間話1 家族

「すまない、シェリー。お父さん、仕事に行かないといけないんだ。分かってくれるかい?」



 困り顔で謝る父の痩せた腰にしがみつき、シェリーはイヤイヤと何度も頭を振った。



 やだ、やだ。わかんない。いかないでおとうさん。おかあさんとシェリーをおいてかないで。



「置いていくんじゃないよ。少し留守にするだけさ。大丈夫、これからはお祖母ちゃんが一緒にいてくれるからね。お父さんは大事な用事を終わらせて、必ずシェリーとお母さんのところに帰ってくる。だから、いい子にして待っていておくれ」



 うそだ、とシェリーは心の中で泣き喚いた。

 少しなんて言って、本当に少しだったことなんて一度もない。きっと、今回だって何ヵ月も帰ってこない。それが父の、行商人としての生き様だから。


 いつもだったら、シェリーはもう少し聞き分けのよい"いい子"だった。シェリーが赤ちゃんだった頃から、父は家族を養うため仕事に出ていた。帰ってきたと思ったらまた旅に出ていく大きな背中を、母の腕に抱っこされて見送っていたのだ。

 だけど、今回は事情が違う。

 今まで住んでいた町を離れて、もっと大きな都市へ移り住んだのだ。王都、と言うらしい。目に入らないほど広い町が見上げるほど高い壁に囲まれていて、内側には大きくて立派な家がぎゅうぎゅうに詰まっている町だ。人がたくさんいる代わりに、馬や牛や鶏は少ない。もっと違うのはお城があることだ。王様やお姫様が住んでいるおうちだけど、シェリーはまだ本物を見ていない。


 シェリーの新しいおうちも、前住んでいたところよりこじんまりとしているけど素敵だと思う。まるで妖精のお姫様が住んでいる家みたいで、最初はとてもわくわくした。

 でも実際に住んでいたのは妖精でもお姫様でもなく、気難しい顔をしたおばあさんだった。お母さんのお母さんなんだって。シェリーは赤ちゃんの頃に会ったことがあるけれど、全然覚えていなかった。


『私が動ける内に、シェリーが寂しくないよう環境を整えてあげたいの』


 お母さんはそう言っていた。意味はよく分からなかった。ただ、家族が一人増えるのだということは分かった。

 シェリーは前々から母に、"おとうと"か"いもうと"がほしいとねだっていた。母はそのたびに困ったように笑うから、簡単に頼んではいけないことなのだと幼心に理解した。


 ちがう。ほしかったのは"おばあちゃん"じゃなくて、"おとうと"か"いもうと"だ。


 そう思ったけど、言えなかった。

 だって、おばあちゃんはとても怖い顔をしていたから。

 シェリーは嫌われているのだと思ってしまった。



 祖母と暮らすことになったそもそもの原因は、母が病に冒されたことだ。その時、シェリーは母と一緒に朝食を作る手伝いをしていた。そしたら、母が大きな物音を立てて床に倒れ込んだのだ。何の前触れもなく。シェリーは泣きながら隣家に駆け込んで、おじさんとおばさんに助けを求めた。彼らは動けない母をベッドに運んで神官を呼んでくれた上、町長の家の〈伝信箱〉で行商に出ていた父に伝言を送ってくれたのだった。

 倒れる以前の母は毎日休むことなく家事育児に勤しみ、シェリーが生まれる前は父の仕事に必ず付いていくくらい活発な人だったから、シェリーも父も、もちろん本人も、突然歩けなくなったことにショックを受けない人はいなかった。


 母の病名は医神官に診てもらっても分からず、今は治る見込みもないという話であった。それを聞いて青褪めた父が、あるいは王都なら……と漏らした医神官の言葉に一も二もなく飛びついたのは無理もない。一縷の望みをかけて、三人は王都に暮らす祖母の家に移り住むこととなった。

