第2話 配達員と段取り屋

 朝の空は薄い雲に覆われて、街全体をやさしくぼかしていた。遠くの高架を走る電車の音が遅れて届く。パン屋の煙突から白い湯気。交差点の角を曲がると、商店街のアーケードに新しい掲示が揺れていた。


 募集ボード。


 結城トワは、胸ポケットの紙のチェックリストを片手に、もう片方でHUDを展開した。半透明の画面には、昨日からの未解決案件が淡い赤で並んでいる。ボードには大きく、こんな文言が貼られている。


 お願いがあります。今日の“いつも通り”を、手伝ってください。


 命令ではない。お願い。トワはその言葉を選び、紙にも同じ字をなぞって書き足した。呼吸を四つで吸って四つで吐く。歩幅を一定に保ちながら、優先順位を並べ替える。アーケードの柱にはメモがいくつも増えていた。


 午前中の配送サポート 三件

 保育所の冷蔵設備 要確認

 清掃ドローンの回収 二台

 駅前案内の手動当番 交代制


「トワ」


 呼び声と同時に、メッセンジャーバッグが視界の端を切った。灰原アキは走るのが似合う。朝でも夕方でも、いつでも秒で判断して、体を先に投げる。


「ボード、効果出てるな。人、集まってきてる」


「うん。お願いって書いたら、足を止めてくれる人が増えた」


 アキはボードを覗き込む。近所の高校生らしい二人が、ボードの前でひそひそ話している。パン屋の老夫婦がパンの端を切って差し入れを置いていく。夜勤明けの清掃員が缶コーヒーを二本、そっと柱に立てかけた。


「ミカ、状況」


 トワが耳元に触れると、少し遅れて女性の声が落ちた。


『停止案件、現在五十六件。重要度B以上が十一件。新規発生の速度は昨日比で九割に低下。募集ボードによる人の動きが、局所的に負荷を相殺しています』


「いい傾向だな。どこから手をつける」


『保育所の乳児用冷蔵庫が、臨界温度に向かっています。あと四十五分で保冷限界。代替策が必要です』


 パンの湯気の甘い匂いが、風に混ざって流れた。遠くで冷蔵ショーケースの低い唸り。駅の方角から人の気配。トワは紙のチェックリストに目を落とし、筆圧を少し強める。


「保育所、最優先に変更。小型発電機、どこから借りられる」


『近隣の建築現場に、小型ガソリン発電機が二台。うち一台は予備で未使用。ただし現場監督の許可が必要です』


「アキ」


「言われる前に行く」


 アキはバッグのベルトを締め直し、アーケードを飛び出した。トワはボードの前に立ち、通りがかりの人に声をかける。


「保育所の冷蔵が厳しいです。保冷材を持っている方、貸してもらえませんか。凍ったペットボトルでも大丈夫です。お返しは必ずします」


 お願いの言葉。強くないけれど、真剣な声。パン屋の老夫婦が頷く。


「うちの冷凍庫に保冷剤、箱であるよ。持っていきな」


 青年保育士が駆け寄ってくる。疲れた目のまま、しかし動きは素早い。


「発電機が来るまでの間、箱で凌げるなら、搬入経路を開けておきます。ベビーカー、ここに集めて通路を確保します」


 独居のおばあさんが持っていた買い物バッグを開いた。


「氷はないけど、昔の保冷袋はあるよ。二つ持っていきな」


 その手は小さく震えていたが、差し出す動作に迷いはなかった。トワは深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


 ミカの声が重なる。


『募集ボードに、配達サポート希望が三名。うち一名は自転車便の登録者。ルート最適化、出しますか』


「出して」


『了解。名前は蒔田レン。高校二年、自転車便のアルバイト。現在、駅前で待機中』


「繋いで」


 少しのノイズの後、明るい声が入る。


「蒔田レンです。呼ばれました」


「結城トワです。お願いが二つ。保冷材のピックアップと、保育所までの高速配送。荷物は重くないけど、数が多い。ルートはHUDに送る。時間は最短で二十五分以内。できますか」


「やります」


 声は短く、迷いがなかった。レンの足音が電話越しに聞こえ、チェーンの回転音が続く。トワはボードにレンの名前を書き込み、通りの人たちに指示を出す。命令ではなく、お願いで。


