第2話 画面越しの「好き」
カチャカチャ、と軽快なキーボードの
「ただいまー。ミキ、今日早番?」
ガチャリとリビングのドアを開け、
透明感のある
白シャツにデニム、足元は履き慣れたスニーカー。カフェ店員のバイトを終えたばかりの、ラフな格好だった。
「んー、おつかれー、ほの。昨日徹夜したから、今日はもう店じまい」
リビングの中央に鎮座する、大きなダイニングテーブル。その一角でノートパソコンに向かっていたルームメイトのミキが、顔も上げずに
ミキはフリーのWEBデザイナーで、このシェアハウスの
ここは、都内近郊にある、女性三人でルームシェアをしている一軒家。
ほのかがこの家を選んだ理由はいくつかある。
日当たりが良くて、同居人もオタクで趣味に理解がある。そして何より、この馬鹿でかい作業台(兼ダイニングテーブル)があるリビング。
テーブルの半分はミキのPCと資料で埋まり、もう半分は、ほのかの領分——トルソー(人台)こそ自室に置いているが、ミシン、ロックミシン、山積みの布、ウィッグ用のマネキン、グルーガンや塗料の瓶までが、所狭しと並べられている。
しおりの
「うわ、またすごいことになってるね、作業台」
「ほのにだけは言われたくないし。てか、あんたこそ、それ、どうすんのよ」
ミキが
「あー、あれは週末になんとかする!」
ほのかはカラカラと笑うと、買ってきたばかりのエナジードリンクを冷蔵庫にしまい、代わりに
ゴク、ゴク、と
バイト後の乾いた身体に、冷たい液体が染み渡っていく。
「ぷはーっ。生き返る」
グラスをテーブルに置き、ほのかは「さて」と呟きながら、バイト先から大事に抱えてきたトートバッグを漁った。
「また何かにハマったね、ほの」
ミキが、ようやくPCから顔を上げる。
「え、なんで分かんの?」
「顔。バイト終わりの顔じゃなくて、『獲物』見つけたハンターの顔してる」
「失礼な! 純粋な『好き』ですー」
ほのかはそう言って、バッグから一冊の本を取り出した。
A5サイズ、オフセット印刷。表紙には、白と金を基調にした衣装を纏う少女——ルーチェが描かれている。
サークル名『紙月堂』。
ペンネーム『つづり屋』。
それは、先週末の小規模な即売会で、偶然手に入れた同人誌だった。
ほのかは「Honon」という活動名でコスプレイヤーをやっているが、同時に、雑食のオタクでもある。面白そうな作品があれば、ジャンルを問わず手に取る。そこでの出会いが、次のコスプレの
この本も、ふらりと立ち寄ったブースで見かけ、表紙の雰囲気にインスピレーションを感じて、買ったものだ。
スペースにいた作家は、丸メガネをかけた、少し
「で、今度はどこの沼?」
「ここ!」
ほのかは、その本のページを勢いよく開いた。
ミキが「うわ、布教やめて」と言いながらも、隣からのぞき込んでくる。
「見て、ミキ。このコマの、この子の顔」
ほのかが指差したのは、見開きのページ。
ルーチェが、何かを決意し、仲間のもとへ駆け出そうとする直前の、横顔のアップ。
セリフはない。
ただ、彼女の瞳に宿る光だけが、雄弁に彼女の覚悟を物語っていた。
「……へえ」
ミキが、感心したように息を漏らす。
「線、めちゃくちゃ綺麗じゃん。てか、エモ。なにこれ、セリフないのに、全部伝わってくる」
「でしょ!」
ほのかは、まるで自分のことのように胸を張った。
しおりが、自分の技量不足に悩み、描いては消しを繰り返していた「表情の“間”」。
その繊細な線が描き出す
「私、この子に
「ああ、表紙の子か。騎士っぽいやつね。……あー、はいはい、ほのちゃん、こういう『光』属性、好きだもんね」
「大好き!」
ほのかは即答した。
彼女はコスプレイヤーとして、特に造形とウィッグセットを得意としている。
だが、彼女が最も得意とし、最も
どうすれば、このキャラクターが最も輝くか。
どうすれば、二次元の嘘(光の反射、髪のなびき)を、三次元の現実(物理法則、太陽光、ストロボ)で再現できるか。
どうすれば、
何よりほのかは、光を操るのが得意だと、自負していた。
そして、この『紙月堂』(つづり屋』)の作品には、彼女が焦がれる「光」が溢れていた。
「この光……」
ほのかは、もう一度、ルーチェの瞳を指でそっとなぞった。
紙に印刷された、インクの染み。
それなのに、まるで内側から発光しているかのように、
「……私、これ、やりたい。この子に、なりたい」