 だけど状況は改善しなかった。田舎で原因不明と言われた病は、都会の医神官でも言明することはできなかったのだ。

 色んな薬を少しずつ試してみたけれど、母は一向によくならない。今ではベッドの上で起き上がっていられる時間も、一日のうち数分あるかないかだ。


 人一倍闊達でムードメーカーだった母がベッドで寝込むようになると、家の明かりがすべて落ちたかのように暗く感じる。シェリーの気質は母よりも父に似たらしく、両親や気心の知れた人の前では明るく振る舞えるものの、知らない人の前では途端に大人しくなる。

 だからだろう、厳格な祖母とはなかなか打ち解けることができなかった。


 祖母はニコリとも笑わない人で、シェリーが子供だろうとお構い無しに厳しい物言いをする。いや、よく聞けばどれも正当で理に適ってはいるのだ。だが、語気がナイフで端々を切り取ったみたいに鋭く、その調子で叱咤されるとピシャリと鞭を打たれたような気持ちになる。穏やかで優しい人たちに囲まれて成長してきたシェリーにとって、祖母は初めて立ちはだかる壁であった。


 第一印象はとても大事だ。

 最初に怖い人だという印象を持ってしまったせいで、祖母のいる新居はシェリーが安心できる居場所にはならなかった。

 それでも文句を言わず祖母の手伝いをし、母の看病をしているシェリーはまさしく"いい子"だろう。


 シェリーが頑張れるのは、父がいてくれるから。

 母が倒れてからというもの、父は行商に出ず王都中の医神殿を巡り巡っていた。一度目が駄目でも諦めず、二度、三度と繰り返し訪れては、どこかに解決の糸口がないかと探している。誰よりも必死に、休む暇もなく動き続ける父を見たら、泣き言なんて言えなくなる。一番辛いのに笑っている母を見たら、もっと言えない。

 けれども、父に行ってほしくなかった。子供ながらに、父が祖母との緩衝材にはってくれていることに気付いていたのだ。シェリーは母が倒れてから初めて我儘を言った。




 抵抗虚しく、父が旅立って一ヶ月が過ぎた。


「あらあら。シェリーったら、まだ拗ねてるの? お父さんが旅に出てもうひと月も経つのに」


 珍しく起き上がれているエルシアが、むくれたシェリーのほっぺをツンツンとつつきながら笑った。腰とベッドの間に柔らかいクッションをいくつか挟み、体を支えている。頬はすっかり痩せこけて、目の下には隈のような影が滲んでいる。――その影がじわじわと母の命を奪っていくような気がして、シェリーはこっそり目を逸らした。


「だって、おとうさんまたウソついた。『すこし』でかえるっていったのに、かえってこない」

「そりゃあ、仕方ないんじゃない? 今回の『お仕事』は簡単に終わらないんだし」

「……しってるよ。せいじんさま、さがしにいったんでしょ」

「分かってるじゃない」


 王国において、医療は医神殿の管轄。医療行為は神の名のもとに行われる。医神殿は医神ヴォグルディオスを祀る信仰の場であり、王国民に医療を施す病院であり、医療を志す者たちの学び舎でもある。つまり、ありとあらゆる医学知識が集まってくる――あるいはここで生まれるのだ。

 だが、神の恩寵である奇跡は神殿の枠に囚われない。


 聖人アレウス。

 旅する医伯と呼ばれる彼は、万病を癒やす奇跡に祝福されている。彼は医神殿に籠もらず大陸各地を歩き回って、病に苦しむ人々を救っているのだ。貴人と貧民の区別を付けず、一切の金銭を受け取らず、自らはパンと水だけで過ごし、患者の不平等を減らすため〈伝信箱〉を持たない。


