第8話 お礼の夜食

チク、チク、チク。

ダダダダダダダ!

チク、チク、チク。

ダダダダダダダ!


不思議な空間だった。

リビングには性格の全く違う二種類の創作の音だけが響き続けている。

しおりは目の前の小さなビーズと格闘していた。

ほのかは目の前の巨大な「仮の布」と格闘していた。

ルームメイトのミキさんはいつの間にかヘッドフォンをつけてPC作業に没入している。

窓の外の光はいつしか黄金色の西日から柔らかなオレンジ色へと変わり始めていた。


(……できた。全部)

しおりは最後の玉留めを終え糸を切った。

金色のビーズが縫い付けられたレースのパーツが作業台の上に十数個並んでいる。

自分でも驚くほどの集中力だった。

あの、ほのかの「背中、上げてほしいな」という言葉。

あれ以来、しおりは心臓の奥がずっとソワソワして熱を持っているようで、その熱を振り払うかのように無心で指先を動かし続けていた。


「……先生。終わりました?」

ミシンの音がふいに止んだ。

しおりが顔を上げるとほのかが満足そうな、それでいて疲労困憊といった顔で椅子の上でぐったりと伸びをしていた。

その手には――


(……あ)

白い練習用の布で組み上げられたルーチェの衣装の「抜けぬけがら」のようなものが握られていた。


「は、はい……。私も今、できました」

「うわ、本当だ! しかも全部完璧なクオリティ……! ありがとうございます、先生!」

ほのかはしおりが作ったパーツを愛おしげに眺めると、

「じゃあ先生。約束、いいですか?」

と、ニヤリと笑った。


(……約束)

しおりの心臓がドクンと跳ねた。

「試着、です」

「は、はい……!」


「ちょっと着替えてきます! すぐ戻るんで!」

ほのかは仮縫いの衣装を抱えるとリビングからパタパタと走り出て廊下の奥の自室へと消えていった。


(……き、着替えてくる)

しおりはその場に取り残された。

リビングが急に広く静かに感じる。ミシンの音が消えたからだ。

残っているのはミキさんのキーボードを叩くカチカチという音と、しおり自身の早鐘はやがねのような心臓の音だけ。


(……背中)

(……ファスナー)

(……上げる)


頭の中で単語がぐるぐると回る。

大丈夫。これは事務だ。違う、共同作業だ。

ルーチェのシルエットを確認するための必要な業務だ。

(……そう、業務、業務……)


しおりが自分に必死で言い訳をしていると、

「先生ー! お待たせしましたー!」

と明るい声が戻ってきた。


しおりはビクッと肩を揺らし振り返った。

そして息を呑んだ。


「……あ」


そこにルーチェがいた。


まだ色は真っ白だ。金色の刺繍もビーズの飾りも何もない。

切りっぱなしの布の端からは糸がほつれている。まさに「仮縫い」の状態。


それなのに。


(……ルーチェ、だ)


ほのかが着ると、ただの「布」だったものが命を吹き込まれる。

しおりが液タブの上で「こうなってほしい」と願って描いた、あの柔らかくて力強いシルエット。

それが寸分すんぶんの狂いもなく現実の「人間」の身体からだの上に再現されていた。


「どう、ですかね……?」

ほのかが不安そうにその場でくるりと回ってみせる。

「ちょっと、ウエスト、しぼりすぎたかな……」


「……」

しおりは何も言えなかった。

ただ(……きれい)と思った。

自分の生み出したキャラクターが、こんなにも美しくそこに立っている。

その感動が緊張よりも先に立っていた。


「……あの、先生?」

「……あ、い、いえ!」

しおりは我に返ってぶんぶんと首を横に振った。

「き、綺麗きれいです……。すごい。シルエット、完璧かんぺきです……」


「! 本当ですか!? よかったー!」

ほのかが心の底から安堵あんどしたように胸をで下ろした。

そして、

「……じゃあ」

と小さな声で言った。

「……お願い、しても、いいですか?」


ほのかはしおりにくるりと背中を向けた。


(……あ)

