第2話 画面越しの「好き」

カチャカチャ、と軽快なキーボードの打鍵音だげんおん。エスプレッソマシンが豆を挽く、低くうなるようなモーター音。そして、窓から差し込む西日が、ほこりをきらきらと照らし出す——。


「ただいまー。ミキ、今日早番?」


ガチャリとリビングのドアを開け、朝凪あさなぎほのかは、室内に満ちる喧騒けんそうと光に向かって声を張った。

透明感のある金茶きんちゃのボブカットが、彼女の動きに合わせてさらりと揺れる。

白シャツにデニム、足元は履き慣れたスニーカー。カフェ店員のバイトを終えたばかりの、ラフな格好だった。


「んー、おつかれー、ほの。昨日徹夜したから、今日はもう店じまい」


リビングの中央に鎮座する、大きなダイニングテーブル。その一角でノートパソコンに向かっていたルームメイトのミキが、顔も上げずに気怠けだるげに手を振った。

ミキはフリーのWEBデザイナーで、このシェアハウスのぬしの一人だ。


ここは、都内近郊にある、女性三人でルームシェアをしている一軒家。

ほのかがこの家を選んだ理由はいくつかある。

日当たりが良くて、同居人もオタクで趣味に理解がある。そして何より、この馬鹿でかい作業台(兼ダイニングテーブル)があるリビング。


テーブルの半分はミキのPCと資料で埋まり、もう半分は、ほのかの領分——トルソー(人台)こそ自室に置いているが、ミシン、ロックミシン、山積みの布、ウィッグ用のマネキン、グルーガンや塗料の瓶までが、所狭しと並べられている。

しおりの静謐せいひつな1Kとは、およそ対極にある空間。生活感と創作の熱が、ごちゃ混ぜになって渦巻いている場所だ。


「うわ、またすごいことになってるね、作業台」

「ほのにだけは言われたくないし。てか、あんたこそ、それ、どうすんのよ」


ミキがあごで示した先、リビングの隅には、ほのかが次の衣装制作のために仕入れた巨大なウレタンボード(コスプレ造形でよく使われる素材)が立てかけてあった。

「あー、あれは週末になんとかする!」

ほのかはカラカラと笑うと、買ってきたばかりのエナジードリンクを冷蔵庫にしまい、代わりに昨日淹れた麦茶をグラスに注いだ。


ゴク、ゴク、とのどを鳴らす。

バイト後の乾いた身体に、冷たい液体が染み渡っていく。

「ぷはーっ。生き返る」

グラスをテーブルに置き、ほのかは「さて」と呟きながら、バイト先から大事に抱えてきたトートバッグを漁った。


「また何かにハマったね、ほの」

ミキが、ようやくPCから顔を上げる。あきれたような、それでいて面白そうな顔。

「え、なんで分かんの?」

「顔。バイト終わりの顔じゃなくて、『獲物』見つけたハンターの顔してる」

「失礼な! 純粋な『好き』ですー」


ほのかはそう言って、バッグから一冊の本を取り出した。

A5サイズ、オフセット印刷。表紙には、白と金を基調にした衣装を纏う少女——が描かれている。

サークル名『紙月堂』。

ペンネーム『つづり屋』。


それは、先週末の小規模な即売会で、偶然手に入れた同人誌だった。

ほのかは「Honon」という活動名でコスプレイヤーをやっているが、同時に、雑食のオタクでもある。面白そうな作品があれば、ジャンルを問わず手に取る。そこでの出会いが、次のコスプレのアイデアになったりもする。いわば趣味と実益(?)を兼ねた情報収集!

この本も、ふらりと立ち寄ったブースで見かけ、表紙の雰囲気にインスピレーションを感じて、買ったものだ。

スペースにいた作家は、丸メガネをかけた、少しうつむきがちな女性だったな、とぼんやり思い出す。


「で、今度はどこの沼?」

「ここ!」

ほのかは、その本のページを勢いよく開いた。

ミキが「うわ、布教やめて」と言いながらも、隣からのぞき込んでくる。


「見て、ミキ。このコマの、この子の顔」

ほのかが指差したのは、見開きのページ。

ルーチェが、何かを決意し、仲間のもとへ駆け出そうとする直前の、横顔のアップ。

セリフはない。

ただ、彼女の瞳に宿るだけが、雄弁に彼女の覚悟を物語っていた。


「……へえ」

ミキが、感心したように息を漏らす。

「線、めちゃくちゃ綺麗じゃん。てか、エモ。なにこれ、セリフないのに、全部伝わってくる」

「でしょ!」

ほのかは、まるで自分のことのように胸を張った。


しおりが、自分の技量不足に悩み、描いては消しを繰り返していた「表情の“間”」。

その繊細な線が描き出す機微きびを、ほのかは、一目で正確に読み取っていた。


「私、この子にれた。このルーチェって子」

「ああ、表紙の子か。騎士っぽいやつね。……あー、はいはい、ほのちゃん、こういう『光』属性、好きだもんね」

「大好き!」


ほのかは即答した。

彼女はコスプレイヤーとして、特に造形とウィッグセットを得意としている。よろいや武器、複雑な髪型を、設定画通りに、いや、設定画以上に「らしく」現実世界に構築するのが好きだ。

