刻書堂 ― 記憶の頁を紡ぐもの ―
泉 梓
閉ざされた時間の記憶
鏡郷市は、新旧が入り混じる地方都市だ。ガラスのビル街と古い石畳の道が肩を並べ、歴史を物語る神社の鳥居が、高層ビルのガラスに映り込んでいる。高校二年の高槻 陸(たかつき りく)にとって、この街は退屈なほど平和な日常そのものだった。だが最近、その日常が、少しずつ彼の心を圧迫し始めていた。
それは、未来に対する漠然とした焦燥感だ。受験、進路、友人関係――全てが曖昧に「失敗する」という未来の予感として、陸の心を覆い始めていた。
「いや、違う。まだ何も始まってないんだ」
陸は自室で、机の上の小さな木製アナログ時計を見つめた。午前十時。土曜日の昼前。参考書を開いているが、文字は全く頭に入ってこない。その時計は、彼が小学生の頃から使っている、ごく普通の時計だ。だが、この数ヶ月、陸の自室でだけ、不可解な現象が起こり始めていた。
それは、陸が「絶対に失敗できない」と強く意識する瞬間の直前に起こる。例えば、期末テストの直前。そして今、進路を決める重要な模試を翌週に控えたこの時期だ。
陸は目を閉じ、時計の秒針の音に耳を澄ませた。規則正しい「チッ、チッ、チッ」という音。そして、次の瞬間。
「……まただ」
時計の秒針が動力を失ったように「カチン」と音を立てて止まった。止まった針が指し示すのは、午前十一時十七分。陸はその時刻が、彼が先日受けた校内模試で、赤点ギリギリの点数を出した時に時計を見てしまった時刻と、全く同じであることを知っていた。
「俺の部屋の時計だけが、なぜか『失敗の時刻』を覚えて、そこで止まるんだ」
それは、自分自身の焦燥が生み出した幻覚か、あるいは誰かの悪意あるイタズラか。だが、彼の部屋にある他の時計、例えば古い砂時計や、目覚まし時計までが、彼の不安に反応するように、決まった「失敗の形」で動きを止めるのだ。砂時計は決まって、ある一定の箇所で砂が堰き止められたように落ち切らない。陸は、この現象が自分の「失敗する未来」を予言しているように感じ、耐えられなくなっていた。陸はついに耐えかねて、高校の美術教師から聞いた奇妙な噂を思い出した。駅裏の古い路地にある古書店の噂だ。
――刻書堂(こくしょどう)。その店は、古い書物だけではなく、この鏡郷市の『過去』そのものを扱っているらしい。
陸は半信半疑ながら、リュックを掴んで家を飛び出した。
路地裏の奥、ひっそりと佇むその店は、噂通りどこか青白い光を放ち、周囲の風景から隔絶されたように静かだった。重い扉を押し開けると、古書の匂いと、微かなコーヒーの香りが混ざり合った、独特の空気が鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、静かで涼やかな声がした。そこにいたのは、深緑の作務衣を纏い、長い黒髪を一つに束ねた女性だった。二十代半ばだろうか。彼女の端正な顔立ちと、店内の薄暗さの中にあっても際立つ琥珀色の瞳が、陸の不安を吸い取るように静かに彼を見た。
「あの……すみません。この店、外から見ると、時間が止まっているように見えたので」
陸は緊張を誤魔化すように、外観を理由にした。
「実は、自分の周りで起こっている不可解な現象について、何か知恵を借りられないかと思いまして」
その女性は優雅に微笑み、彼の前にカップを滑らせた。
「ええ、ここでは『街の記憶』を扱っているわ。ようこそ。……でも、コーヒーは淹れてしまうけれど、座らない方がいい。あなたの背中に、とてもうるさい『時の砂の音』が張り付いているから」
陸はゾッとして、カウンターから少し離れた。
「時の、砂の音?」
