5-4. 身の丈

 全ての人が弱みと悪徳を抱えている。 

 だからこそ、政治が必要なのだ。   

 政治家 ジェームズ・モンロー



 太陽がいつの間にかてっぺんを過ぎていた。どうりで腹が減るわけだ。腹が減ったとはいっても、今は十分な食料がない状況だ。千五百人に昼食を出すことはできない。とはいえ一部だけが食事にありつけるというのは不満の種になる。したがって、昼食を摂れる者はいない。


 夕方ごろ、長かった会議がお開きになった。マシューによる資金提供の使い道や、代表選挙の方法などが決まった。ケイシーは、形ばかりの座長としてそこに加わってはいたが、意味のある発言はなし。結局、ケイシーが任された仕事は、選挙のために囚人全員の名簿を作ることだった。事実上の解任である。ケイシーの治世の短さには、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンも驚くだろう。


「まあ、このくらいの仕事が身の丈に合ってるってもんだ」

 ケイシーは、広場から独房に戻る道すがら、ジョーにそう漏らした。無作法に伸びた雑草が、彼らの足をくすぐる。

「似合ってたけどなあ、大統領。『デハ、誰カ意見ノアル者ハ』、だってよ」

 ケイシーのぎこちない司会ぶりをからかった。こんなやり取りは、出会った頃と何も変わりない。

「でも、キノコ頭への物言いはスカッとしたぜ」

「組織にいた頃は冷静沈着で有名だったのになあ」

「あれじゃねえの? 真っ当な人間になってきた、的な」

「真っ当な人間は喧嘩なんてしねえさ」

 名簿作りのために渡された紙切れを太陽に透かした。

「看守の野郎も、紙だけくれるんなら名簿を寄越せっての」

「事務所にあるだろうにな」

「……まあ、これまでよりよっぽど楽な仕事で助かるけどな」

 楽だというだけでなく、ケイシーには、名簿作りのついでに探したい人物がいた。ジョーやマシューがこのノトリアス刑務所に収監されているのだから、他にも知己がいておかしくない。ましてその人物とケイシーの近似を考慮すれば、むしろ出会うのが必然だ。


 だが、その前に訪ねたい人がいた。四十二番だ。ケイシーの心のベクトルを反転させ、議論に参加する道筋を提示してくれた男だったから、感謝していた。あの時いつの間にか姿が見えなくなって、結局何も言えずじまいだ。

「ジョー、これから知り合いの男を探すんだが、お前も来るか?」

「ああ、お前の知り合いだってんなら、興味ある」

「探すと言っても、どの独房か知らねえから手当たり次第なんだけどな」

 会議の間、周りを見渡してみたが、彼の姿は見えなかった。黒人の数はそう多くないので、見落とすことはまずないだろう。そもそも広場に来ていなかったのである。


 手掛かりがないと面倒かとも思ったが、いざ探し始めると簡単に見つかった。棟の玄関口から十個も離れていない房にいたからだ。

「よう、昨日ぶりだな」

 鉄格子の外から声を掛けた。奥の角に座り込んだ四十二番の肌の色は、昼間でも明かりのない独房の闇に溶け込んでいた。

「おや、いかがされたので?」

 彼は本を読んでいたらしい。あまりの暗さにケイシーの目には映らなかったが、パタン、とそれを閉じた音が響いたのだ。この暗さで本を読むとは、大した執着だ。それに、所内に本はないから、あれはおそらく彼の私物である。この刑務所に何年いるのかは知らないが、とうの昔に読み終えたものだろう。他に娯楽がない分、何度も何度も読み返していたということになる。初めて会った時の印象通り、教養のある人間らしい。


 四十二番は立ち上がって、二、三歩とこちらに進み出た。すると、ケイシーの隣で独房を覗き込んでいたジョーが、急に表情を変えた。

「ああ……、悪いがケイシー、俺は帰るぜ」

 苦虫を潰したような顔、とはこういうことを言うのだろう。引き攣った口の端は、まるで何かを我慢している風だ。一言で言うなら、葛藤が見えた。

「どうした、腹でもいてえのか」

「そうだってことにしておく。とにかく俺は帰る」

 有無を言わせぬ口調だ。ケイシーが疑問を浮かべる間もなく、足音を響かせて去っていった。廊下の先へと小さくなっていくジョーの拳は固く握られ、一度とて振り返ることはなかった。

「なんだ、あいつ」

 残されたケイシーは、やっと思考が追いついた。鉄格子越しに向き合った四十二番は、大げさに肩をすくめて見せた。自分を卑下する唇の歪みと、悲しみと諦めに揺れる瞳。それを目にすれば、ケイシーも理解せざるを得なかった。

「申し訳ねえ。俺の友達がこんな……」

「仕方がないですよ。黒人ですから。殴られなかっただけ感謝すべきところです」

「そんな、黒人だからってどうしてそんな目に遭うんだ。初めてじゃねえんだろ」

 ケイシーは、組織にいた頃、読み書きを含めて色々なことを学んだ。だから、どうしてそんな目に、と問いつつ、その一応の答えはケイシーなりに持っていた。白人たちが自分を守るためだ。大まかに言って、人間は何かを見下して自分を守る。その対象として、黒人という概念が共有されてしまっているのだ。


 少し前までは、ケイシー自身もその理屈に身を委ねていた。ポロ・グラウンズで黒人投手を撃った時、彼は人ではないと思うことによって自分の良心が痛まないようにした。それ以降については言うまでもない。


 でも、なぜだか今、口をついて疑問が出たのである。自分でも不思議だった。


 何にせよ、そのケイシーの発言を聞いて、四十二番の表情が綻んだ。下を向いて、何かを確認するように、二度頷く。


 それだけじっくりと間をとって、こぼれた言葉は対照的に短かった。

「……お気楽ですね」

 真意を測りかねて、ケイシーが眉間にしわを寄せた。いつかのごとくその表情を怒りととった四十二番が、慌てて言葉を付け足す。

「褒め言葉みたいなものです。他意はありません」

 ケイシーがその意味に気が付くのは、だいぶ後のことだった。

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