落下
水の神は手を二回打った。海中から鰐とも魚ともつかず象の鼻を持つ神獣が現われた。ヴァルナの
「私が前とは落ち着かんな。道を把握しているのはお前だろう」
インドラは振り向いて戸惑いを口に出した。ヴァルナは壺を抱える両手を固くしながら答えた。
「戦車において主は後ろにいるものだろう。マカラはお前の指示に頼らずとも帰るべき場所を知っている」
「おいおい、戦車だって? 俺はあんたが戦ってる姿を見たことがないぞ。一体どの戦で武功を立てたというんだ」
首の侮辱にヴァルナが怒り出す前に、インドラは急ぎ手で警告としてその耳を抓んだ。
「いたずらな口め。海の王を侮辱すればその
「落下、なあ。生者は浮くが、死体は沈む。身体は死んで首は生きている俺は、どっちになるだろうな」
「ほう、そいつは興味深い。試すか? この手はいつでも離せるぞ」
冗談に冗談で帰しているうちに、インドラは背中を海獣の主に小突かれた。
「お前達、私のマカラに道草を食わせる気か」
水神ヴァルナは約束どおり海中の宮殿に招いた二人を整った座に隣り合って座らせた。首の下には食べたものを落とす為の壺が据え付けられた。海の王は彼らの対面に座ると従者たちに良い香りのする粥を運ばせた。
「悪くないな。あとは真珠のように艶めく腕の女が俺の口元にこの粥を運んでくれれば最高だが。海王の宮殿の女達は己の容貌に自信がないのか?」
首は宮殿の主を挑発するように言った。ヴァルナの目が鋭く細まるのを見て、インドラは軽く溜息を吐いた。
この「束縛する者」は戦場においては敵を挑発し視野を狭めて隙を作る戦法に長けていた。その戦略或いは癖が彼のこの無礼さを産んでいるのだろう。しかし首だけになってしまえば勝算もないだろうに、海の神に挑むのは無謀が過ぎる。
「私が食べさせてやる。神々の王に召使の仕事をさせる豪奢を喜ぶといい。にしてもつくづく口の減らん奴だ」
「首だけで生きる羽目になった者にとって、動かし甲斐のある場所が口以外の何処にある? だがお前が自分から女の代わりを務めてくれるのか。そいつは極上の気分だ」
粥の入った匙を喉の奥まで突っ込めばさしもの首も黙るに違いないが、そのような口の噤ませ方は友に対しての手法ではない。インドラは苛立ちつつも、軽く手で扇いで熱を飛ばしてから匙を口に運んでやった。
そうして皿の半分ほどまで食べ勧めた頃、ヴァルナが躊躇うかのようにもたついた様子で言った。
「神々の王よ、お前とそのアスラの争いに関して私からも詫びねばならん事がある。いや……慈悲を乞いたい、と言うべきか」
海の神は探るように喋るが、インドラはすぐさま彼の懸念を見抜いた。
「お前の娘、スラーのことか」
水神ヴァルナの子の一柱に、スラーという名の女神がいる。そして彼女と共に世界に生まれ落ち名を共有する酒、即ちスラー酒こそ、ナムチがインドラを衰弱させ、あらゆる力を搾り取る為に用いた計略の要であった。
そもそもスラー酒とは神々からアスラからも地上の人間達からも好まれる飲み物ではあるが、一方で飲む者の知性を毒するが故に、神聖な儀式には用いられてはならないものであった。ナムチはこの魔性を帯びた酒を混入させたソーマをインドラの盃に注いだ。そして穢されたソーマを飲むという罪を犯したことで、インドラの身体は内側から破壊された。彼が身に起きた異変に気づいた時には、朦朧とする意識の中で偽りの友が一部始終を得意げに語るのを途切れ途切れに認識することしかできなかった。
「私は確かにスラー酒の所為で不覚を取り、ナムチに良いようにされはしたが、彼女が私の怒りを受ける謂れはない。全身の血管で煮え滾る我が怒りを注ぐべきはナムチ一人であり、我々の決着は既についている。スラー酒に関しては、卑劣だが巧妙なる策として学ばせてもらった」
インドラの言葉は気休めではない。敵対する相手や危険な苦行者を騙し或いは唆してスラー酒を呑ませるという計略は彼にとっても有益な手段となり得る。
「娘の命乞い? お前が本当に護りたいのはミトラで、子供はそのついでだろう」
首がそう言うと、ヴァルナの肩がびくりと跳ねた。その拍子に腕が滑り、壺が落下して横倒しになった。中からは白いものが幾つも零れた。その光沢は真珠にも似ていたが、それらは四角かった。
ヴァルナは慌てて壺に覆い被さるように身を大きく曲げ、落ちたものを拾い集めて壺に戻した。インドラは彼がこれほど取り乱すのを未だ見たことが無かった。余程の衝撃を受けたのだろう。
神々の王は匙を置いた。そして両手で首を持ち上げ目線を合わせると、声を低くして言った。
「アスラの勇者ナムチよ、神々の振る舞いを無暗に憎むべきものと捉えるな。同じアーディティヤ神群の一員として、海の王が子を慈しむ親、兄弟を愛する兄であることは私も知っている。伴侶ミトラに関しても娘スラーに関しても、彼を二度と侮辱するな。そもそも、私の心には友愛の神への憎しみもない」
ヴァルナと分かち難き兄弟の神ミトラとは、争いを厭い盟約を司る友愛の神である。彼はあらゆる盟約に力を与える。無論、インドラがナムチと交わした「決して殺さない」という誓いも例外ではない。
「そう言ってもらえると有難い。スラーに関しても、ミトラに関してもだ」
ヴァルナは安堵の表情をインドラに向けた。そして、その表情のまま視線を壺の中に落とした。
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