第二話 虚像の論理
けたたましい笛の音と、革靴が床を踏みしめる無粋な音が、螺鈿の迷宮に響き渡った。
「外へ! 皆さん外へ出てください!」
警官の怒声が、私の甘美な観照を打ち破る。私は、無骨な手に背中を押され、あの「万華鏡の間」から引き離された。
惜しいことだ。あの完璧な「作品」が、土足で踏み荒らされ、検分という名で解体されていく。あの恍惚とした阿久津の表情が、ただの「変死体」として処理されていく。
館の外へ出ると、いつの間にか雨脚は強まり、浅草六区のネオンが滲んで、まるでこの世の輪郭が溶け出しているようだった。
館の前には、どこから嗅ぎつけたのか、黒山の人だかりができていた。皆、この生ぬるい雨の中、他人の「死」という名の娯楽に飢えた顔をしていた。
その野次馬の中に、ひどく場違いな男が一人、紛れ込んでいた。ヨレヨレの和装に、雨で湿った鳥打帽を目深に被っている。無精髭の生えた口元はだらしなく半開きで、安酒の匂いが雨の匂いに混じって漂ってきた。男は、館の入口を、まるで品定めでもするかのように、ぼんやりと眺めている。
私の視線に気づいたのか、男はゆっくりとこちらを向いた。濁った目が、私を値踏みするように細められる。
「……あんた、中から出てきたね」
しゃがれた声だった。
「随分と良い顔色をしている。……見たのかい? あの『傑作』を」
『傑作』。
その言葉に、私はこの男に対する警戒を解いた。同類、あるいは、少なくとも理解者だ。
「ええ。この世のものとは思えぬ、見事なものでした」
「だろうね」
男は満足そうに頷き、懐から安煙草を取り出して火をつけた。紫の煙が雨に溶ける。
「
「……あなたは?」
「日暮 涯。しがない探偵さ。もっとも、こんな怪奇趣味の事件じゃ、俺の出番はないがね」
日暮と名乗る男は、私を促し、近くの薄汚い煮込み屋の屋台に誘った。赤黒く煮詰まった鍋の匂いと、安酒の匂い。これ以上、今の気分にふさわしい場所もないだろう。私が熱に浮かされたように、あの「万華鏡の間」の光景を語るのを、日暮は黙って聞いていた。
鏡に張り付く死体。
背中に刺さった螺鈿の杭。
犯人の痕跡がない密室。
そして、阿久津の恍惚の表情。
「……まるで、鏡そのものに殺されたようでした。鏡の中の『虚像』が、『実像』を抱きしめて殺した……」
私の言葉に、日暮は濁酒の入った汚れたコップを傾け、あくびを一つした。
「ああ、簡単なことさ」
彼は、何でもないことのように言った。
「犯人は、あの番台だよ」
「……番台?」
予想もしなかった、あまりに即物的な答えに、私は拍子抜けした。
「しかし、彼は入口に。それに、あの密室は……」
「密室じゃあない」
日暮は、歯に挟まった何かを爪楊枝で探りながら、面倒くさそうに続けた。
「『万華鏡の間』なんて大層な名前がついてるが、要は鏡の寄せ集めだ。八角形と言ったかい? 鏡ってのは、角度を計算すりゃ、いくらでも『死角』が作れる。番台のいる入口から、ちょうど『見えない』場所が、一つ二つあったはずだ」
「では、あの杭は……」
「阿久津を別の場所で殺したのさ。あの『螺鈿の杭』も、元々館にあった装飾品かなんかだろう。死体を例の『万華鏡の間』まで運び込み、例の『死角』から鏡に押し付けた。あとは、あたかも『鏡の中から刺された』ように見せかけただけさ」
日暮の推理は、あまりに明快で、あまりに無粋だった。
「動機は?」
「そりゃ、痴情のもつれってやつだろう。あの番台には、不釣り合いなほど美しい女房がいる。阿久津の旦那が、それに手を出そうとしていた。……この界隈じゃ、ちっとした噂さ」
日暮は、汚れた手ぬぐいで口元を拭った。
「なるほど……」
私は感心した。彼の推理には、破綻がない。すべての辻褄が合っている。
「猟奇的に見せかけたのは、なぜです?」
「簡単なことさ。番台は自分が第一容疑者だとわかっていた。動機があるからな。だから、捜査を混乱させる必要があった。あんたみたいな『事件マニア』や、頭でっかちの
日暮はコップの底に残った濁酒を飲み干した。
「ま、これで一件落着だ。警察も、じきに番台を引っ張るだろうよ」
私は、彼の完璧な「論理」に、何も言い返せなかった。
そうだ、現実は往々にして、そんなものだ。おぞましい狂気や怪奇現象などではなく、ありふれた憎悪と嫉妬が、人を殺すのだ。
しかし、釈然としない。私の脳裏に、あの阿久津の顔が焼き付いて離れない。
(違う)
私は心の中で呟いた。
(あの死に顔は、番台ごときに殺された顔ではなかった。ましてや、人間の女を巡る痴情のもつれなどで、あんな『恍惚』の表情が浮かぶものか)
あれは、人知を超えた「何か」との邂逅。
あの世の美に触れた者だけが浮かべる、禁断の法悦の顔だった。
そして、あの「螺鈿の杭」。
日暮の言う「皮肉」だけで、あの、まるで最初からそこにあるべきだったかのような、異様なまでの「調和」が説明できるというのか。
まるで、あの館そのものが、阿久津を己の一部として取り込もうとしたかのように……。
「……どうかしたかい? 探偵先生の推理に、不満でも?」
日暮が、私の顔を覗き込んでニヤリと笑う。
「いえ。完璧なご推理です」
私は無理に笑顔を作った。
日暮は「そうだろう、そうだろう」と満足げに頷くと、「ああ、勘定は頼むよ。ちっと野暮用を思い出した」と言い残し、雨の闇に消えていった。
私は一人、冷めた煮込みを前に、日暮の「論理的な真実」と、私の「非論理的な直感」の狭間で揺れていた。
警察が番台を逮捕し、事件が「解決」されたとしても、私の中の渇きは満たされないだろう。むしろ、あの「釈然としない」感覚こそが、私を次の怪奇へと駆り立てるのだ。
私は、雨に煙る螺鈿迷宮館の方角を振り返り、もう一度、あの阿久津の恍惚の表情を思い出し、背筋に冷たい歓喜が走るのを感じていた。
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