「ええ。あなたは今、とても強い焦燥と諦念を抱えている。それがこの鏡郷市の古い感情の痕跡と共鳴して、あなたの周りの『時間』を乱しているのよ。特に、あなたの『失敗を恐れる心』を餌に、過去の痕跡が呼び寄せられているわ」
陸は自分の部屋の時計のことを説明した。
「特定の時刻で止まるんです。いつも俺が『もし失敗したら』と考える、その結果の時刻で」
彼女は静かに、滴っていたコーヒーのドリッパーをゆっくりと下ろした。その細い目がわずかに開く。
「それはあなたの焦燥が、この街に眠る『時間のズレ』を現実のものにしているの。その時計が示すのは、あなたの未来ではない。それは、この土地で、かつて夢を追うことを結果が出る前に諦めてしまった、誰かの『閉ざされた時間の記憶』よ」
彼女は店の奥にある古書棚から、ボロボロになった一冊の詩集を取り出した。
「あなたの部屋のある場所、かつては詩や文学を志す若者が集まった『私設アトリエ』の跡地だった。彼らの多くは、才能を信じきれず、結果が出る前に故郷へ帰ったか、筆を折った。その中に、『結果が出るのが怖くて、約束の時刻の前に全てを辞めた者』の強い未練の痕跡が残っている」
「その痕跡は、あなたの『失敗を恐れる心』を餌に、『誰も努力など無駄だった』と証明したがっている。だから、あなたの時計や砂時計の時間を奪い、『結末を迎える前の停滞』を強いているのよ」
陸は呆然とした。自分の不安が、街の古い怨念のようなものに呼び寄せられているというのか。
「じゃあ、俺はどうすれば……。一緒に行ってくれませんか? 時計を元の場所に戻すだけでも!」
彼女は、陸の顔を見ることもなく、カウンターを磨く手を止めずに答えた。
「あら、ごめんなさいね。私、今日の夕食の献立を考えないといけないから、外に出ている暇はないのよ。だって、ハンバーグの付け合わせ、フライドポテトとマッシュポテト、どちらが良いか決めかねていて。とても大事な問題でしょう?」
あまりにもあからさまな、不自然な、そして不可解な嘘だった。陸の深刻な事態を前にしても、彼女の関心はハンバーグの付け合わせに注がれているように見えた。
陸は諦めて、解決策を求めた。
「わ、わかりました。では、俺はどうすればいいんですか?」
そう聞いて彼女は詩集から一枚、古い栞のようなものを抜き取り、陸に手渡した。
「一つ、条件があるわ。あなたがもし、この栞の力で『時の流れ』を取り戻すことに成功したら、その時のあなたの感情と行動、全てを詳細に記した『記録の頁』を、必ず私に提出すること。それがこの店からの対価よ」
陸は緊張した面持ちで頷いた。
「よろしい。あなたは今すぐ家へ戻りなさい。そして、その栞を、止まっている時計と砂時計の真ん中に置くの。この栞には、諦められなかった詩人の『最後の意志』が刻まれている。あなたは、その意志に『あなたの未来はまだ終わっていない』という、諦めない決意で応えるの」
「時計が指す停滞した時刻に、あなたの力で、新たな『時の流れ』を上書きしなさい。」
陸は家へ戻り、自室の机の上に栞を置いた。栞は詩集から抜き取られたものではなく、「これから書かれるべき白紙の頁」のように、真っ白だった。
陸は止まった時計を両手で強く握りしめた。
「俺は、諦めない。絶対に、勝ってやる!」
陸はそう叫ぶように決意し、指を震わせながら、時計の針が指す『失敗の時刻』を、力ずくで、正確な現在の時刻へとねじり戻した。
その瞬間、部屋の空気が一変した。時計は「チッチッ、チッチッ」と、数ヶ月分止まっていた時間を埋めるかのように、猛烈な勢いで回転を始めた。そして、正確な「午前十一時二十五分」を指したところで、静かに通常の秒刻みに戻った。
砂時計もまた、堰き止められていた砂がサラサラと流れ落ち、無事に時を告げ始めた。過去の未練は、陸の「未来への強い意志と行動」によって静められ、その場所から去ったのだ。
