第3話

 ユキに案内された客室は、塵一つなく清潔で、陽だまりの匂いがした。

 テーブルに並べられた温かいシチューと焼きたてのパンは、ここ数ヶ月、夢でさえ見なかったご馳走だった。アキが夢中でパンを頬張る隣で、ハルも小皿に注がれたミルクをぺろぺろと舐めている。


「……おいしい」

 

 ぽつりと漏れた言葉に、部屋の隅で「さあ、もっと!」とばかりに控えていたユキが、自分のことのように喜んだ。


「よかったー! お口に合いましたのなら、何よりです! おかわり、ありますよ! いっぱいあります!」


 その日から、アキとハルの奇妙な、そして騒がしい生活が始まった。

 朝は小鳥の声より先に、ユキの「朝です! 起きてください!」という元気な声で目を覚まし、ユキが用意してくれた朝食を食べる。

 昼は花の咲き乱れる庭を眺め、疲れたら木陰でうたた寝をする。  

 二日目の午後は、ユキがどこからか古いフリルのついたドレスを持ち出してきて、


「アキ様! 着替えましょう! パイロットスーツじゃ味気ないです!」


 と迫ってきた。

 アキが必死に抵抗すると、「では勝負です!」と、庭で本気の鬼ごっこが始まった。ユキはメイド服の裾を翻して、とんでもない速さで芝生の上を疾走した。

 アキは、本気で逃げた。空の上で敵機から逃げるのとは違う、ただひたすらに全力で、笑いながら、逃げた。

 結局、木の陰に隠れたところをハルにあっさり裏切られ(「にゃあ」と鳴いた)、ユキに捕獲された。


「つかまえましたー!」

 

 芝生の上に二人で倒れ込んで、空を見上げる。

 いつもの退屈な空とは違う、なんだかとても近くて、優しい青色に見えた。

 夜は清潔なシーツのベッドで、空襲警報に怯えることもなく、穏やかに眠る。


 三日目の朝。アキが目を覚ますと、ユキがハルを捕まえて、小さな猫用のメイド服を着せようと格闘していた。


「ハル様! これを着ればあなたも立派なメイドキャットです! 一緒にお屋敷をピカピカにしましょう! 暴れないでください! 旦那様も猫は可愛いとおっしゃっていましたが、これは可愛いの範疇を超えた暴虐です!」


 助けろ、と目で訴えてくるハルから、アキはそっと視線を逸らした。

 昨日の鬼ごっこの仕返しだった。



 戦うことも、逃げることもない日々。

 それは、あまりに甘く、優しい、けれどどこか調子の外れた毒のようだった。

 ここにいてはいけない。フユが、兄さんが待っている。そう頭では分かっているのに、アキの体は鉛のように重く、このやかましくて穏やかな時間に沈んでいくのを止められなかった。

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