第22話 出現

開場を告げる、無機質なブザーの音が、巨大なホールに鳴り響いた。

その瞬間、抑え込まれていた『熱』が一気に解放される。


ザアアアアアア―――ッ!

まるでダムの放流だ。シャッターの向こう側から、この『祝祭』を待ちわびていた一般参加者の波が、津波のように押し寄せてくる。

ホールの床が、数千、数万の足音で振動しているのが、しおりの足の裏からも伝わってきた。


(……始まった)


しおりは、自分のブース――長机一つ分の『紙月堂』で、固唾を飲んだ。

隣には、まだ誰もいない。

ほのかは、一時間近く前に「行ってきます!」と更衣室に向かったきり、まだ戻ってきていなかった。


(大丈夫、かな……)


あれだけの巨大な荷物だ。更衣室に到着するだけでも、尋常ではない時間がかかることは想像がつく。

だが、一人でブースに立つのは、やはり心細かった。

周りのサークル主たちは、慣れた様子で「おはようございます!」「新刊、後で買いに行きますね!」と挨拶を交わし、手際よく見本誌を並べている。

しおりは、その熱気に気圧けおされそうになりながら、自分の新刊を、そっと一冊、見本として机の上に開いた。

インクと紙の匂いが、自分の『城』の結界のように、かろうじてしおりの正気を保たせていた。


「あの、すみません」


最初の声かけに、しおりの心臓が、喉から飛び出しそうになった。

「は、はいっ!」

裏返った声で振り向くと、そこには、しおりの過去作(オリジナル作品『ルーチェ』の既刊)を大事そうに抱えた、若い女性が立っていた。


「新刊、ありますか? ずっと待ってました!」

「あ……! あります! ありがとうございます!」


しおりは、震える《手》で新刊を手に取り、用意していたお釣り(五百円玉)と一緒に手渡した。


「わあ、表紙、すごく綺麗……。あと、今日のポスターも、素敵です」

「あ、ありがとうございます……!」


女性は、ほくほくとした顔で新刊をバッグにしまい、雑踏の中へと消えていった。


(……売れた)


自分の手で描いたものが、今、確かに、誰かの手に渡った。

その事実に、しおりの冷え切っていた指先が、じんわりと熱を取り戻していく。

そこから、客足は途切れなかった。


「一冊ください」

「友達の分も。二冊」


しおりの絵柄を、作風を、『ルーチェ』という存在を好きでいてくれる人たちが、確かにここにいる。

ポツポツと、しかし途切れることなく新刊が売れていく。

緊張は、いつしか、心地よい高揚感に変わっていた。


(楽しい……かも)


自分の描いたものが、目の前で評価され、熱量を持って受け取られていく。

SNSの『いいね』や『RT』という無機質な《光》とは違う。確かな手触りと、熱を持った『現実』が、ここにはあった。


その、時だった。

ブースの片隅――ほのかが荷物を置いていたスペースが、ふわりと、明るくなった。

まるで、そこだけスポットライトが当たったかのように。

しおりが、接客の手を止めて、ふと、そちらを見やる。


「―――」

息が、止まった。


そこに、『ルーチェ』が立っていた。


しおりが描いた、あの光の中の衣装。

ほのかが、自分の技術の全てを注ぎ込んでいた、純白とあおのドレス。

データの中でしか存在しなかった、繊細な金の刺繍。二次元の『嘘』だったはずの、重力に逆らう光の翼。


その全てが、今、三次元の『現実』として、そこにった。


そして、それを身に纏う、ほのか。

いつもの、Tシャツとジーンズの快活な彼女ではない。

ウィッグで再現された、光を吸い込んだような銀糸の髪。

しおりがデザインした通りの、少し勝ち気で、それでいて儚げな光を宿した瞳。(メイクで完璧に再現されている)


「……ほのか、さん……?」


しおりの声は、雑踏にかき消された。

ほのか――いや、『ルーチェ』は、しおりを見て、にこり、と微笑んだ。

それは、いつもの「ほのかの笑顔」ではなかった。

しおりが、あの修羅場の最後に描き上げた、全てを乗り越えた『ルーチェの微笑み』、そのものだった。


しおりは、言葉を失った。

(……本物だ)

自分の理想が、自分の『手』を離れて、今、目の前に顕現している。


その異様なまでの存在感に、周りの人々が、気づき始めた。

しおりのブースの前で、足を止める人が、急速に増えていく。

彼らが見ているのは、B2のポスター、机の上の新刊。

そして、その隣に立つ、完璧すぎるじつざいする『ルーチェ』。


「……え、待って」

「あのコスプレイヤー、誰……?」

「っていうか、その衣装……あれ、もしかして……」

ざわめきが、熱を帯びて伝播していく。

一人の男性が、恐る恐る、といった様子で、声を上げた。

「あの……もしかして、紙月堂先生の、『ルーチェ』ですか?」

ほのかは、こくりと頷き、ルーチェとして、優雅に微笑んでみせた。


「うわ、待って……


誰かが叫んだ。

それが、合図だった。

パシャッ!