「出た、
ミキが茶化すのを、ほのかは真顔で制した。
「本気だよ。この光、私なら《本物にできる》」
彼女の脳裏では、すでに設計図が組み上がり始めていた。
衣装の素材。白は、光を柔らかく反射するベロアか、それともマットな質感のツイルか。金色のラインは、
ウィッグは、この柔らかい毛束感を出すために、メーカーの違う二色を混ぜて……。
造形。胸当ての
そして、撮影。
スタジオは、絶対に窓の大きな、自然光の入る場所。
朝の、斜めに差し込む柔らかい光の中で、父の形見である古い単焦点レンズを使って……。
あのレンズは、空気感まで写し取ってくれる。
この、ルーチェが纏う、静かで、けれど力強い「光」の粒子を、きっと捉えられるはずだ。
「……ハマった」
ほのかは、ぽつりと呟いた。
「うん。知ってる」とミキが肩をすくめる。
「ガチでハマった。どうしよう、ミキ。私、この光を、本物にしないと死んじゃう」
「はいはい、重症重症。で、また無茶無謀な造形始めるんでしょ? 手伝わないよ、私、今月締切ヤバいんだから」
「造形もそうなんだけど!」
ほのかは、ばっと顔を上げた。
「それよりも、もっと大事なことがある」
「なに?」
「私、無断でコスプレするの、絶対に嫌なんだよね」
ほのかの表情が、いつもの明るいものから、真剣なものに変わる。
彼女は、コスプレイヤーとして活動する上で、いくつかのポリシーを持っていた。
その一つが、「創作者への最大限のリスペクト」だ。
SNSで時折見かける、無断でのコスプレ。
ひどい時には、原作のイメージを損なうような改変や、悪意ある
そういうものが、ほのかは苦手だった。というより、許せなかった。
自分が心血を注いで衣装を作り、キャラクターになりきるのも、すべては原作への「好き」という感情から始まっている。
その大元である創作者を、
「でも、同人作家さんでしょ? 許可取り、難しくない?」
ミキが、もっともな懸念を口にする。
「二次創作ならともかく、オリジナル作品のコスプレって、結構デリケートだよ。ましてや『つづり屋』さんって、あんまりSNSで交流してるイメージ、ないけど」
「……うん。分かってる」
ほのかは
即売会で見た、あの丸メガネの作家。
おずおずと新刊を差し出し、小さな声で「ありがとうございます」と言った、内向的そうな女性。
彼女が、いきなり「コスプレさせてください!」というDMを受け取ったら、どう思うだろう。
迷惑がられるかもしれない。
最悪、怖がられて、ブロックされてしまうかもしれない。
(……でも)
ほのかは、もう一度、ルーチェの横顔を見た。
この「光」を、本物にしたい。
そして、できることなら、この光を描いた本人に、見てほしい。
「あなたが描いたルーチェは、ここにいます」と、伝えたい。
「……取るよ。許可」
ほのかは、ぐっと拳を握った。
「え、マジで?」
「うん。絶対、取る」
彼女は、一度決めたら真っ直ぐに進むタイプだった。
悩むのは、行動する前まで。やると決めたら、あとは全速力だ。
「だからこそ、真っ直ぐに言う。私の『好き』がどれくらい本気か、全部伝える」
「うわ、熱血。……まあ、ほののその熱量で押されたら、大概の人は根負けするかもね」
ミキが苦笑いする。
「許可、取れるといいね」
「取ってみせる」
ほのかは力強く宣言すると、勢いよく立ち上がり、自分のスマートフォンを掴んだ。
バイト着のままのリビング。ミシンの横。
彼女は、SNSの検索窓に、震える指で文字を打ち込んだ。
『つづり屋』
『紙月堂』
いくつかの投稿がヒットする。
そして、すぐに見つかった。
即売会で見た、あの俯きがちな女性の横顔によく似た、繊細なタッチのアイコン。
『綴木しおり(つづり屋)/紙月堂』
(……いた)
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
緊張で、指先が少し冷たくなる。
彼女は、プロフィールページに飛ぶと、そこにある「メッセージ」のボタンを、深呼吸一つして、タップした。
白い入力画面が現れる。
点滅するカーソル。
ほのかは、一文字一文字、言葉を選ぶように、自分の「好き」を打ち込み始めた。
『初めまして。私、Hononと申します。突然のメッセージ、失礼いたします』
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