第10話 一度戻った子を、十年磨き上げている人
月曜・朝。
旧会社の地下1階、アーカイブ室。鉄の棚が無音で並び、蛍光灯は一本だけチカチカと周期を外して瞬く。冷暖房の境目みたいなひやりとした空気に、湿った段ボールとインクの甘い匂いがのしかかる。
床のワックスは剥げた線が真っ直ぐで、誰かがここを何度も往復しているのが分かる。
久世一馬は、その線の上を正確に歩いた。
ネイビーの背広の袖口で、棚のラベルの角に付いたわずかなホコリを撫で落とし、最下段の箱を迷いなく抜く。
“2011 人事異動・退職関係”。
ラミネートではない、黄ばんだA4の束。ホチキスの針が少し黒ずんで光る。
表紙にはボールペンの手書き。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
【2011/06/21】営業部A課 佐伯〇〇 退職届
→ 同日撤回・所属継続
備考:本人来社により社内で終了
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
久世は指の腹で「来社」の二文字をなぞり、爪先で紙の縁をそっと整えた。
指先が、嬉しさで少しだけ温度を帯びる。
「……これ。——これがあるから、やめない」
目を閉じれば、当時の音が蘇る。
パイプ椅子が軋む金属の悲鳴、紙コップに落ちるドリップのぽとぽと、夏の空調が吐く乾いた風。
泣きそうな顔の20代が、会議室のドアを胸で押しながら入ってきた。
『置き手紙で辞めようとして……すみませんでした……』
『うん。来てくれたから大丈夫。会社で終わらせられるから😊』
その子は残り、三年で主任、七年で係長、そして——「部長代理」。
久世は、それを月に一度、自分のパソコンで確認している。
プロフ写真の微笑、自己紹介、輝かしい略歴。
画面の右上に小さく出る「最終更新:○月○日」を、記念日のようにスクショして保存している。
棚の影で、靴音。
ドアがカチャと開いて、総務の柿沼が顔を出した。
「久世さん、またそのファイルですか」
「また、だね😊」
久世は紙を戻す代わりに、胸ポケットのメモに一本線を引いた。
《2011-06-21/来社→継続/現在:部長代理》。
線の引き方が「定規の音」を連想させるほど真っ直ぐだ。
「引き止めたの十年以上前の話ですよ」
「十年以上前の“来たから部署まで持てるまで成長した”が、会社を太らせるんだよ😊。一回でも見た“来さえすれば伸びる”は、消えない。会社はこういう成功の亡霊を食べて生きるの」
恍惚とする久世を見て柿沼は息を呑む。
「でも最近、“すでに△△社に入社してます。親には行かないでください”で止まりましたよね」
「あれはよそ様😊」
久世は笑顔のまま、声だけを0.5トーン落とす。
「よそ様のドアはノックしない。したらうちが痩せるから。——だからまだうちの席に名前がある子には、全部やる。親も、同僚も、オンラインも。来社扱いも」
「……諦めないんですね」
「諦める理由がない。俺は一例を見た。会社は一例で十分なんだよ😊」
アーカイブ室の蛍光灯が、ちょうどその瞬間だけチッと弾けた。
影が一枚、久世の頬に斜めの線を落とす。笑顔の線と重なって、意志が刃物みたいに見えた。
――
同じ頃、新会社。
会議室の窓は午前の光で白く、観葉植物の葉脈が透けている。
俺は三人に、一本のメモを映した。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
旧社の若手(ミナミ)が、うちの退職テンプレを送った → 親訪問ストップ
効いた文:
・すでに他社に入社/入社予定
・家族・友人・取引先を呼び出しに使わないでください
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
「やっぱり……効いてるみたいだね、見込みに間違いなし」
ことねがモニターを覗き込む。
「“すでに他社に入社している”って書かれた瞬間に、あの人本当に止まるんだ」
「“よそ様には行かない”っていう常識だけ残ってるんです。だから、こっちがそこを先に書けば勝てる」
紗良がペンを回して言う。
「でもさ、これ、向こうから見たら“外の会社のやり方でうちの子を持って行かれた”ってことになるよね? あの人、絶対気にするでしょ」
