第2話「前髪3ミリの哲学」

午前十時。瑞希がはさみを研ぎながらコーヒーをすする。店の空気はまだ柔らかい。そこに現れたのは、常連の前髪3ミリ教徒・田島さん。彼女の信仰は揺るがない。

「今日も、三ミリでお願いします」

瑞希は一拍置く。確認は儀式だ。「三ミリ、ですね」

「ええ、三ミリ。ちょうど眉の上、でも眉は見せたくないんです」

この“でも”が出た瞬間、戦いの火蓋は切られる。三ミリで眉が隠れる確率は、天気予報で言えば晴れ時々雷雨。瑞希は経験上、風速と頭の角度によって0.8ミリの誤差が出ると知っている。

「田島さん、今日は湿度が高いので、乾くと若干上がるかもしれません」

「じゃあ、2.7ミリで」

もう単位が工業レベルである。瑞希は心で「ここはNASAではない」とつぶやき、口では「かしこまりました」と微笑む。


カット中、田島さんはスマホの前髪フォルダを開く。スクロールには“過去の前髪たち”が整列していた。

「この日の感じが理想なんです」

撮影日を見ると、去年の梅雨明け。湿度47%、風速2メートル、担当は自分。あの日はドライヤーが偶然神がかっていた。瑞希は言う。「今日も近づけます」

「でも、友達に“前髪重いね”って言われたんですよ」

「そうなんですね」

「でも夫には“軽い方が老ける”って言われて」

人間関係がカットラインを超えてくる。瑞希は内心、「夫と友達の前髪基準を統一してくれ」と祈りつつ、慎重に三ミリを刻む。


レンが隣で呟く。「三ミリって、もはや切る意味あるんすか?」

「あるのよ。人間は三ミリで人生が変わることがある」

「髪ってより、気持ちの話すね」

「そう、だから怖いの」瑞希は一呼吸。最後の毛束を落とす。鏡の中、田島さんの眉は、奇跡的に影で隠れている。

「完璧です」瑞希が言うと、田島さんは微笑む。

「これで職場の人にも“いつも同じだね”って言われるんです」

“変わらないこと”が、彼女にとっての安心なのだ。


会計後、瑞希はカルテに「前髪2.7ミリ、眉ギリ・湿度高」と記す。北条が通りかかり、呟く。「瑞希、前髪3ミリ組は利益率低いぞ」

「でも満足度は高いです」

「満足度で光熱費払えたらな」

北条は去り、瑞希は笑う。美容師とは、ミリ単位の哲学者であり、矛盾を整える翻訳者だ。


夜、SNSを開くとレンの投稿が光っていた。


今日の学び:三ミリのこだわりは、自己肯定感のバロメーター。切りすぎると人生まで軽くなる。


瑞希はそれに「いいね」を押す。

その指先には、たった三ミリぶんの誇りが、確かに残っていた。

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