第5話
――ここは、広場から少し離れた場所にあるカフェ。
メインストリートの喧騒から隠れるように佇むその店は、祭り前日の混雑の中でも、どこか穏やかな時間が流れていた。
個室のソファ席。
そこでは、いまだ静かに怒りを漂わせている愛を、オズウェルがうっとりとした目で見つめながら、自身の身体で包み込むように囲っていた。
向かいに座る金髪の女性と、その背後に立つ三人の男たちは、終始気まずそうに身を縮めている。
「この度は、私事に巻き込んでしまい――」
謝罪の言葉を口にしかけた女性を、愛は冷ややかな眼差しで見据え、ぴしゃりと遮った。
「御託はいいから。――名前」
「は、はいっ! ユリスと申します……す、すみません……!」
愛の圧に気圧され、ユリスと名乗った女性は、条件反射のように謝罪の言葉を繰り返す。
そのしおれていく様子に、背後の男たちも思わず口を開きかけるが、愛の鋭い視線に射抜かれ、すぐに黙り込んだ。
「聞こえた話の限り、あなたたちにも事情があるのは分かったわ。けれど――まったくの赤の他人を巻き込んですることじゃないでしょう?それも、子どももいるような広場で。……大の大人が、いったい何をしているの」
「はい、まったくもってその通りです……。その……このままでは、無理やり結婚させられてしまうと思って、焦ってしまって……」
ユリスは肩を落としながら、ぽつりぽつりと、これまでの経緯を語りはじめた。
ユリスの家は、古くからこのルメリアで商いを営む由緒ある商家――フォルナート商会の娘であるらしい。
商会は主に香料を扱い、独自の製法で抽出したアクルナの香水アクルナシアムは、高貴な身分の人々の間でも人気が高い。
他にも、他国から取り寄せた香料とルメリア特有の魔力水を用いて、様々な香水や美容品を生み出し販売している老舗の大商会だという。
しかし、祖父が引退して父が商会を継いでからというもの、商売の知識はあるものの気弱な父は、周囲の言葉に振り回され、少しずつ商会には不穏な影が差し始めた。
優秀な兄があちこち奔走してどうにか屋台骨を支えてはいるものの、このままでは代々続いた商会が傾いてしまう――そう感じ始めた矢先のこと。
ライバル商会であるイラセント商会から、ユリスへの縁談が持ち込まれた。
イラセント商会は、フォルナート商会と同じく香料を扱う商会だが、芳しくない噂の絶えない商会であり、祖父も以前からその動向を警戒していた。
祖父は常々、父に対して「交渉するなら決して油断するな、足元をすくわれるぞ」と忠告していたが――ある日の交渉の席で、イラセント側が差し出した飲み物に酒を混ぜていたのだ。
酒に滅法弱い父はすぐに前後不覚となり、正気を失った状態で“友好の証”という名目のもと、ユリスと相手の息子との縁談を無理やり承諾させられてしまった。
先日、兄が留守にしている隙を狙い、イラセント商会の役員が数人、誓約書を携えてフォルナート邸へ押しかけてきたという。
その誓約書には、震えるような筆跡で父の署名が記されていた。
無理やり書かされたのは明らかだったが、魔力が込められていたため、確かに父本人によるものと認められてしまったのだ。
「その後、父は私に必死で頭を下げて謝ってくれましたが……あれほど祖父に『油断するな』と言われていた商会に、あっさり取り込まれてしまうような父に、もう愛想が尽きてしまって……。それで、そのまま家を飛び出したんです」
そう語るユリスの声は、怒りと悲しみが入り混じった震えを帯びていた。
彼女はその後、知人の家を転々としながら身を潜めていたが、つい先日、ユリスを連れ戻そうと動いていたフォルナート商会の者に見つかり、追われていた――というのが、先ほどの騒動の顛末だった。
「……その御父上、早々に引退させて田舎にでも監禁した方がいいわよ?」
思わず口をついて出た愛の言葉に、ユリスは力強く頷いた。
「ですよね。兄が戻ってきたら、こんな馬鹿げた話が続くはずがない。きっと、その方向で動いてくれるはずです。でも……兄が帰るまでに無理やり連れていかれたら、イラセント商会の連中に捕まって、そのまま結婚させられてしまう。そんなの、絶対に嫌。貴族でもない私が、こんな――政略結婚の駒にされるなんて……絶対に嫌なんです!」
「お嬢、旦那様も……悪気があってやったわけじゃ……」
背後で控えていた男のひとりが、おずおずと口を開く。だが、その言葉はユリスの怒りに油を注ぐ結果となった。
「悪気がないから、余計に性質が悪いのよっ! あの人はいつもそう!“悪気がない”なら娘を売り飛ばしてもいいっていうの?お爺様が……ご先祖様が守り続けてきた商会を、ぐちゃぐちゃにしてもいいの?!今まではお爺様の顔を立てて、お父様を商会長としてきたけれど――こんな失態続きでは、従業員だって離れてしまう!あなたたちだって分かるでしょう? 人が良いだけじゃ、駄目なのよ。それだけじゃ、あの狡猾な蛇たちに食われておしまいなのっ!」
今まで胸の内に溜め込んでいた鬱憤を吐き出すように、ユリスは声を張り上げた。
その瞳には、怒りだけでなく、悔しさと悲しみが滲んでいる。
「あなたたちだって、私の夢を知ってるくせに……。あと一歩だったのよ? 竜神の巫女になるのが夢だった私が、ようやく掴めたその一歩だったのに……。なんで……なんでよっ!」
そう言って両手で顔を覆ったユリスは、堪えきれない悔しさに唇を噛みしめ、ポロリと一粒の涙を零した。
その涙は押さえていた手を伝い、静かに膝の上へと落ちていく。
彼女の父親に命じられて追いかけてきた男たちも、普段は気丈で勝気なユリスが涙を見せたことで、気まずそうに視線を逸らした。
彼らもまたユリスに情を持ち、このままではいけないことを理解している。
しかし、一従業員の立場からでは何もできない――そのもどかしさが、彼らの顔に色濃く浮かんでいた。
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