人口900人の町で始めた潜在意識リトリートが、世界を変えた話~炎上した私が、過疎の町で見つけた本当の豊かさ~
ソコニ
第1話「地獄の7日間」
1日目(月曜日)午前10時32分
スマートフォンの通知音が鳴り止まない。
水瀬美咲は、麻布十番の自宅マンションのリビングで、震える手でスマホの画面を見つめていた。三十五歳の誕生日まであと二週間。本来なら、今頃は銀座のホテルで「潜在意識覚醒セミナー」の最終打ち合わせをしているはずだった。
だが、その予定は全て消えた。
画面には、自分が講師を務めたセミナーの動画が映っている。三週間前、横浜のホールで開催した「引き寄せの法則実践講座」の一部が、悪意ある編集で切り取られ、SNSで拡散されていた。
『年収1億円を引き寄せた私のメソッド!』
『貧乏なのは潜在意識のせい!今すぐ変えれば人生が変わる!』
確かに、自分はそう言った。だが、その前後には重要な説明があった。潜在意識は万能ではないこと、努力と行動が前提であること、そして何より、他者への思いやりを忘れてはならないこと――。
しかし、15秒の動画には、それらは一切含まれていなかった。
コメント欄は地獄だった。
『詐欺師じゃん』
『金持ちになれなかったのは私のせいって言いたいの?』
『こういう自己啓発ビジネスほんと嫌い』
『潜在意識って都合のいい言い訳だよね』
『200万も払った人いるらしい。可哀想』
美咲の手が震える。息が浅くなる。胸が締め付けられる。
通知は増え続けた。Twitter、Instagram、YouTube、LINE。すべてのSNSで、自分の名前が炎上していた。ハッシュタグ「#水瀬美咲」がトレンド入りしている。
「嘘でしょ……」
美咲は呟いた。声が震えている。涙も出ない。ただ、現実感が失われていく感覚だけがあった。
スマホが鳴った。事務所のマネージャー、田村からだ。
「美咲さん、大変です。今日の夕方の取材、全部キャンセルになりました。出版社からも連絡があって、来月発売予定の本も延期だそうです。それと……」
田村の声が途切れた。
「それと?」
「受講生の何人かが、返金を求めているそうです」
美咲は電話を切った。リビングの窓から見える麻布の街並みが、急に遠く感じられた。
2日目(火曜日)午後3時15分
美咲は、渋谷のカフェで一人座っていた。昨夜は一睡もできなかった。スマホの通知音が怖くて、電源を切っていた。
だが、現実から逃げることはできなかった。
テーブルの上には、週刊誌『週刊トゥルース』の最新号が置かれている。表紙には、自分の顔写真と共に、こう書かれていた。
『引き寄せ詐欺師・水瀬美咲の正体』
記事を開く。そこには、自分が最も信頼していた受講生、佐々木恵美子の告発が掲載されていた。
『私は水瀬先生のセミナーに200万円を支払いました。「潜在意識を変えれば、必ず人生が好転する」と言われ、信じていました。でも、何も変わりませんでした。借金だけが残りました。彼女は私たちの弱みにつけ込んだのです』
美咲の手が震えた。
恵美子とは、三年前に出会った。当時、彼女は離婚したばかりで、仕事も失い、絶望の淵にいた。美咲は彼女に寄り添い、セッションを重ねた。確かに、恵美子は変わった。新しい仕事を見つけ、笑顔を取り戻した。
それなのに、なぜ。
美咲はスマホの電源を入れた。LINEに、恵美子からのメッセージが届いていた。
『美咲さん、ごめんなさい。でも、私は本当に苦しかったの。あなたは成功して、私は何も変わらなかった。許してください』
美咲は返信しなかった。できなかった。
カフェを出ると、夕暮れの渋谷の雑踏に飲み込まれた。人々の視線が、自分に向けられているような気がした。
スマホが鳴った。夫、健一からだ。
「美咲、今夜話したいことがある。帰ってきてくれ」
声のトーンが、いつもと違った。冷たかった。
3日目(水曜日)午後11時40分
麻布のマンション、リビング。美咲と健一は、ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていた。
健一は黙ったまま、一枚の紙を差し出した。
離婚届だった。
「……え?」
美咲の声が震えた。
「もう無理なんだ。美咲、俺はもう耐えられない」
健一は目を合わせなかった。彼は大手商社に勤める、誠実で真面目な男だった。美咲が起業したとき、応援してくれた。セミナーが軌道に乗ったときも、喜んでくれた。
それなのに。
「どういうこと? 私が炎上してるから? 迷惑だから?」
「それだけじゃない」
健一は深く息を吐いた。
「実は……俺、半年前から別の人と会ってる」
美咲の心臓が止まった。
「……誰?」
「会社の後輩。もう、美咲とはやり直せない。ごめん」
健一は立ち上がり、寝室へ向かった。
美咲は、テーブルの上の離婚届を見つめた。手が震えて、文字が読めなかった。
涙も出なかった。ただ、何かが崩れていく音だけが、頭の中で響いていた。
4日目(木曜日)午前9時00分
銀行からの電話で目が覚めた。