「すみません、手が空いていたら、この箱を自転車のところに運ぶのを手伝ってください。階段の段差でつまずかないように、二人一組で」


 青年保育士がすぐに反応する。


「僕が先導します。ベビーカーの方はこの仮通路からどうぞ」


 駅の方からベビーカーを押す母親が、ありがとう、と小さな声で言う。その声が、湯気と一緒にアーケードを温める。


 アキから通信が入る。


「発電機、一台確保。監督さん、怖い顔だけど優しい。ガソリンも少しなら譲ってくれるって。レシート書いてくれってさ」


「助かる。搬入経路、保育所の裏口が広い。そこから入れよう。レンが保冷材を運ぶルートと交差しないよう、時間差で調整する」


「了解。あと、搬入で段差がある。スロープは壊れてる」


「ボードで板を募集。近所の材木店に余りがあるはず」


『確認します』と、ミカ。


『材木店の店主が応答。端材なら提供可能。台車も貸し出し可』


「お願いして」


『依頼文、私が送信します。命令ではなく、お願いで』


 ミカは核心では沈黙するが、言葉の選び方を覚えていく。数字では測れないものに、少しずつ触れている。


 トワは紙のチェックリストに、太い線で矢印を描いた。


 保冷材ピックアップ

 発電機搬入

 仮スロープ設置

 冷蔵庫の吸排気確保

 温度計を人の目で監視


 書いた瞬間から、段取りは動き始める。人と人の間に渡されたお願いが、歯車なしで回る。パンの湯気が濃くなり、冷蔵庫の唸りは弱まっても、まだ聞こえる。駅の人いきれは午前のピークに向かって増え続けている。


「ミカ、停止案件の定義をはっきりさせよう。俺たちの毎日の指標にする」


『提案、受け付けます』


「意図しない停止、危険度と影響範囲で分類。人命優先。生活ラインの断絶は次点。娯楽や利便は三番目。それぞれ、ひと目でわかる色にしてくれ」


『色?』


「赤は命、橙は生活、青は利便。数字は後でいい。現場は色を見て動く方が早い」


『了解。停止案件、赤三件、橙九件、青四十四件』


 トワはHUDの角に新しい小窓が出現したのを見て、短く頷いた。赤は保育所の冷蔵、駅の手動案内の人員不足、交差点の信号同期。橙は清掃ドローン、商店街の冷蔵ショーケース、給水のタイマー、ゴミ回収の遅延などが並んでいた。


「アキ、赤から潰す。保育所と信号同期は俺が段取りする。駅の手動案内、人を回せるか」


「ボードに高校生二人。声かけたらいける。交代制で二時間ずつ。駅の駅員さんにもお願いして、アナウンスのテンプレ用意してもらう」


「お願いで通じる?」


「通じるさ。困ってるのは向こうも同じだ」


 アキの笑い声が混じる。呼吸は少し荒いが、声の温度は落ち着いている。トワはアーケードの柱に貼り紙を増やした。


 駅前案内 お願い

 行き先ごとの口頭誘導 簡易地図あり

 二時間交代 二名募集

 水とパンの差し入れあり


 ふと横を見ると、独居のおばあさんが貼り紙を見上げていた。読みにくそうに目を細めるので、トワは一歩寄って、ゆっくり読み上げた。


「駅前案内のお願いです。歩くのが大変なら、座り椅子を持っていきます」


「座ってても役に立つのかい」


「道を知ってる人の声は、宝です」


 おばあさんは少しだけ頬を上げた。


「じゃあ、宝を少しだけ貸してやるよ」


 その声は小さい。でも、確かな力があった。


     ◇


 保育所の裏口は、車一台がやっと通れる幅。発電機を乗せた台車がぎりぎりで曲がる。スロープは材木店の端材で作った仮設だ。釘を打つ音、木が擦れる音、金属のきしみ。生活の音は、どれも人の手の温度を持っている。