 医神殿に足繁く通っていたシェリーの父ラバルに、憐れに思った司祭が教えてくれた。

 聖人アレウスは、チャッカ王国よりさらに北のムツヘスカに滞在しているようだ。ムツヘスカは一夏続いた流行り病のせいで、大勢の病人が発生しているらしい――と。


 アレウスの足取りは概ね医神殿により把握されており、父のような奇跡を必要とする人にこっそり教えているのだという。

 それを聞いたラバルは、早速旅立つことにした。元から行商人であるため、旅には慣れている。旅費は商売をしながら稼げるだろう。

 これが本当の最後の希望。

 だから、シェリーの引き留めにも応じなかったのだ。


「お父さんもシェリーを置いていくのは嫌だったはずよ」

「ほんとう?」


 小さな手がしっかりと握りしめているため、シーツに皺が寄っている。エルシアは愛おしそうにその手を撫でた。


「ええ。だけど不安はなかったと思うわ。家には私もおばあちゃんもいる。だから、安心して私たちにシェリーを任せたのよ」

「…………」

「キリエおばあちゃんは苦手?」

「! そ、そんなことないよ」

「そうかなぁ。シェリーったら前はあんなにお喋りだったのに、こっちに来てからすっかり大人しくなっちゃったじゃない。おばあちゃんが怖くてはしゃげないんでしょ?」

「う……」


 図星を指されてたじろぐシェリー。怒られるかと思ったのだ。祖母はお母さんのお母さんなのだから。しかし、次の言葉にシェリーは目を丸くする。


「お母さんも、子供の頃はおばあちゃんがとっても苦手だったのよ」

「えっ? そうなの?」

「そうよぉ。好き嫌いは許さないし、食事中に足ぶらぶらするのも駄目だし、泥んこになって帰ったらすっごく冷え冷えとした目で見られるし。今思えば信じられないわよ。『あんな目、子供に向けてする?』って」


 クスクスと笑う母は、口では文句を言っているけれど楽しそうだ。なんでだろうと思い、シェリーはエルシアの顔をみつめた。娘の視線に気付いたエルシアは笑うのをやめ、悪戯そうな瞳でみつめ返す。どうやら興味を引けたようだ、と内心で微笑ましく思いながら。


「あんまり口煩いものだから、ある時我慢の限界が来て言い返したの。そしたらおばあちゃん、びっくりした顔をして……」

「びっくりしたかおをして?」


 答えが待ち切れない様子でエルシアのベッドに身を乗り出す。

 エルシアは一瞬口を開いたが、思い直して居住まいを正し、ゴホンと小さく咳払いした。そして、祖母によく似た鹿爪らしい顔を作って、


「――あら、言い返す口があったのね。随分と大人しい子供だと思っていたのに。やんちゃの娘はやっぱりやんちゃなのかしら」


 祖母の口真似だ。すぐに分かり、目をぱちりと瞬く。

 続けて母は言った。


「言っときますけど、やんちゃというのは貴女のお父さんのことですからね。あの人は調子に乗って国王陛下にも失礼な物言いをする人ですから。だから貴女が生まれた時、絶対に貴女を魔術師として育てまいと心に決めたのです。幸いにも貴女には魔術師としての素質はありませんでしたから、私の心配は杞憂に終わりました」


 シェリーはきゃらきゃらと声を立てて笑った。難しい言葉の意味は分からなかったが、物真似が上手くて可笑しかったのだ。気付けばベッドの傍らに膝立ちになり、足をパタパタさせている。祖母が見たら片方の眉をぴくりと上げて、厳選された叱責の言葉を飛ばすに違いない。


「どう? これで少しはおばあちゃんのこと苦手じゃなくなりそう?」


 パタリ、と足の動きが止まった。

 まつげの影が琥珀色の瞳に落ち、わずかに曇る。


「……うん。たぶん」

「そっか」


 お母さんのお母さんだから、できればシェリーも好きになりたいとは思う。

 嫌いと苦手は違う。祖母のことは嫌いではない。

 でも……。


『私が動ける内に、シェリーが寂しくないよう環境を整えてあげたいの』


 前は理解できなかったその言葉の意味が、近頃はだんだんと分かってきた。ここへ引っ越してきた頃、母は支えてもらえばベッドからトイレくらいまでは歩けていた。けれど最近は一瞬立ち上がるので精一杯だ。移動のために車椅子を買ったほど。

 エルシアは確実に自由を失いつつある。


(おはなしもできなくなる?)