「水瀬様、セミナー事業の口座に関しまして、複数の受講生から返金請求が来ております。つきましては、一時的に口座を凍結させていただきます」
「……凍結?」
「はい。法的手続きが完了するまで、引き出しはできません」
電話は一方的に切れた。
美咲はベッドから起き上がれなかった。体が鉛のように重い。昨夜から何も食べていない。水も飲んでいない。
スマホを見る。未読のメッセージが500件を超えていた。そのほとんどが、批判と中傷だった。
『あなたのせいで人生狂った』
『金返せ』
『二度と人前に出るな』
美咲は、スマホを壁に投げつけた。画面が割れた。
それでも、通知音は鳴り続けた。
5日目(金曜日)午後2時30分
美咲は、目黒の事務所に向かった。三年前に借りた、小さなオフィスだ。
ドアを開けると、マネージャーの田村が、段ボール箱を運んでいた。
「美咲さん……」
田村の目は泣き腫らしていた。
「田村さん、どういうこと?」
「大家さんから連絡がありました。来月末までに退去してくれって」
「そんな……」
美咲は膝から崩れ落ちそうになった。
「それと、これ」
田村は一通の封筒を差し出した。弁護士事務所からの内容証明郵便だった。
『貴殿が主催したセミナーに関し、複数の受講生が精神的苦痛を受けたとして、損害賠償請求訴訟を提起する準備を進めております』
美咲は封筒を床に落とした。
「田村さん、私、どうすれば……」
「美咲さん、少し休んだ方がいいです。このままじゃ、体が持ちません」
田村は優しく言ったが、その目には明らかな同情があった。
美咲は事務所を後にした。夕暮れの目黒の街を、ふらふらと歩いた。
スマホが鳴った。母からだ。
「美咲、ニュースで見たわよ。近所の人たちが、あなたのこと話してる。どうしてこんなことに……」
母の声は震えていた。
「お母さん、ごめん。今は話せない」
美咲は電話を切った。
歩道橋の上で立ち止まった。下を車が走り抜けていく。東京の夜が、冷たく光っている。
「私の潜在意識は……一体、何を引き寄せたんだろう」
美咲は呟いた。答えは返ってこなかった。
6日目(土曜日)午前0時15分
深夜のコンビニ。美咲は雑誌コーナーの前に立っていた。
週刊誌の表紙に、また自分の顔が載っている。
『引き寄せビジネスの闇――被害者たちの告白』
美咲は雑誌を手に取らなかった。もう、読む気力もなかった。
レジに向かうと、店員の若い女性が、じっと自分を見ていた。
「……あの、もしかして」
美咲は走って店を出た。息が切れた。心臓が早鐘を打つ。
マンションに戻ると、健一の姿はなかった。彼の荷物も、すべて消えていた。
テーブルの上に、メモが残されていた。
『離婚届、サインしておいた。弁護士から連絡がいく。元気で』
美咲は、メモを握りつぶした。
そして、初めて泣いた。
声を出して、子どものように泣いた。
7日目(日曜日)午前6時00分
美咲は、荷物をまとめていた。大きなスーツケース一つと、リュックサック一つ。それだけが、今の自分の全てだった。
マンションも、来月には出なければならない。銀行口座は凍結され、クレジットカードも使えない。
行くあてはなかった。
ふと、引き出しの奥から、古い写真が出てきた。
小学生の頃の自分が、祖母と一緒に写っている。背景には、深い山々と、小さな温泉宿が見える。
祖母の故郷、早瀬町。
美咲は、その町のことをほとんど覚えていなかった。ただ、夏休みに一度だけ訪れたとき、祖母が温泉に連れて行ってくれたこと。山の空気が、どこまでも澄んでいたこと。
祖母は五年前に亡くなった。遺産として、早瀬町の古民家を美咲に残してくれた。
「行こう」
美咲は呟いた。
もう、東京には何も残っていない。
午後1時45分 東京駅
美咲は、新幹線のホームに立っていた。嶺南県行きの列車が、静かに入線してくる。
スーツケースを引きずりながら、車両に乗り込んだ。指定席は窓側。誰もいない車内が、妙に広く感じられた。
列車が動き出す。東京の街並みが、ゆっくりと遠ざかっていく。
美咲は窓に額をつけた。
「さよなら」
誰に言うでもなく、呟いた。
列車は速度を上げ、やがて都心を抜けた。郊外の住宅地が広がり、田園風景へと変わっていく。
二時間後、窓の外に山々が見え始めた。
南峰山脈。三千メートル級の山々が、雪を頂いて連なっている。
美咲は、初めて何かが胸に灯るのを感じた。
それは希望というには、あまりに小さな光だった。
でも、確かにそこにあった。
「早瀬町……」
美咲は呟いた。
列車は山間へと入っていく。トンネルを抜けるたび、景色が変わる。木々が深くなり、空気が澄んでいく。
やがて、車窓に小さな町が見えてきた。
家々は疎らで、廃校らしき建物も見える。人影はほとんどない。
それでも、不思議と心が静まった。
「ここから……始めよう」
美咲は、自分に言い聞かせた。
何を始めるのかは、まだ分からない。
でも、ここでなら、もう一度立ち上がれるかもしれない。
列車は、早瀬駅へと滑り込んでいった。
(第1話 了)
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