4-9. 自由と自立
この世界で最も素晴らしいことは、
自立の方法を知ることである。
哲学者 ミシェル・ド・モンテーニュ
その不思議を解消しようとケイシーが言葉を発しかけた時、囚人たちの群れからどよめきが起こった。そしてそのどよめきは、すぐに静寂に変わる。彼らの前に表れた、あの人物の纏う威厳のためである。
「諸君、食事がないことに不満かね」
背の低いオージーの姿はケイシーからは見えないが、その言葉ははっきりと聞こえた。まるで聖堂に響く鐘の音のようでもあり、プレーリーに轟くバッファローの唸り声のようでもある。とにかく、聞く者に息を飲ませるだけの力があった。
「『自由であろうと望んだ瞬間に、人は自由になる』。哲学者ヴォルテールは言った。だが本当にそうだろうか? 私は自由を与えると言ったが、自由とは単なる束縛からの解放とは違う。自立することだ」
囚人たちは静まり返ったままだ。その様子をオージーの隣で見ながら、ブライアンは畏まっていた。演説は続く。
「自分の食事すら自分で賄えないのでは、自由とは言えまい。食事に限らず、ここでの生活のあらゆる点において同様である」
「それはつまり、自分で自分のパンを用意せよ、と?」
聴衆の一人が手を挙げて、問い掛けた。
「その通りだ。詳しく説明しようか。これからは、このノトリアス刑務所のほとんどを君たちに任せる。私からかける制限は一つもない。その代わり、こちらから手を差し伸べることもない」
その口ぶりに、ケイシーは苛立った。何を目論んでいるのかは知らないが、形式張ってもったいぶった言い草には、腹が立った。第一、解放だとか自由だとか、結局は壁の中での話に過ぎないし、看守たちは護身のナイフを持って、自分たちの安全な地位を保守しているはずだ。それなのに、この新所長は自分を救世主か神の使いとでも思っているのか、自信満々に理念を語るのだ。
それに、この男には言ってやりたいことが腐るほどある。その余裕な声色を震えさせてやりたい。
四十二番の柔らかい静止を振り切り、囚人たちを掻き分けてオージーの前に進み出た。
「じゃあ何か、お前のことを殺して脱獄してもいいってことかよ。ブラウンさんよ」
見下ろして睨みつけながら凄む。この時、ケイシーの姿にハッとした者がいたことを、本人は知らない。
「いいとも。それがケイシー君の考える自由だと言うのなら」
オージーは、やはり予想していた反応なのだろう、身じろぎ一つせず、手を後ろで組んだまま言い放った。
「そんなことをしても、必ずここに戻ってくることになるだろうがね」
ケイシーは立ちすくんだ。
(ああ、これもあの時と同じ……)
頭に浮かんだのは、組織で初めての仕事をした時のことだ。自分には組織を出ても生きられる場所がないから、監視の目がなくとも逃げ出せないのである。確かにこの刑務所を脱獄したとて、居場所はない。せいぜいまた別の都市の組織で仕事をし、いつか捕まるだけだ、というのが容易に想像できた。おそらく、ここにいる者のほとんどが似たような顛末を辿るだろう。
ケイシーが舌打ちをしたのを納得と受け取って、オージーが言葉を続けた。
「とは言っても、モチベーションは必要だろう。だから、私が君たちの様子を丁寧に観察し、外で生きていけるという見込みのある者は刑を軽くする。逆にそうでない者は、刑が重くなるかもしれない」
その言葉に、一部の囚人たちは色めき立った。ケイシーとは違って、居場所のある者たちだろう。
「それと、一つ言い忘れていた。私の名はトミー・オージーだが、親しみを込めてオズと呼んでくれ。君たちのよき同輩となれたら、と思う」
こんなことを言う新所長には、ケイシーもだんだんと呆れてしまった。さっきの苛立ちもどこかへ行き、今度は純粋な疑問を投げる。
「そんで、ブラウンさんよ」
「オズと呼びたまえ」
即座にオージーが返す。
「お前は自立……」
「オズ」
「……自立しろと」
「オズ」
どうしても、そのニックネームで呼ばせたいらしい。ケイシーは観念した。
「……オズ、あんたは自立しろと言うが、ちんけなパンと水を用意するにも金や伝手が要る。俺たちはそんなもの持ち合わせていないぜ」
これには囚人たちも頷いて同調する。オズは我が意を得たりという顔で、小さな体をふんぞり返らせた。
「その通り、だからそれも自分たちで稼いでもらう」
「はあ? どうやって?」
「それも、自分たちで考えなさい。私はあくまで観察するだけだ」
どうやら、またもやケイシーが折れなくてはならないらしい。