しおりののどが鳴る。


目の前にほのかの背中があった。

白い仮縫いの布。

その真ん中を一本のファスナーがたてに走っている。

そしてそのスライダー(引き手)はほのかの腰のあたりで止まっていた。

開いている。

ファスナーの両脇りょうわきからほのかの素肌すはだのぞいていた。


金茶のボブカット。そこから覗くうなじ。

華奢きゃしゃ肩甲骨けんこうこつ

なめらかな肌理きめの整った背中。


(……)

しおりは固まった。

体温が一気に上昇する。顔が熱い。指先が冷たい。どうしよう。


「……先生?」

ほのかが背中を向けたまま不安そうにつぶやいた。


(……や、やらなきゃ)(……業務、だから)

しおりは震える右手をゆっくりと持ち上げた。

あのペンだこがある不器用な手。こんな手で触れていいんだろうか。


しおりの冷たい指先がファスナーの金属のスライダーに触れた。


「!」

スライダーは冷たかった。

だがそのすぐわきにあるほのかの肌は――

(……あったかい)と思った。

いや、熱いくらいだった。

布越しではない、直接伝わってくる生身の人間の体温。


「……ひゃっ」

ほのかの肩が小さくねた。

「……先生、手、つめた……っ」

「あ、ご、ごめんなさい……!」

しおりは慌てて手を引っこめようとした。


「だ、ダメ!」

ほのかが少し大きな声を出した。

「……その、まま、……続けて、ください」


「……は、はい」

しおりはもう一度スライダーをつかんだ。

指の第二関節かんせつあたりがほのかの熱い素肌すはだに触れてしまう。

(……柔らかい)と思った。


「……じゃあ、上げます。……息、止めて、ください」

しおりは事務職の冷静さを総動員して言った。

「……ん」

ほのかが小さくうなずくのが背中越しに分かった。


しおりは意を決してスライダーをゆっくりと引き上げた。


ジ……

ジ……

ジ……


金属がみ合うかすかな音。

しおりの指先がほのかの背骨せぼねの上をゆっくりとなぞっていく。

腰から肩甲骨けんこうこつへ。

開いていた素肌すはだが白い仮縫いの布の下にかくれていく。

そして――


カチリ。


一番上まで上がり切った。

ほのかのうなじのすぐ下。

金茶の髪がしおりの指先にふわりと触れた。

(……いい、におい)

シャンプーだろうか。

さっき玄関で感じたあの柔らかい匂いとは違う、もっと甘い匂い。


「……あ、……」

ほのかが息をき出す音が聞こえた。

「……ありが、とう……ございます……」

声が震えている。


「……い、いえ」

しおりは慌てて手を離した。

指先にまだあの熱い肌の感触と甘い匂いがこびりついて離れない。


「ど、どうですか? きつく、ないですか?」

「……ん、大丈夫、です。ピッタリ、です……」


ほのかがゆっくりと振り返った。

その顔は――


(……あ)

しおりは息をんだ。

顔が真っ赤だ。耳までりんごのように赤い。

うるんだひとみがしおりを真っ直ぐに見つめている。

西日にしびのせいなんかじゃなかった。


「……先生」

「は、はい」

「……」

「……」


長い沈黙ちんもく

ミキさんのキーボードの音だけがカチカチと響いている。

(……あ、ミキさん、いたんだっけ……)

しおりは今気づいた。

このリビングには二人きりじゃなかった。

その事実にしおりはなぜかホッとすると同時に、ほんの少しだけ(……残念だ)と思ってしまった。


「……あの!」

先に沈黙ちんもくを破ったのはほのかだった。

「せ、先生! お腹、すきません!?」

「え?」

唐突とうとつな言葉にしおりは目を丸くした。


「もう、こんな、時間だし! 私、もう、お腹、ペコペコです!」

ほのかは真っ赤な顔のまま大声で言った。

時計を見ると確かにもう夜の七時を回っていた。


「あ、私、何か、作りますよ! あ、ミキ! ミキも、食べる!?」

「んー? 食べるー。なんか、ガッツリしたやつー」

ヘッドフォンをずらしミキさんが気怠けだるげに答えた。


「先生は!? 何、食べたいですか!?」

「え、あ、あの、私、は、……そろそろ、おいとま、」

「ダメです!」

ほのかがしおりの言葉をさえぎった。

仮縫いの衣装のまま、しおりの両手をガシッとつかんだ。

(……あ、また、触られた)

