国を変えるなら、今だ。—葛城亮成、29歳。新興政党・保守自由同盟の挑戦—

桃神かぐら

第1話 旗が立つ日

努力は、人を救うことも、殺すこともある。

俺は——間に合わなかった。

友人は、学費で追い込まれて、それでも「努力が足りない」と自分を責め続けて、誰にも言えなくて。

だから俺は、間に合わせる側に回る。

政治は、誰かが倒れる前に届くための仕組みだ。


 東条駅・北口。朝七時十五分。

 改札から流れてくる通勤の列は、まだ眠っているような呼吸をしていた。

 冬の空気は白く、言葉は短くなる季節だ。


「おはようございます。葛城亮成です」


 のぼりは一本。声は張らない。

 押しつけない。止めない。止めようともしない。

 ただ、目が合った人にだけ、十秒だけ届くように。


 手の中には、QRコードだけが大きく印字された小さなカード。

 政策ビラではない。数字の羅列でもない。


 ——三分でいい。

 ——今、困っている順に寄せる。

 それだけの情報を、短く、正確に。


 高校生が一瞬こちらを見た。会社員が足を半歩だけ緩めた。

 誰も立ち止まらない。それでいい。

 この朝は、“温度”を残す時間だ。


「おはようございます、葛城です」


 息を整える。

 胸の奥に沈んでいる名前は、まだ口にしない。

 まだ語らない。

 語るのは——間に合わせられるようになってからだ。


 三条あかねが向こう側の歩道でスマホをかざして合図した。

「今朝の同時視聴、増えてる。昨日より“保存”が多い。黙って見てる人が増えてる」


 唐橋は日陰側で三脚を調整しながら言う。

「今日の短尺は、二十三秒で切ります。“困っている順に寄せる。”だけでいい」


 俺はうなずいた。

 この街には、声より「温度」が先に届く。


 名都鉄道・東条駅の改札が開くたび、風がホームから押し出されてくる。線路に沿って伸びた再開発ビルの面は朝の光を受けて薄い銀に濡れ、ロータリーの低木はまだ新しい雨をのせていた。通勤者の群れは一定の速度で回転し、誰もがスマートフォンの画面を覗きこむ。人の流れは、川だ。声を上げても、すぐに音が飲まれていく。


 それでも葛城亮成は、そこで旗を立てた。


 白地に紺の細字で《保守自由同盟 CLA》。読みやすい書体。遠くからも視認できる高さ。色は派手にしない。旗の留め具は一晩中練習してきしみを取った。ポールの根元には鉛の重し。ロータリーの風で倒れない最低限の工夫はしてある。


 マイクは使わない。街宣車もない。

 使うのは、声だけ。朝の空気を、正面から切る声。


「本日、東条駅前でご挨拶します。葛城亮成、二十九歳。保守自由同盟の代表です」


 自分の名を言う瞬間、喉仏の奥でわずかに震えが跳ねた。悪くない。緊張は、いつだって力の位置を教えてくれる。


「この街から、国政に挑みます」


 声は大きくないが、細く長く出す。平日の朝のロータリーは、聞こうとしない人の耳に届く音の幅が狭い。大声は、金属製の柱に弾かれて空へ逃げる。静かな声は、足元のアスファルトを伝って人の胸の高さにたどり着く。ここに立つ前に、彼は東条市内の物流倉庫の夜勤出入口で五十回練習した。夜勤明けは大声を嫌う。だが、静かな声には速度を緩める力がある。


「守るべきを守り、変えるべきを変えるために」


 最初の一句は、旗印だ。叫びではなく、意味の断面で届ける。


「東条市の平均世帯、可処分所得はこの五年で十四パーセント減っています。住宅ローンの平均返済比率は三十六パーセントから四十パーセントへ。保育料と学童の費用を足すと、第二子以降をためらうご家庭が増えている。私は、質の良い暮らしの“普通”が、遠ざかっているのを見過ごせません」


 通りすぎる人のうち、三人が立ち止まった。ベビーカーを押す母親と、作業着の男性と、イヤホンを外した大学生。目でカウントする。足の止まり方で、次の言葉の角度を微調整する。


「政治は、難しい専門用語で飾る必要はありません。本来は“暮らしの延長”です。家計が厳しければ、国が軽くする。仕事が苦しければ、国が支える。治安が不安なら、国が守る。当たり前のことを、当たり前にやる」


 旗が風を受けて揺れる。三条あかねが、旗の角度をさりげなく直す。彼女は事務局長で、この党を最初から一緒に作った仲間だ。大学の頃は学生団体で議会傍聴を続け、卒業後は自治体の政策室で働き、燃え尽きかけて、また戻ってきた。袖の中に小さく握られた手の関節が白い。緊張は誰にでもある。


握手の圧が強いほど、

俺は一瞬だけ、胸の奥が痛む。

間に合わなかった人の手を思い出す。


 亮成は次の段を入れる。数字と日常の橋渡し。

 ここが、初対面の壁を溶かす。


「給料が、努力に追いついていない。

《最低賃金成長連動制度法》。

企業が伸びたぶんだけ、最低賃金も上がる。

“頑張った人がちゃんと報われる街”を、ここから始めます。」


 作業着の男性の目が僅かに光を増やした。彼は金属加工の工場で働いていると書かれたロゴ入り上着を着ている。手の甲に油が染み込んで固い。こういう手を見ると、亮成は、胸の中の言葉の温度が少し上がる。


「《国家治安統合情報連携法》――DV、児童虐待、再犯、いじめ。各分野の壁を超えて、警察・福祉・学校・司法の情報を連携し、初動で守る。この街の子どもを守るための当たり前の仕組みです」