だが、彼女が最も得意とし、最も情熱しんけつを注いでいるのは、実はだった。


どうすれば、このキャラクターが最も輝くか。

どうすれば、二次元の嘘(光の反射、髪のなびき)を、三次元の現実(物理法則、太陽光、ストロボ)で再現できるか。

どうすれば、このわたしたちの世界にこの娘を降臨そんざいさせられるのか。


何よりほのかは、光を操るのが得意だと、自負していた。

そして、この『紙月堂』(つづり屋』)の作品には、彼女が焦がれる「光」が溢れていた。


「この光……」

ほのかは、もう一度、ルーチェの瞳を指でそっとなぞった。

紙に印刷された、インクの染み。

それなのに、まるで内側から発光しているかのように、まぶしい。


「……私、これ、やりたい。この子に、なりたい」

「出た、憑依ひょうい願望」


ミキが茶化すのを、ほのかは真顔で制した。

「本気だよ。この光、私なら《本物にできる》」


彼女の脳裏では、すでに設計図が組み上がり始めていた。

衣装の素材。白は、光を柔らかく反射するベロアか、それともマットな質感のツイルか。金色のラインは、合皮ごうひのバイアステープか、いっそ刺繍ししゅうか。

ウィッグは、この柔らかい毛束感を出すために、メーカーの違う二色を混ぜて……。

造形。胸当ての甲冑かっちゅうは、硬質ウレタンを重ねて、あの丸みを……。


そして、撮影。

スタジオは、絶対に窓の大きな、自然光の入る場所。

朝の、斜めに差し込む柔らかい光の中で、父の形見である古い単焦点レンズを使って……。

あのレンズは、空気感まで写し取ってくれる。

この、ルーチェが纏う、静かで、けれど力強い「光」の粒子を、きっと捉えられるはずだ。


「……ハマった」

ほのかは、ぽつりと呟いた。

「うん。知ってる」とミキが肩をすくめる。

「ガチでハマった。どうしよう、ミキ。私、この光を、本物にしないと死んじゃう」

「はいはい、重症重症。で、また無茶無謀な造形始めるんでしょ? 手伝わないよ、私、今月締切ヤバいんだから」

「造形もそうなんだけど!」

ほのかは、ばっと顔を上げた。

「それよりも、もっと大事なことがある」


「なに?」

「私、無断でコスプレするの、絶対に嫌なんだよね」

ほのかの表情が、いつもの明るいものから、真剣なものに変わる。

彼女は、コスプレイヤーとして活動する上で、いくつかのポリシーを持っていた。

その一つが、「創作者への最大限のリスペクト」だ。


SNSで時折見かける、無断でのコスプレ。

ひどい時には、原作のイメージを損なうような改変や、悪意あるさらし上げ。

そういうものが、ほのかは苦手だった。というより、許せなかった。

自分が心血を注いで衣装を作り、キャラクターになりきるのも、すべては原作への「好き」という感情から始まっている。

その大元である創作者を、ないがしろにするなんて、あり得なかった。


「でも、同人作家さんでしょ? 許可取り、難しくない?」

ミキが、もっともな懸念を口にする。

「二次創作ならともかく、オリジナル作品のコスプレって、結構デリケートだよ。ましてや『つづり屋』さんって、あんまりSNSで交流してるイメージ、ないけど」


「……うん。分かってる」

ほのかはうなずいた。

即売会で見た、あの丸メガネの作家。

おずおずと新刊を差し出し、小さな声で「ありがとうございます」と言った、内向的そうな女性。

彼女が、いきなり「コスプレさせてください!」というDMを受け取ったら、どう思うだろう。

迷惑がられるかもしれない。

最悪、怖がられて、ブロックされてしまうかもしれない。


(……でも)


ほのかは、もう一度、ルーチェの横顔を見た。

この「光」を、本物にしたい。

そして、できることなら、この光を描いたに、見てほしい。

「あなたが描いたルーチェは、ここにいます」と、伝えたい。


「……取るよ。許可」

ほのかは、ぐっと拳を握った。

「え、マジで?」

「うん。絶対、取る」


彼女は、一度決めたら真っ直ぐに進むタイプだった。

悩むのは、行動する前まで。やると決めたら、あとは全速力だ。


「だからこそ、真っ直ぐに言う。私の『好き』がどれくらい本気か、全部伝える」

「うわ、熱血。……まあ、ほののその熱量で押されたら、大概の人は根負けするかもね」

ミキが苦笑いする。

「許可、取れるといいね」

「取ってみせる」


ほのかは力強く宣言すると、勢いよく立ち上がり、自分のスマートフォンを掴んだ。

バイト着のままのリビング。ミシンの横。

彼女は、SNSの検索窓に、震える指で文字を打ち込んだ。


『つづり屋』

『紙月堂』


いくつかの投稿がヒットする。

そして、すぐに見つかった。

即売会で見た、あの俯きがちな女性の横顔によく似た、繊細なタッチのアイコン。


『綴木しおり(つづり屋)/紙月堂』


(……いた)


心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

緊張で、指先が少し冷たくなる。

彼女は、プロフィールページに飛ぶと、そこにある「メッセージ」のボタンを、深呼吸一つして、タップした。


白い入力画面が現れる。

点滅するカーソル。

ほのかは、一文字一文字、言葉を選ぶように、自分の「好き」を打ち込み始めた。


『初めまして。私、Hononと申します。突然のメッセージ、失礼いたします』


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