「右、もう五センチ」


 青年保育士が声をかけ、アキが台車の前で踏ん張る。汗がこめかみを流れる。トワは風の流れを見て、発電機の吸排気の位置を調整した。


「吸気を開ける。排気は人が集まらない方に向ける。騒音対策で段ボールを立てる。火気厳禁の札も」


『発電機稼働、安定まで二分。冷蔵庫の温度は現在七度。乳児用のミルク保存には高いです』とミカ。


「保冷材、間に合うか」


『蒔田レン、あと三分で到着。遅延はありません』


「レン」


 通信を開くと、風を切る音と息づかいが重なった。


「見えてきました。右手に公園、左手に保育所。裏口まで行っていいですか」


「お願い。裏口でアキが待ってる」


 数十秒後、軽いタイヤの音が石畳を登ってきた。レンが止まりざまにスタンドを蹴る。背中の大きな保冷バッグを下ろす。中には、パン屋からの保冷剤、魚屋からの氷、家庭の冷凍庫から出されたペットボトル。青い冷気がふっと立ちのぼる。


「遅くなりました」


「十分、早い。助かる」


 アキが笑い、レンの肩を軽く叩いた。青年保育士が冷蔵庫の扉を開けると、温い空気が頬に触れた。トワは保冷材を効率よく置くための段取りを短く伝える。


「棚の上と下に保冷材を。空気の流れを作るために詰め込みすぎない。冷気は下に落ちるから、ペットボトルは最下段に」


 レンは頷き、手際よく並べる。アキは発電機のスイッチを押した。低いエンジン音が震えて、次第に安定していく。


『電圧、安定。冷蔵庫の温度、六度、五度、四度。規定値に到達しました』


 ミカの声が、ほんの少しだけ明るくなったように聞こえた。青年保育士が胸を撫で下ろし、独居のおばあさんが保冷袋をレンに手渡す。


「もう少しいるかい」


「預かります。ありがとうございます」


 おばあさんは照れくさそうに笑った。


「ありがとうって、若い人に言われるの、少し照れるね」


 保育所の窓越しに、子どもたちの笑い声が聞こえる。小さな手がガラスを叩く。大丈夫だよ、という合図のように、青年保育士が笑い返す。


「トワ、赤一つ、消せたな」


「ああ。次は信号同期」


『交差点の信号は、中央の制御が落ちて、単独で点灯を続けています。音声の信号手順を送ります。二人で、片方は歩行者誘導に回った方が安全です』


「アキは誘導。俺が音声入力やる」


「了解。レン、まだ走れるか」


「走れます。どこへ」


「駅の手動案内。ボードの高校生二人と合流して、簡易の地図を配ってほしい。地図はこれだ」


 HUDに手書きの地図が表示される。レンは頷き、バッグを再び背負った。チェーンの音が高く鳴り、次の仕事に向けて飛び出していく。


 その背中を見送りながら、トワはゆっくり息を整えた。呼吸を四つで吸って、四つで吐く。歩幅を一定に戻す。紙のチェックリストに、赤い丸を一つつける。


 保育所 冷蔵 安定


 ペン先が紙を押す感触が、確かな重さで残る。


     ◇


 交差点は人と車で混んでいた。信号は青と赤がずれて点き、歩行者が戸惑っている。アキは真ん中に立ち、腕を大きく振って車の流れを止めた。


「はい、歩行者どうぞ。次、車、ここまで。止まってください。ありがとう」


 トワは信号柱の根もとに立ち、HUDに流れた音声コマンドを読み上げる。パスコード、起動手順、同期リセット。機械的な言葉でも、口に出すことで街の音の一つになる。


「同期、再開。周期、標準。歩行者優先タイム、十秒延長」


 信号が、正しい順番で動きはじめた。遠くで自転車のブレーキ音。足元で子どもの靴が路面をこする音。小さな音が戻ると、大きな音の輪郭がはっきりする。


『停止案件、赤二件に減少。橙八件、青四十四件』


「橙は、どれから行くべきだ」


『清掃ドローンの回収が、通行人に心理的な不安を与えています。目につく場所で止まっているため、生活音の調和が乱れています』


「言い方が詩的だな、ミカ」


『表現の最適化を学習しています』


 アキが笑う。


「詩的に聞こえても、実務は地道。ドローン、網で落とすぞ。商店街の釣具店に網、借りられるか」


『確認します。貸し出し可能、ただし破損時は弁償。店主は今、店の前でボードを見ています』


 トワはボードに向かって歩き出した。歩く速度を落とし、周りの音を拾う。パン屋の老夫婦が昼の準備をしている。焼き上がったばかりのパンを紙袋に詰める音。駅の方から、レンの声が小さく聞こえた。高校生二人が笑いながら、簡易地図を配っている。独居のおばあさんは椅子に座って、道を尋ねる人に手を振っている。