「気にします。たぶん正式に言ってきます。“説明に来て”って」
ゆいが顔を上げる。
「来ないと親に行くやつ?」
「可能性あります。向こうは“会社で終わらせる”を正しいと思ってるので、“会社で説明しなかったやり方でうちの社員を減らすな”って言ってくる」
「じゃあ、行く?」
「行きます。会社で終わらせる側に“来なくても終わることができること”を説明する。こっちはもう v7 まで作ったんで」
俺はフォームのいちばん下を指さした。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
・すでに他社に入社している/入社予定の場合、旧会社での“会社で終わらせる”は不要です
・これは会社を弱らせるためではなく、過去の成功体験に基づいた過度な呼び出しを避けるためのものです
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
「ここが今日の芯です。“あなたが十年前に見た成功が、いまの人には負担になってます”って言えるようにしておく」
ことねが短くうなずく。
「じゃあ、こっちは“どの呼び出しをどうすれば止められるか”を文章で書いておきます。親・同僚・オンライン・在宅、いろいろな呼び出しについてです」
「私は“親を使われるとしんどい”のほう書きます。具体例つけて」
紗良がペンを走らせる。
ゆいがにやっとして言った。
「じゃ、せっかく説明行くなら、うちの名前ちゃんと残そう。“どこから出たものか分かんない文”にされると仲間を改竄して利用されるかもしれないから」
――
夕方。旧会社・総務前の白壁。
今日のラミネートは角が0.3度だけ傾いている。久世はポケットから薄いカードを出し、端をトントンと叩いて修正した。
「本日付=死亡のみ」「オンラインでも来社扱い」「“辞められた”禁止」。
三枚が光を拾って、病院の廊下みたいに清潔だ。
内線が鳴る。
新会社の番号。
受話器を取った若手が、何かに怯えた目で久世を振り返る。
「……久世さん、雨宮さんからです」
「はいはーい😊」
久世は散歩に出るみたいに受話器を受け取り、肩で挟んだ。
声は、角砂糖をひとつ落とした紅茶みたいに甘い。
「お世話になってまーす、久世です😊」
『お久しぶりです。雨宮です』
「フォーム、いいねぇ。“すでに他社に入社しています”、これは引くよ。うちが痩せるから😊」
『そう言ってもらえると助かります。親や同僚の呼び出しを先に止めたいので』
「だよねぇ。で、ひとつお願い」
笑ったまま、言葉の温度だけ下げる。
「一回、会社で説明して? “外で終わるやつ”でうちの子を持っていかれっぱなしは、気持ちが悪いの。会社で終わらせるのが、いちばんきれいだから」
『日にちをください。三人仲間を連れて伺います』
「三人も、君も成長したねぇ😊」
久世は壁のラミネートを親指で撫で、指紋が付かないように袖で拭った。
「じゃあ来週の水曜、10時。大会議室。親も、同僚も、オンラインも、全ての手段も俺は間違ってるとは思ってない。言葉で決めよう。会社のみんなの前で」
『分かりました。それと、こちらも一つだけ』
「うん?」
『“来さえすれば伸びる”——あなたが十年前に見たその一例が、今の人たちには負荷になっています。その話を、向こうでします』
一拍。
蛍光灯のチカチカが、ほんの少しだけ長く止まった気がした。
「……見えてるんだねぇ、そこまで」
『見えました』
「じゃあ——会社同士で終わらせましょう😊」
通話が切れた。
受話器の冷たい重みだけが掌に残る。
久世はスマホのカレンダーを開き、“大会議室・10:00”の枠に“雨宮(会社で終わらせる)”と打った。
括弧の中の二文字を、三度打ち直して位置を整える。
完璧に真ん中に来たところで保存。
壁の三枚は、オレンジがかった夕光で文字だけ浮き上がる。
「辞められた禁止」の“禁”の字が、やけに旨そうに見えた。
「——来て会社に残りさえすれば伸びる。でも、あの子は“外でも伸びる”を見せに来る」
独り言。
アーカイブ室へ向かう足取りはまた真っ直ぐで、床のワックスの線にぴったり重なっていた。
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