 あまりの悲しさに涙が込み上げる。

 祖母のせいではないけれど、住み慣れた故郷を離れたこと、父がいなくなってしまったこと、母の病が全然治らないこと、全部がごっちゃになってぐちゃぐちゃになる。


(おばあちゃんがいても、おかあさんがいなかったらさびしいよ)


 エルシアがぽんぽんと頭を撫でると、シェリーはしくしくと泣きはじめた。束の間のぬくもりが、どうしようもなく胸を刺す。

 幼いシェリーにも、死がどういったものであるかは分かっていた。友達の祖父が亡くなった時は両親と一緒に葬列に並んだし、父の馬が足を悪くした時は、初めて安楽死というものを知った。

 生きていればいつかは死ぬ。それは常識であり、自然の理だ。死から逃れられるのは神のみ。たとえ奇跡で蘇らせることができたとしても、人間という枠を越えることはできない。理を超える奇跡の力も、永遠ではないのだ――。




「シェリー」


 エルシアはやせ細った腕を伸ばすと、愛娘の頭をそっと抱き寄せる。

 辛いのは彼女も同じ。今も体は軋み、上半身を起こしている状態すら苦しい。

 それでも、泣いている娘を放っておけない。


「大丈夫よ。泣かないで、シェリー」

「おかあさん……!」


 シェリーの未来が心配だからと、王都の母のもとで暮らすことを決めたのはエルシアだった。自分はあと何年生きられるか分からない。自分がいなくなった時、ラバル一人に全てを背負わせるのは酷だ。彼は実家と疎遠だから、頼れるのはエルシアの母しかいなかった。父はちょっと風変わりだし。


 だけど、状況は変わった。

 希望の光がみつかった。

 ラバルが聖人を連れてきてくれたら、エルシアの病は治るかもしれない。

 いや、治る。

 きっと、必ず。


 エルシアはシェリーの肩に手を置き、心から微笑む。娘と同じ瞳は、春の木漏れ日のように柔らかい色をしている。


「お父さんを信じて。奇跡を信じるの。泣いてる人のところに、奇跡はやって来ないのよ」

「……うん。わ、わかった」


 ラバルは聖人をみつけられないかもしれない。

 聖人はソルレシアに来てくれないかもしれない。

 来てくれたとしても、その時にはエルシアは墓の下にいるかもしれない。


 しかし、エルシアは最期の瞬間まで希望を信じ抜くだろう。

 家族を愛するがゆえに。

 家族に愛されるがゆえに。

 そして、もしも生き長らえることができたなら。


(シェリーの幸せを見守るわ。だって、それが親の幸せだもの)


 必死に涙を止めようと頑張るシェリーをみつめながら、エルシアは娘の髪を撫で続けてた。




 それから一年程が過ぎ。

 シェリーとキリエの献身的な看護により辛うじて命を繋いでいたエルシアのもとへ、ついにラバルが帰ってきた。

 聖人アレウスを伴って。


 北の国ムツヘスカの流行り病は、無事収束を迎えたという。一番の功労者はもちろんアレウスであったが、その影にはなんとラバルの貢献もあった。

 奇跡の力で病を癒せたとしても、失った体力まで元通りになるわけではない。そこまで面倒を見る余裕はアレウスにもなく、また流行り病に罹るのは栄養不足や不潔な生活を送る貧民に多かったためか、国は当初救済に乗り気でなかった。そこで、ラバルが商人としての伝手と能力を最大限に活かし、様々な物資を病人のもとへ運んだのだ。

 清潔な布、滋養のある食材、薬草、薪……。

 精算度外視の奉仕であった。

 その活動はアレウスや患者だけでなく、現地の人々の心を大きく動かし、ラバルはアレウスと共に称えられた。活動の仲間は次第に増え、ムツヘスカだけでなくチャッカやベイラードの一部の商人や神官など、人脈は大きく広がった。

 結果、ムツヘスカでは医神殿が新たに造営されることとなったらしい。もちろんラバル一人の功績ではなく、多くの人の尽力があったおかげだ。しかし、ラバルが動かなければ出せなかった結果であることも事実だった。