さっき背中に触れた熱とは違う。衣装越しの、でも確かに力強い熱。


「手伝ってもらったお礼、です! 夜ご飯、食べてってください!」

「で、でも、そんな、悪いです……」

「悪くない! 先生が、あの神みたいに細かいビーズ付け、やってくれたおかげで! 私、仮縫い、ここまで進んだんです!」


「……」

ほのかの目が真剣だ。これはがしてもらえそうにない。


「……じゃあ、……お、お言葉に、甘えて……」

しおりが小さくうなずくと、ほのかは「やった!」と子供のように笑った。


「じゃあ、ちょっと、これ、いできます! ……あ」

ほのかがまた背中を向けた。

「……あの、先生」

「……は、はい」

「……また、……下ろして、もらっても、……いいですか?」


「……よ、喜んで……」

しおりは今度こそ震えない指先で、あのファスナーのスライダーにそっと手をかけた。


***


「「「いただきまーす」」」


結局。

しおりはあの「戦場」だったリビングの大きなテーブルで、ミキさんとほのかと三人で夜ご飯をかこむことになった。

ほのかが仮縫いの衣装を(今度はしおりが下ろした)ぎ、ラフなパーカーに着替えて猛烈なスピードで作ってくれた生姜しょうが焼き。


「んー、うまっ。ほのの生姜焼き、最高」

「でしょー? 先生も遠慮えんりょしないで食べてくださいね!」

「あ、は、はい。……おい、しい、です……」


しおりは恐る恐る豚肉ぶたにくを口に運んだ。

美味しい。

コンビニの弁当とは全然違う、ちゃんと人の「手」が作った温かい味がした。

(……ほのかさんの、手、が)


「てか、つづり屋さん」

ミキさんが不意ふいにしおりに話を振った。

「ひっ、は、はいっ!」

しおりはご飯を吹き出しそうになった。


「うちの、ほのが、マジでお世話になってます。……てか、あんた、よく、こんなクソ真面目まじめな原作者様、見つけてきたね」

「こら、ミキ! 言い方!」

ほのかがほおふくらませる。


「いや、だってさ。ほの、いつも変なダメンズ、ばっか」

「ミキーーー!!」

ほのかの叫び声がリビングに響いた。


しおりは目を丸くして二人を見た。

(……ダメンズ?)

「ちょっと! 何、言ってんの! 今、関係ないでしょ!」

「えー? 関係あるじゃん。こんな誠実せいじつな、『手仕事』できる人、ほのがずっと探し求めてた『相棒あいぼう』じゃん」


「……あ、いぼう……?」

しおりがぽつりとつぶやいた。


「そ。相棒。

こいつ、コスプレ、ガチぜいすぎて、造形とか縫製ほうせいとか、一人で全部やっちゃうんですけど。

本当は、こういう『繊細せんさい』な作業できる『手』をずっと探してたんだよねー」


「……ちょ、ミキ、もう、だまって、食べて!」

ほのかは顔を真っ赤にしてミキの口にキャベツを押し込んだ。


しおりはそんな二人を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


(……相棒)

(……私の、手)

「この手は、不器用じゃない」と言ってくれた、ほのか。

「先生、天才です!」と喜んでくれた、ほのか。


(……そっか)

私、ここにいても、いいんだ。

足手まといじゃ、ないんだ。

むしろ「必要」とされているんだ。


「……先生」

ほのかが真っ赤な顔のまましおりを見た。

「……ミキの言うこと、気にしないでくださいね……」

「……いえ」

しおりは小さく首を横に振った。

そして今日一番の勇気を出して言った。


「……あの、私」

「はい」

「……また、来ても、……いい、ですか?」


「……!」

ほのかが目を見開いた。

ミキさんがニヤリと笑ったのが視界のはしに入った。


「……ビーズ付け、の、残りとか…… あと、……背中、上げる、の、とか……」


しおりが真っ赤になって、そこまで言った時、ほのかは顔をテーブルに突っつっぷした。


「……〜〜〜〜っ!!」

「ほ、ほのか、さん!?」

「……先生」

ほのかがテーブルに突っつっぷしたままくぐもった声で言った。

「……それ、反則はんそく、です……」


「え?」


「……毎日まいにち、来て、ください……!」


「えええ!?」

しおりの悲鳴ひめいがミシンの音のまったリビングに響き渡った。

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