5-8. 決心
全ての人が弱みと悪徳を抱えている。
だからこそ、政治が必要なのだ。
政治家 ジェームズ・モンロー
ひとしきり話し込んだ後に、ケイシーはジョーの独房を訪ねた。固い床に座っていたから、中年のケイシーの体は、関節を曲げるたびに音が鳴る。
「おーい、ジョー」
軽く伸びをしながら、あくび混じりに声を掛けると、壁に向かって寝転んでいたジョーがむくりと起き上がった。
「お、ケイシーか」
独房とはよくできた制度である。そこ以外に居場所はないが、かといって、そこにいてもやるべきことはない。だから、否が応でも自分と対話するように仕向けられる。看守らが言うところの「内省」というやつだ。おかげでジョーも、頭が冷えて考えがまとまっていたらしい。
「さっきは悪かった。俺、お前の友達に失礼な態度とっちまった」
「仕方ねえよ。気にするな」
失礼な態度をとられたのはケイシー本人ではないので、大した返事はできない。今度は首を回して筋肉をほぐしながら、独房の扉を開けて、中に入った。
「ありがとな。あとであいつにも伝えてくれねえか」
「ジョーが謝ってたぞって?」
「ああ。お前にも手間かけさせて申し訳ねえけど」
「まあいいぜ。下働きは得意だ」
「それにしても……」
「ん? なんだ?」
ジョーの調子が変わった。長い話になりそうだ、とケイシーは直感した。それは面倒である。ケイシーも、目的があってここに来たからだ。だから、ジョーの目的を先回りしてみる。
「ジョー、お前の聞きたいこと、俺には分かるぞ」
「そうか。すごいな」
ジョーが四十二番の姿を見た時の様子は、まさに葛藤という感じだった。自分の中の、抗えない本性と戦っている、耐えかねている。こうしてジョーは謝っているのだから、決して四十二番や黒人に対する強い憎しみがあるのではない。だいたい、ニューヨークで暮らしていれば、それほど黒人の数は多くないから、彼らを嫌う直接の原因だってそうそうない。黒人に仕事を奪われた、というような自分自身の経験から嫌うようになったのではなく、刷り込まれているのだ、敵意を。小さいうちから植え付けられた拒否感は、個人の優しさかなんかで覆い隠せる代物ではない。だから、さっきのジョーは、黒人に対する漠然とした嫌悪と、でもケイシーの友達であるという事実との間で葛藤していたのだ。
「だから先に、俺の答えを言ってやる。答えも答えで、長いけどな」
「助かる」
胡坐をかいたジョーとは対照的に、ケイシーは立ったまま話を始めた。これは単に、また固い床に座ることになると、ケイシーの体が悲鳴を上げてしまうためである。
「あいつさ、この刑務所に入ってんのは、冤罪のせいなんだってよ」
ジョーは眉を歪めた。
「すごく簡単に言うぞ。あいつの父親がよく通ってた本屋で、火事があったそうだ。そんで、贔屓の本が燃えちまうのを見て、父親は思わず中に駆け込んだ。火が移る寸前の一冊を何とか息子に託して、父親は死んでしまったらしい。ここから先は、想像できるだろ」
「現場に手頃な黒人がいたから、放火の罪を着せられた、ってとこか」
「その通りだ。そして、四十二番は偽名をいくつも使いながら転々と逃亡生活を送るうちに、いつしか本当の名前も忘れ、濡れ衣の余罪が増えていった。ついに捕まった時も、父から受け継いだその一冊だけは離さなかったんだと」
「……」
「でも、あいつは文字が読めないんだ」
「え?」
「父親は父親で同じく読めなかったから、店主に読んでもらっていたらしい。さっき初めて作者を知って、感激してた」
「そうなのか……。てっきり、学校にでも通ってたのかと思ってた。人は見た目によらないんだな」
「そう、それだ!」
ケイシーは、ジョーから思った通りの言葉が引き出せて、膝を叩く思いだった。
「見た目によらないんだ、人間は皆」
「……そうか、そういうもんかな」
ジョーは、頭では納得していた。別に、肌の色の絶対性を心の底から信じているのではないのだ。人は見た目で判断できない、という一般論は、十分理解できるはずだ。問題は、頭ではなく感情である。
「あと二つ、言わせてくれ」
ケイシーはここが攻め時だと判断した。この刑務所でまで、仕方ない人生だった、で終わらせたくないのだ。せっかく「自由」になったからには、自分にはできるはずだと証明したい。現実に向き合うこと。それが、これまで仕方なく犯してきた罪への、せめてもの償いになると信じて。ケイシーの頭の中に浮かんでいたぼんやりとした理想は、間もなく形をとる。
「なんで俺が四十二番と何も気にせず関われるか、気になるだろ」
「ああ、すごく気になる。生い立ちは俺とよく似てるのに」
「俺自身も疑問に思って考えた。一番大きな理由は、仕事での経験だ。俺は数え切れないくらいのターゲットを撃ってきた。白人も黒人も。黒人は人間と思うな、と教育されたが、今振り返ってみるとそうは思わない。なぜかって?」
初めて人を撃った時を思い起こす。そう、ポロ・グラウンズのマウンドに立った、あの黒人ピッチャーを撃ち殺した時だ。
「心臓を撃ち抜かれて溢れる血は、同じ赤だ。断末魔の悲鳴も、命乞いの言葉も、何も変わらない。白人だろうが黒人だろうが、どうしても同じ人間なんだよ」
ジョーは目を逸らした。ケイシーだって背けたいが、自分のことだけにそうはいかない。
「俺らは一応白人だけど、一応に過ぎねえ。しかも、四十二番と違って本物の犯罪者だ。真っ当な人間なんてのがいたとして、そこから離れてるのは俺たちの方なんだ」
「ああ、返す言葉もねえよ」
そこからしばらく、沈黙が続いた。改めて沈黙というのは、自分と向き合わざるを得ない時間のことだ。言うべき言葉を決めて、ケイシーは一つ息を吐いた。
「だから、ジョー。俺たちはオズに最初で最後のチャンスをもらったんだ。この共和国で、俺は何かしらやり遂げたいんだ。そんでここを、誰もが自分の選択をできて、希望を持てる場所にしたい……」
そう言って、座り込んだジョーに手を伸ばした。ジョーは、小さな間があったけれども、その手を掴んで立ち上がった。目を合わせて、ケイシーが口を開く。
「小さいことから始めよう。野球しようぜ。皆で一緒に、さ」
「言うと思った。よし、やろう」
二人とも、子供の頃のしなやかさで笑った。
「皆で一つのグラウンド。これ以上ない、出発点だ」
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