「右に曲がって、次を左、坂を上ったらすぐだよ」


 その言葉に、道を訊いた人が明るく礼を言う。ありがとう。その言葉が今日、街に何度も落ちていく。


 釣具店の店主は、網を二本差し出した。


「頼まれたなら断れないよ。気をつけて使ってな」


「ありがとうございます。なるべく傷つけないようにします」


「傷つけてもいいさ。人に当たらないようにだけね」


 店主の目は笑っていた。


     ◇


 午後の陽が少し強くなる頃には、交差点の混乱は落ち着いた。清掃ドローンは網で優しく降ろされ、カバーを外してバッテリーを抜いた。広場の噴水の音が、いつもよりはっきり聞こえる。風の通りが良くなったように感じるのは、気のせいではない。


『停止案件、赤一件、橙六件、青四十件。募集ボード経由の協力者、延べ二十九名』


 ミカの報告に、トワは頷いた。


「ボードが支点になってる。お願いは届くんだ」


「届くように言ってるからな」


 アキがベンチに腰を下ろし、メッセンジャーバッグを枕に空を見上げる。汗は乾いて、代わりに風が肌にやさしく触れる。


「トワ、配達員のレン、なかなか筋がいい。あいつ、今日だけじゃなくて、明日も助けてくれそうだ」


「お願いしてみるよ。報酬は今はパンと水しか出せないけど」


「それでいいって顔してた。走りたいんだろうな。走る理由が欲しいって顔だ」


 HUDの片隅に、いつも通り率が表示される。小数点が揺れながら、じわりと上がる。数字は嘘をつかないが、全てを語らない。数字の後ろに人の手の温度がある。お願いの言葉の熱も、そこに混ざる。


「ミカ。停止案件という概念、街に開示しよう。ボードの横に、今日の赤と橙の数を貼り出す。人に見えるように」


『恐怖を誘発しませんか』


「恐怖を減らすために見せる。何が止まりかけているか、どれが守られているかをはっきりさせる。見えない不安は、増幅するから」


 少し間が空いた。ミカはいつも、核心で沈黙する。その沈黙を責めるつもりはない。沈黙のあとに届く言葉は、必ず正直だから。


『了解。掲示用の簡易パネル、作成します。赤、橙、青の円グラフ。説明文は短く』


「お願い」


『文案。今日は、赤をあなたたちと皆さんで一つ減らしました。ありがとうございます。明日は、橙を減らせるように一緒に考えませんか』


 アキが笑った。


「いいじゃん、ミカ。やわらかい」


『学習の成果、でしょうか』


「成果だよ」


     ◇


 午後三時。商店街を風が抜ける。パン屋の閉店前のサービスのパンがボードの横に置かれる。駅前で案内をしていた高校生が、交代の時間になって手を振る。レンが最後の地図を渡し、深く頭を下げる。


「助かりました」


 高校生の一人が言う。


「なんか、ゲームみたいだった。ミッションって感じで」


「ゲームってほど軽くはないけど、みんなでクリアするのは、好きだ」


 レンは照れ笑いして、自転車にまたがる。チェーンが鳴って、影がアーケードの床を滑っていく。


 トワはボードの横に、ミカが作ったパネルを貼った。赤の円は小さく、橙は中くらい、青は大きい。説明文は短い。通りすがりの人が立ち止まり、数を確認してから、小さく頷いて歩き出す。やることがわかれば、人は足を運べる。


『停止案件、赤ゼロ、橙五、青三十六』


「いいリズムだ」


「トワ、次は何だ」


「給水タイマーのズレ。集合住宅の上階で水が細くなってる。生活音が乱れる前に、手動でバルブを調整する」


「了解。肩貸せば届くか」


「届く。お願いする」


 二人は歩き出す。風でボードが少し揺れ、紙が擦れる音がした。パンの匂いはまだ残っている。冷蔵庫の唸りは安定した低音で続く。駅の人いきれは昼ほどではないが、途切れない。生活の音が重なって、街は呼吸している。