誰かが、スマホのカメラのシャッターを切った。

無遠慮な、だが純粋な賞賛を伴った《光》が、ほのかに浴びせられる。


次の瞬間、しおりのブースは、今日一番の巨大な人だかりに飲み込まれた。


「すみません! そのルーチェの! 新刊ください!」

「私にも一冊! うわ、レイヤーさん、クオリティやば……」

「紙月堂先生、いつも見てます! まさかコスプレOKだったとは!」

「ください!」「ください!」「ください!」


怒号にも似た、熱狂の渦。

しおりは、完全にパニックに陥っていた。


「は、はい! ありがとうございます!」「あ、お釣り、ええと!」


思考が追いつかない。

ただ、機械のように、差し出される千円札を受け取り、新刊と五百円玉を返す。

その繰り返し。

さっきまで、あんなに高く積まれていた新刊の山が、まるで雪崩のように、みるみるうちに崩れ、低くなっていく。


「先生、大丈夫。落ち着いて」


隣から、ほのかの(ルーチェではない、いつもの)声が飛んできた。

見ると、ほのかが、微笑みを崩さないまま、器用に片手でしおりのサポートをしてくれている。


「ありがとうございます! 新刊、こちらです! あ、先生、お釣り!」

「う、うん!」


二人の連携は、あの修羅場のトーン貼りの時と同じように、無意識のうちに噛み合っていた。

しおりが本を渡し、ほのかが客の誘導をする。

目まぐるしい時間が、まるで永遠のように続く。

そして。


「あ」


しおりは、机の上に置かれた、最後の一冊を、客の手に渡した。


「……すみません、これで、最後です……」

「えっ、もう無いの!? うわ、間に合わなかった……」

「完売!? おめでとうございます!」


人だかりは、まだ熱気を持っているが、売るべき『本』が、もう、ない。

しおりは、空っぽになった机の表面――ほのかが敷いてくれた紫色の布を、呆然と見つめた。


(……売れた?)


開場から、まだ一時間も経っていない。

(完売……したの?)


「先生っ!」

ほのかが、しおりの腕を掴んだ。

その手は、興奮で微かに震えている。



ほのかは、ルーチェの表情を崩し、いつもの太陽みたいな笑顔で、しおりに顔を寄せた。


「やりましたね! すごい! 私、こんなの初めて見ました!」

「……え?」


しおりは、まだ実感が湧かない。

自分の新刊が、完売?

あの、自分が血反吐を吐いて描いた本が?


「……うん。うん……!」


じわ、と。

遅れてやってきた達成感が、視界を滲ませる。


(私たちの本が、届いた)


努力が、報われた。

しおりは、ほのかの手を、強く、強く握り返した。


「さて、と」

ほのかは、パン、と(衣装の袖が邪魔そうに)手を叩くと、周囲の人だかりに向かって声を張り上げた。


「皆さん、ありがとうございます! 私は今から、コスプレエリアに移動しますねー!」


その声に、カメラを持った人々が、待ってましたとばかりに歓声を上げる。


「先生、ブース、一時的に閉めちゃいましょう! 私を見てほしいです」

「え、私も行くの?」

「当たり前じゃないですか!」


ほのかは、しおりの手を引いた。


「先生が描いたルーチェが、今から、この会場で一番の《光》を浴びるんですから。特等席で見届けてください!」


***


コスプレエリアは、すでに異様な熱気に包まれていた。

様々なジャンルの、様々なキャラクターに扮したレイヤーたち。

そして、その周囲を、黒いレンズの砲列で取り囲む、カメラマンたち。

その一角に、ほのかが、すっ、と静かに立った。

翼を広げ、杖を構える。


空気が、変わった。

それまで別のレイヤーを撮っていたカメラマンたちが、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、次々とほのかにレンズを向ける。


「……なんだ、あれ」

「Hononさんだ……!」

「うわ、Hononさんがルーチェやってる! ヤバい!」

「すみません、撮らせてくださーい!」


カシャカシャカシャカシャカシャカシャッ!!


次の瞬間、しおりは、音と光の洪水に飲み込まれた。

無数のカメラのが、白い奔流となって、ほのか一人に降り注ぐ。(象徴:光)

チカチカと明滅する、暴力的なまでの『光』。

それは、しおりが憧れていた、SNSの『無機質な光』とは全く違った。

熱を持った、賞賛と、欲望と、尊敬の『現実の光』だった。


そして、その光の中心で。

ほのかは、一切の気後れも見せず、完璧に『ルーチェ』として立っていた。

ポーズを変えるたびに、シャッター音の嵐が吹き荒れる。

彼女は、その光を浴びて、さらに輝きを増しているようだった。


(……すごい)


しおりは、その光景に、ただ、圧倒されていた。

自分が描いた、理想の光。

自分が憧れた、眩しい存在。

それが今、現実の光を浴びて、自分の想像を遥かに、遥かに超えた『本物』の輝きとなって、そこに存在している。

あの、自分の部屋で一緒にトーンを貼ってくれた女の子が、今、何百人もの視線とレンズの光を、一身に浴びている。


「……すごい、ほのかさん…………」


しおりの呟きは、雷鳴のようなシャッター音にかき消された。

ほのかには、届かないかもしれない。

それでも、よかった。

自分の描いたものが、これほどの光を放っている。

その事実だけで、しおりの心は、今までに感じたことのない誇らしさと達成感で、張り裂けそうだった。


しばらくして、撮影の嵐が、ほんの少しだけ、一段落した。

ほのかが、カメラマンたちに優雅に(ルーチェとして)一礼する。

そして、マイクもないのに、この雑踏の中で、驚くほど通る声で、こう言った。


「皆さん、ありがとうございます!」


カメラマンたちが、次のポーズを待っている。

だが、ほのかは、にっこりと笑うと、人垣の向こう側――呆然と立ち尽くす、しおりを、まっすぐに指差した。


「このルーチェの、最高に素敵な原典を描かれた、原作者の『紙月堂』先生のブースは、あちらです!」


「「「えっ!?」」」


カメラマンたちと、そして、しおり自身の、驚きの声が重なった。

ほのかは、その反応を見て、満足そうに(そして、少し悪戯っぽく)笑うと、人垣をかき分けて、しおりの元へと駆け寄ってきた。


「先生! 最高の、お披露目になりましたね!」

(……え、ちょっと、ほのちゃん!?)


しおりは、今、自分に集まり始めた、困惑と興味の視線に、再びパニックになりかけていた。


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