陸は、全身の力が抜けるほどの安堵に包まれた。そして、同時に強い困惑と使命感に襲われた。
「――そうだ。成功したら、あの人に『対価』を払わなきゃいけない」
あの琥珀色の瞳の女性は、ハンバーグの付け合わせを選びながらも、必ず解決の『記録』を要求してきた。陸は、自身が体験した現実離れした出来事の興奮が冷めないうちに、その「記憶の頁」を提出しなければならないという、奇妙な義務感に駆られた。
陸は、リュックを掴んで家を飛び出した。もう日が落ち、鏡郷市の空は青みが強くなっている。
陸は、胸の高鳴りを押さえつけながら、再び刻書堂を訪れた。
「時計は、動き出しました」
「そう。良かったわね。あなた自身の力で、この街の過去の痕跡を静かにすることができた」
陸はカウンターの隅に目を留めた。古めかしい小さな置き時計が、静かに時間を刻んでいる。それは、陸の部屋の時計と同じ形をしていた。
「あの、それは……」
「ええ。あなたが『時の流れ』を取り戻した証よ。彼は、彼自身の未来を取り戻した詩人として、私にこれを預けていった」
彼女はコーヒーを淹れながら、穏やかに言った。
「あの、まだ名乗っていませんでした。俺は、高槻 陸です」
陸は頭を下げて、ようやく名乗った。
「ええ、知っているわ」
彼女は微笑み、カップを置いた。
「この店の主人をしている、御子柴 篝(みこしば かがり)よ。よろしく、陸くん」
篝は初めて、陸の名を呼んだ。
「刻書堂に集まる記憶は、誰かの物語の『終わり』ではない。それは、次に続く『誰かの始まり』の頁なの」
御子柴篝は、静かにそう言って、陸に二杯目のコーヒーを淹れた。そして、初めて真剣な眼差しで陸を見つめた。
「さて、陸くん。あなたが成功した今、『対価』について、改めてその意味を知っておく必要があるわ」
「意味……ですか?」
陸は、栞を受け取る際に交わしたあの約束を思い出した。すでに知っているはずの対価だが、篝の静かな瞳から語られると、その重みが違った。彼は無意識にカウンターから一歩下がった。
「ええ。あなたはもう知っている通り、この店の対価は金銭ではないわ。あなたが体験し、乗り越えた『時間のズレ』の全て。そしてあなたが『諦めずに立ち向かった』その時の感情と行動の全てを、詳細に記した記録を提出してちょうだい」
篝は静かに、陸の琥珀色の瞳を見つめ返した。
「それは私たちにとって、ここで働き続けるための燃料になる。この街の古い『記憶の痕跡』を鎮め、次に進む誰かにその『頁』を渡すためには、新しい『諦めない記憶』が必要なのよ」
「燃料になる……」
陸は呆然と復唱した。ただの記録だと思っていたものが、この店の根幹に関わる、非日常的な意味を持っていたことに戦慄した。
「そう。物語として、私に提出するの。あなたが時計を取り戻した、その体験の全てをね。次に来た時で構わないわ。それが、あなたがこの店から得たもの――『未来を取り戻した時間』の代償よ」
「……わかりました」
陸は、この店が単なる古書店ではなく、『記憶』を糧とする場所であることを、この瞬間改めて理解した。
「ちなみに、陸くん。ハンバーグの付け合わせ、結局マッシュポテトにしたわ。フライドポテトはダメよ。あの形が、私にはどうしても『過去の未練』のように見えてしまうの。未練は、原型を留めて残してはいけないでしょう?」
そう言って、篝は悪びれる様子もなく、微笑んだ。鏡郷市の夜は、日常の神秘を隠すように静かに更けていく。そして、陸は、この日からこの店の数少ない常連の一人となった。
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