     ◇


 夕方。集合住宅の屋上で、バルブの金属が手のひらの熱を吸い取っていく。アキが肩を貸し、トワがバルブを少しずつ回す。遠くで誰かが洗濯物を取り込む音。犬が吠える声。台所で食器が触れ合う高い音。


「もう少し」


「このくらいか」


 金属の感触が柔らかく変わった。下の階から歓声が上がるわけではない。蛇口の先で水が太くなっただけだ。でもそれで十分だ。音の密度が戻る。生活の輪郭がくっきりする。


『停止案件、橙四、青三十四』


「今日はここまでか」


「いや、最後に駅前の案内に顔を出そう。座りの係、代わりを入れたか」


「レンが友人を呼んでくれたらしい」


『補足。蒔田レン、明日も協力可能だそうです。報酬はパンで十分とのこと』


「パンの持続可能性、考えないとな」


「考えるのは明日でいい。今日は、ありがとうを集めて寝よう」


 二人は笑った。アーケードに戻ると、独居のおばあさんが椅子に座っていた。膝に小さな毛布。手元の紙コップには、パン屋からの温かいスープ。


「道、聞かれたかい」


「三回。どれも近所だった」


「宝は、まだ光ってる」


 おばあさんは嬉しそうに頷いた。


「また明日も、椅子を持ってくるよ」


「お願いできますか」


「お願いされたら、断れないねぇ」


 アキが小さく笑い、トワも笑う。お願いは届いている。届いたお願いは、次のお願いを呼ぶ。命令ではつながらない鎖が、お願いだと自然につながる。


 ボードの前に集まった人たちが、今日の円を見上げる。赤はゼロ。橙は四。青は三十四。数字はまだ多い。けれど、絶望の色ではない。やり方がある。段取りがある。届く声がある。


 ミカが、少しだけ恥ずかしそうに言った。


『今日、皆さんが減らしたのは、数字だけではありません。誰かの不安も、少し減りました』


「ミカ、それはどこからわかった」


『私には、街の騒音のスペクトラムが見えます。午前より、夕方の方が穏やかでした。数字にはない変化です』


「じゃあ、報酬はそれだな」


 アキが肩をすくめる。トワは紙のチェックリストの余白に、短い一文を書いた。


 今日のいつも通りは、明日の鍵。


 ペン先が止まる。風が紙の端を持ち上げる。ボードの紙がこすれて、さわさわと音を立てる。


「ミカ、いつも通り率」


『表示します。八十三・一パーセント。昨日より、〇・八ポイント上昇』


 上昇幅は小さい。それでもいい。小さな回復を積み上げるのが、段取り屋の仕事だ。急に全部を直すのではなく、崩れ方を見て、見えないところから縫っていく。


 パン屋の老夫婦がシャッターを半分下ろし、最後の袋をボードの横に置く。


「これ、余ったから。手伝ってくれた子たちに」


「預かります」


 駅の方から、レンが戻ってきた。額に汗。呼吸は落ち着いている。


「明日も、呼んでください」


「お願いするよ」


 レンは嬉しそうに笑った。その笑顔に、今日の陽が最後の光を落とす。アーケードの照明が一つ、また一つと点く。冷蔵庫の唸りは一定。駅の人いきれはゆっくりと薄くなる。夜の音に、街が切り替わっていく。


 アキが手を上げかける。ハイタッチかと思ったが、途中で止めた。二人は向かい合い、静かに頷き合う。


「また明日、同じ時間」


「また明日」


 ミスも穴も残っている。青の円はまだ大きい。けれど、街の匂いはほんの少しだけ元に戻っている。パンの甘さに、夜風の湿り気が混ざる。誰かが遠くでギターを弾いている。下手だが、悪くない。生活の音は、どんな曲よりもまっすぐだ。


 HUDの隅で、いつも通り率がわずかに揺れて、点で固定される。八十三・一パーセント。トワはそれを見て、紙のチェックリストを閉じた。胸ポケットに戻すと、安心が指に戻ってくる。


 アキは空を見上げて、小さく笑った。言葉にしない代わりの笑い。トワは心の中で同じ言葉を繰り返す。


 今日のいつも通りは、明日の鍵になる。だから今日だけは、負けられない。


 二人はそれぞれの帰り道へ歩き出す。歩幅は一定。呼吸は静か。ボードは夜風に揺れ、お願いの紙が柔らかく鳴った。やさしい音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る