 そんな話を、エルシアの病を治癒したあと、アレウスが自分のことのように誇らしげに話してくれた。ラバルは終始恥ずかしそうにしていたが、とても立派なことを成し遂げたのだと聞いたシェリーが「おとうさんすごいね!」と褒め称えると、嬉しそうに相好を崩したのだった。


 アレウスは短時間滞在しただけで、また旅立っていった。次はしばらく王都周辺を歩き回り、患者を探すのだという。老齢に差し掛かろうというのに、凄まじいバイタリティだ。それには祖母キリエも感心するほどだった。




 さらに数カ月後。

 ベルモット家は変わらぬ平穏の日々を送っている。


「おばあちゃん、シチュー、とろっとしてきたよ。これでいい?」

「そうですね。では、もう一度ミルクを足しなさい。焦げないよう掻き混ぜ続けるのですよ」

「うん、わかった」


 小さな台所で、キリエとシェリーが並んで夕食の準備中だ。六歳のシェリーは背が足りないので、空き箱を踏み台代わりにしている。キリエはその隣で蒸したじゃがいもを潰しながら、シェリーが踏み台から落ちてしまわないよう、時折鋭い視線を投げかけていた。

 そこへドタドタと騒々しい足音がし、青い髪の溌剌とした女性が台所へ飛び込んでくる。


「おなか空いたー! 二人ともご飯まだぁ?」


 シェリーの母、エルシアである。

 すっかり元気になった彼女は、今はリハビリがてらに地域の商業ギルドへ顔を出し、東王都の職人たちを繋ぐ手伝いをしている。家事は完全にキリエ任せだ。代わりにシェリーが祖母の手解きを受けており、幼いながらも着実に家事スキルを習得しつつある。

 木べらを手にしたキリエが、厳しい目つきでエルシアを睨めつけた。


「まったく、騒がしい。一秒たりとも静かにできないのですか、貴女は」

「だってせっかく元気になったんだしー。それに、大人しいのはシェリーに任せてるから。おばあちゃんも嬉しいでしょ? 孫と一緒にご飯作るの。私がいたら孫の相手を取っちゃうよ?」


 けろりと答えるエルシアにキリエはわざとらしく溜息をついてみせるが、否定はしなかった。

 一方、シェリーは母が顔を見せたので大喜びだ。


「おかあさん! おかあさんあのね、今日のシチューはシェリーがつくってるんだよ!」

「すごいね、シェリー! お母さん楽しみで待ちきれないよー!」

「これ、シェリー。台の上でぴょこぴょこ跳びはねるんじゃありません。エルシア。貴女もです」


 シェリーはにへへと頬を緩めてから、再び鍋と向き合った。大きなミトンで鍋の取っ手を押さえ、木べらでグルグルと鍋の底から掻き混ぜる。先程混ぜたミルクがとろりと艷やかな照りを帯びる。ほっとする香りが鼻腔をくすぐり、空っぽの胃袋を刺激する。首を竦めて反省したエルシアも、シェリーの隣でその作業を見守りはじめた。


「ただいま。今帰ったよ」

「おとうさんだ!」


 玄関から声が聞こえるや否や、シェリーは踏み台からぴょんと飛び降りて走り出した。びっくりしたキリエが慌てて呼び止めるが、聞きやしない。振り返った時にはもう、スカートの裾が扉の向こうに消えていくところだった。エルシアは苦笑し、ゆっくりと後をついていく。

 シェリーは玄関まで直線に駆け抜けると、体当たり同然に父の腰に抱きついた。


「おとうさん、おかえりなさい!」

「おおっと、元気がいいな。ただいまシェリー。今日も一日楽しかったかい?」

「うん!」


 優しく頭を撫でる感触ににやにやが止まらない。

 家族がいるという、当たり前のようで当たり前でない幸せ。毎日噛み締めていると、いつかは慣れてしまうのだろうか。永遠に一緒にいられると思っていた、あの頃のように。

 分かっていても、人は目を逸らしてしまうものだ。

 ただ、それを幼い子供に指摘するのは酷かもしれない。

 今はまだいい。

 ミルクのように甘く温かな日々に包まれて、幸福を享受していていい。

 そう願う人の腕の中で。

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