が冷たく言った。


「でも、それは関係ない。

 彼の手が、4人を殺した。

 それが事実」


熊五郎は、両手を上げた。


「……分かった。撃て」


「熊五郎!」


玲奈が悲鳴を上げる。


だが――


雛森は、引き金を引かなかった。


「……撃てないのか?」


熊五郎が言った。


雛森の手が、震えていた。


「……私は、任務を」


「嘘つけ」


熊五郎が一歩踏み出す。


「お前、本当は俺を撃ちたくないんだろ?」


雛森の目が揺れた。


「……黙れ」


「3年間、一緒に働いた。

 あれは全部、嘘だったのか?」


「任務だった」


「じゃあ、なぜ撃たない?」


雛森は唇を噛んだ。


その瞬間――


後ろから銃声。


雛森の部下が、天井に向けて撃った。


「早く確保しろ!」


混乱。


その隙に、玲奈が煙幕を投げた。


「今よ、熊五郎!」


玲奈が窓を割る。


「飛び降りるぞ!」


「え、また!?」


二人は窓から飛び出した。


3階から、路地裏へ。


着地。窓からの脱出+保護ネットは公安の得意技か。


玲奈が先導する。


「こっち!」


背後で雛森の声。


「待て! 逃がすな!」


だが――


追っ手は、不自然に遅かった。


まるで――


わざと逃がしているような。


熊五郎もそれに気づいた。


「玲奈……これ」


「私も気づいた。罠かもしれない」


二人は地下道に滑り込んだ。


暗闇の中を走る。


やがて――


小さな光が見えた。


出口だ。


だが、そこに立っていたのは――


黒ずくめの男たち。


「熊五郎だな」


低い声。


玲奈が銃を構える。


「誰!」


「落ち着け。敵じゃない」


男がIDを見せた。


内閣情報調査室


政府の諜報機関。


「お前たちを、安全な場所へ送る」


「なぜ?」


「詮索するな。これが最後のチャンスだ」


男は後ろを指差した。


そこには、黒い車が数台。


「乗れ」


熊五郎と玲奈は顔を見合わせた。


(罠か?)


(でも、選択肢はない)


二人は車に乗り込んだ。


車は走り出す。


行き先を告げられないまま。


---


1時間後。


車は、港に到着した。


「ここは……?」


暗い埠頭。


そして――


そこには、大勢の熊族が集まっていた。


「黒滝!」


熊五郎が叫ぶ。黒滝は同期の警察官だ。


黒滝が振り返った。


「……五郎」


彼の顔は、疲れきっていた。


「お前も……追われてるのか」


「ああ。熊族の警察官、全員に指名手配が出た」


周りを見ると、見覚えのある顔ばかり。


麻布署の仲間たち。


みんな、逃亡者になっていた。


黒ずくめの男が言った。


「全員、乗れ」


指差す先には――大型の船。


「どこへ行くんだ?」


「安全な場所だ」


「答えになってない」


男は無表情で繰り返した。


「乗れ。これが最後の忠告だ」


遠くから、サイレン。


警察が追ってくる。


黒滝が言った。


「五郎……乗るしかねえ」


熊五郎は拳を握った。


何かがおかしい。


政府が、なぜ俺たちを逃がす?


だが――


時間がない。


「……分かった」


熊族たちは、船に乗り込んだ。


玲奈も一緒だ。


「私も行く」


「危険だぞ」


「だから行くのよ」


船が動き出す。


東京の夜景が、遠ざかっていく。


熊五郎は、デッキに立った。


黒滝が隣に来た。


「なあ、五郎」


「何だ?」


「俺たち……もう戻れねえのかな」


熊五郎は、答えられなかった。


船は、北へ向かっていた。


その先に何があるのか――


誰も知らない。


玲奈は船室で、ノートPCを開いていた。


持ち出した資料を、もう一度読み返す。


そこに、何度も出てくる地名。


「択捉島」「国後島」


北方領土。


玲奈の目が、大きく見開かれた。


「……まさか」


全てが、繋がった。


熊排除。


北方ルート。


そして――


熊族の戦闘能力。


「これって……」


玲奈は立ち上がり、デッキへ走った。


「熊五郎!」


「どうした?」


玲奈は息を切らしながら言った。


「分かったわ……全部」


「何が?」


「私たちが、どこへ向かってるのか。

 そして――なぜ、政府が私たちを逃がしたのか」


熊五郎の目が、鋭くなった。


「言え」


玲奈は、震える声で答えた。


「北方領土よ。

 私たちは――兵器として送られる」


風が吹いた。


冷たい、北の風。


熊五郎は、海を見つめた。


遠くに、島影が見え始めていた。

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