囚人たちは、オズの放言が本気なのだと理解すると、何とかして食材や金を調達しようと侃侃諤諤の議論を始めた。だがこの強いられた議論には議長役がいない。囚人たちはほとんど全員初対面で、誰がこの集団を導くのかがはっきりしない。言うなれば、船頭のいない難破船である。議論の様子は見るに堪えない。至る所で喧嘩が始まる。それも当然、まともな議論などしたことがない連中だ。力にものを言わせてきた奴もいれば、思考を停止してただ粛々と命令に従って生きてきた奴もいる。
そして、そんな有り様から身を引きたいと思う者もいた。ケイシーである。
「おや、どこに行くのですか」
踵を返して独房に帰ろうとしたケイシーに、四十二番が声を掛けた。
「帰るんだよ。こんなところにいても仕方ねえだろ」
「帰る? 独房へ? あなた、あんな場所が自分の居場所だとでも言うのですか」
「あんな場所」。そう言われてケイシーは、暗く冷たい独房と、その延長線上のベンドを思い起こした。
「他にないだろ」
ぶっきらぼうに答える調子には、諦観以外の何の音素も乗っていなかった。乗せないようにしたのだ。
「これから作っていけるはずです」
四十二番はしつこい。
「お前なあ、俺だって、確かにそうかもしれんとは思うさ。でもな、自由なんてものに期待をしていると、いつか裏切られる。必ずだ。つーかそもそも、ありゃあ上手くいかないだろ」
殴り合いの喧嘩と仲裁を繰り返す囚人たちを指さして、続ける。
「それに、ほんとの自由が得られるとして、死刑囚の俺にはそれを手にする資格はない。それだけの人間だ。」
自由を掲げる所長に対して、ケイシーは結局手の平で踊らされただけだったというやるせなさが膨れ上がっていた。
まして、自由などというものが本当にあればいいが、刑務所内の制限付きの自由であれば、ない方がましだ。ほかの囚人たちはいざ知らず、ケイシーの場合、行き着く先は決まっている。電気椅子である。であれば、所長の言う自由や希望に縋るよりも、あらゆるものを諦めて、死を待つのみ、そんな諦観の方がケイシーには似合っている。問題を見つけつつ解決できないのであれば、見つけない方が良い、というわけだ。
言葉を止めたケイシーに対して、四十二番の方も思案していた。結論が出たのか、顎に当てていた手を降ろしてケイシーを指さす。
間をたっぷりとって、その結論を提示した。
「ケイシーさん。それ、楽をしたいだけでしょう。斜に構えていれば、受け身がとりやすいですものね」
「……」
言い返しようがない、れっきとした真実だった。きっと、「愚かなふりをするのは止めにしろ」というブラウンの言葉も、そんなケイシーの思考を見抜いていたのだろう。
「あなたは、物事を内面化しすぎて、自分の思考で解決しようとしています。自分で自分の中に敵を創っている。あなたが垂れている文句はもっともらしいですが、損をするのはあなた自身です。はっきり言って、ダサいですよ」
図星のど真ん中を遠慮なく貫かれた。
「死ぬまでの一時の享楽でもいいではないですか」
「だからそれは……」
「あなたが言っているように、どうせ死ぬんでしょう? だったらなおさら、限られたその命、無駄にはできないはずです」
決して威圧する調子ではなく、声量だって大きくない。それでも、何も言い返せない、と感じさせる理だ。ケイシーと違って、その言葉に生気が宿っているからだろう。
「ですから、一旦向き合ってみましょう。それでダメだったら、その時に死んだらいいのでは?」
四十二番の物言いは痛烈だ。反論の余地はない。
「というよりも。あなた、少し期待しているでしょう? そして、その期待に自分で気付いている」
「……」
「おっと失礼。言い過ぎました」
四十二番はケイシーの沈黙を怒りと受け取ったが、その真意は違った。
ケイシーは石の壁を全力で殴って、一息つく。
「分かった。お前の言う通りだ」
「……その拳が私に向かなくて良かったです」
「それで、まずは何をすりゃあいい。とにかくこの議論に参加しなけりゃ話になんねえな」
ケイシーの心変わりに、四十二番は白い歯を見せて笑った。
「まずは私の声になってください。私の意見を、あなたの口で皆に伝えてほしいのです」
合点がいった。四十二番は皆に伝えたい意見があったのだ。しかし、それを自分の口で言っても、納得する者はいない。なぜか。彼が黒人だからである。殴られて終わり、そんな可能性が十分考えられたのだ。
それに対してケイシーなら、イタリア系とはいえ一応白人だし、その屈強な肉体に正面から文句を言える者はいないだろう。つまるところ、
「持つ者と持たざる者のコンビだな」
というケイシーの感想に、四十二番はなるほど面白い、と言いたげに口角を上げた。また顎に手を当てる。
「ふふっ、どちらが持つ者で、どちらが持たざる者なのですか」
「決まってるだろ、どっちもだ」
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