第7章 二つの勝利

7-1. 戦い

 闇が闇を払うことはできない。

 光だけがそれを成せる。

 公民権活動家 キング牧師



 折しも刑務所の外では、アメリカはまだ参戦していないものの、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦いが既に始まっていた。一九一五年のことだ。戦いというと、華やかな英雄や戦場のスペクタクルを浮かべるか、あるいは、硝煙では覆い隠せないほどのおびただしい死体の山や、地獄への引きずり合いを思う。だがその実、それを遂行しているのは、極めて冷静で地味な作業の積み重ねなのであった。


 マシューに対する囚人たちの戦いも、同じである。その主役、四十二番は、怒りに燃えて拳を握り締めるかわりに、独房で一人、無機質な本のページをめくっていた。夜になれば、たまに咳をする音が棟全体に響き渡る。


 だが、彼の心中を支配するのは、寂寥感ではない。

「よう、調子はどうだ」

 ケイシーがやってきた。だんだんと春が近づいて暖かくなってきたとはいえ、玉の汗が流れる様子を見ると、きつい労働を終えた後らしい。

「すこぶる順調です。ケイシーさんは?」

 四十二番は、文字列から目を離して答えた。集中していた分だけ一瞬そのピントが合わず、瞼を引き絞った。

「俺も快調だ。野球と労働のおかげで、落ちた筋肉が戻ってきてんだよな」

 言いながら力こぶを作って見せ、次にその手で胸筋を撫でた。筋肉自慢の男は皆、揃って同じ仕草をする。

「あんまり力をつけて、場外になど打ってしまわないでくださいね。壁の向こうに飛んだら取りに行けないんですから」

「それもそうだな。けど、まだそこまでじゃないから安心しろ」


 それにしても、場外。ケイシーはその言葉に、まだ見ぬ雄大なフロンティアを想像した。オズ所長から「自由」が与えられて、その自由すら覚束ない時分にも関わらず、外の景色を見てみたいと思ってしまう。四十二番や他の囚人たちはいずれ刑期を終えて社会復帰していくわけだが、死刑囚のケイシーはそうもいかないだろう。


「ま、それはともかく」

 一旦、そう声に出して懸想を断ち切った。

「書く内容は決まったのか?」

「ええ、決まりつつありますよ」

 四十二番は、自らの言葉でもって囚人たちの思いを代弁するという、大役を志願したのだった。そのために、こうして本を読み進め、思索を深めていた。

「この本には、白人と黒人の融和が説かれています。融和というよりも、和解、いや、妥協でしょうか。あ、長い話になりますが、聞いてくれますか」

「おう、もちろん。そのために来たんだ」

 四十二番はケイシーの方を向き直って、わざわざ頭を下げた。今や友達や仲間と呼べる立場にあっても、こういう丁寧な態度は決して崩さない。

「ありがとうございます。とはいえ、少し割愛して申し上げますね。……私たち黒人が白人と対等な地位に立つためには、抗議したり、戦ったりするのではいけないと、この本は言うのです。勤勉に働き、差別に対しても事を荒立てずに済ませる。そうしていれば、いずれ私たちの存在は認めてもらえる……。私の拙い読解ですし、ところどころ擦れやページの脱落があって読めない箇所がありました。でも、大筋はこのようなことを説いていました。捉え方は色々あるんでしょうけどね」

 独房棟はやけに静かだ。四十二番が間を取ると、衣擦れの音が大きく聞こえる。

「この考え方も、一理あるとは思います。現実的な方針でしょう。黒人も教育を受けられるようにすることが肝心だとも言っていました。私ももちろん賛成です。ですが……」

 そう言って四十二番は、言葉に詰まった。五秒か十秒かの間が、その何倍にも長く感じたので、ケイシーは重心を右足から左足へ、左足から右足へと、何度も移し替えた。

「そうですね……、私は、黒人には黒人の力があると思います。私みたいなニガーにも……、いや、もうこんなに卑下する必要はありませんね。何と言えばいいのか分かりませんが……。妥協的な姿勢ではなく、力強く戦いを挑んでいくことが理想ではないでしょうか。それはもちろん、黒人の戦いだけでなく、私たち囚人の戦いも同じことだと、思うのです」

 ピリオド代わりに、四十二番はケイシーの目を見て、頷く。

「ああ、その通りだと思う。マシューを倒すとか、共和国の権利がどうたらも大事だが、何より俺たち自身の勝負だ」

「そうですよね。では、早速書いてみます」

 四十二番が独房の鍵を開けて、廊下に出たその時。

「ほう、面白い話をしているじゃないか。どれ、私も混ぜてもらおうか」

「わあっ……、ってまたお前か。いや、またオズか」

 どこからともなくぬっと現れたのは、やはり神出鬼没のオズ所長だった。前にもこんな場面があったので、ケイシーは驚いて損した気持ちになった。

「まあ、見てる分には構わねえけどよ。な?」

「ええ、興味を持っていただけるのは幸いです」

「よしよし、決まりだね。善は急げだ。進め進めい」


 こっちが嫌がっても付いてくるんだろうに、とケイシーは思ったが、どうせ言い返されるだろうから口に出さないでおいた。これも成長の一つだ。

 オズ所長はそんな慮りをお構いなしに、ケイシーたちが向かおうとしていた教室へ歩みを進めていた。

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