 ベビーカーの赤ん坊が靴下の先を動かす。母親は無表情のままだが、ベビーカーの向きを微妙にこちらへ寄せた。


「あなたの子が、望んだ道を行けるようにする。

《教育費無償化》。迷わなくていいように。」


足が少し緩む。無表情は拒絶ではない。感情の置き場所を探しているだけだ。


「私は、国会で騒がない政治をします。説明します。聞きます。折れません。――それが、保守です」


 拍手は起きない。朝の駅前は、拍手を恥ずかしがる場所だ。かわりに、深くうなずく動作が二つ、三つ見えた。十分だ。朝は、合図だけ置いておけばいい。


 亮成は深く礼をして、演説台から降りた。あかねが、白い紙コップを差し出す。温い水。紙コップを握る指に汗が滲むのが、自分でも分かった。


「声、ちゃんと届いてたよ」


「数は少ない」亮成は笑った。「でも、目が変わった」


「うん」


 彼らは旗を畳まず、しばらくそのまま立てておく。通りすぎる人の中に、きっとさっきの言葉に引っかかって立ち止まる者がいる。駅前はそういう場所だ。言葉は届いてから、遅れて効く。


 演説台の横で、小さく手をあげる人がいた。浅黒い肌、四十代半ば、作業着。さっき目が光を増した男性だ。


「ちょっといいか」


「もちろんです」亮成はすぐに距離を詰めた。「お名前は」


「山科。山科鉄工。父の代からやってる」


 名刺を差し出す。刷り上がりの紙は少し薄い。だが、汚れていない。あかねが受け取り、軽く頭を下げる。亮成は山科の目の温度を測る。警戒か、苛立ちか、期待か。混ざっている。しかし、敵意ではない。


「中小企業を見捨てない政治、って言ってたな」


「はい」


「言うのは簡単だが、うちはこの一年で受注単価が一割落ちた。材料費は二割上がった。人は足りない。銀行は保証を嫌う。――税金の控除ってのも、利益が出てりゃ話だ。うちは利益が出ない」


 言葉は硬いが、山科の目は試している目だ。作られた政策の言葉を、現場の温度で弾くか、染みるか。ここで嘘を言ったら、そのまま噂になる。駅前の噂は速い。選挙中は特に速い。


「分かります。控除だけでは足りません」亮成は即答した。「《中小企業成長支援法》は控除だけじゃない。発注側の支払いサイトを短縮する特例を設けます。納入から三十日以内。遅れた場合は遅延利息を義務化。下請けいじめの罰則は実効性を上げる。《地域仕入れ循環条例》も自治体とセットでやります。近くで作り、近くで買う。それを自治体が“見える化”する」


 山科は鼻を鳴らした。少し、口角が上がる。


「見える化、ね。役所の好きな言葉だ」


「好きです。見えれば、競争が起きる。良い店が選ばれる。悪い慣習が浮かび上がる」


「浮かんでも、潰せるかどうかだな」


「潰します」


 短く言う。言い切る時は、言い切る。そこにためらいはない。


「それと――納税の分納制度の柔軟化を国税庁通達レベルでやります。資金繰りが詰まるのは、一ヶ月先の納税が原因になることが多い。分納を“お願い”から“制度”に変える」


「……そこまで言えるなら、まぁ、聞く」


 山科は名刺を返した。「工場見に来い。夜勤の時間でも、昼でもいい」


「今日の夜、伺います」


「今日?」


「今日です」


 山科が笑った。笑うと、目尻に深い皺が寄った。


「本気だな」


「はい」


「じゃあ、今日だ」


 手が硬く、温かい。握手の圧で、工場の騒音と油の匂いが指に残るような気がした。


 山科が去っていくと、ベビーカーの母親が歩み寄ってきた。二十代後半に見える。髪は結い上げているがほつれた毛が頬にかかり、急いで出てきたのが分かる。子の靴下が片方脱げかけている。彼女は靴下の端をつまみ直してから、顔を上げた。


「保育園の話、もっと聞かせてください」


「はい」


「今、上の子が二歳で、下が生後八ヶ月です。夫は都心まで通ってて、帰宅は遅い。保育料、正直いって、もう苦しくて」


「《国民教育費無償化推進法》は段階的に入れます。最初に、保育・学童を全額。次に、高校まで。最後に、大学・専門」


「なんで順番があるんですか」


「財源の段取りと効果の順です。育児期の負担軽減が出生率に直結します。学童までが整うと、仕事を辞めずに済む家庭が増える」


「財源は?」


 声の芯が揺れない。賢い。亮成は即座に答える。


「《特定超過利益調整税法》――利益一兆円超の企業に段階課税(十五〜三十パーセント)。《国際デジタル・資本取引税法》――国内売上五百億円以上の多国籍企業のデジタル売上に三〜八パーセント。宗教の営利部門にも《宗教非営利活動明確化法》で課税する。これで基礎財源を作ります。加えて《国家戦略投資基金法》で国民投資を巻き込み、教育基金の運用益を充てる」


「……そんなに、変えられるんですか」


「変えます」


 短く答える。誇張は入れない。目を逸らさない。母親は少しだけ目を細め、そして深く礼をした。


「名前、覚えました」


「ありがとうございます」


 ベビーカーのタイヤが回ると、靴下が最後まで落ちて、アスファルトの上に転がった。あかねがすぐ拾って渡す。母親が笑う。人が笑うと、周囲の音の高さが変わる。駅前の朝のノイズの中でも、笑いは高い。


 演説のあと、旗を畳み、ポスターの仮張りの位置を確認し、事務所へ戻る。東条駅南口から五分の、シャッターの降りた古いパン屋を借りた。表看板は外したが、店の奥の甘い匂いは消えない。壁に白い塗料を二重に塗り直し、天井の蛍光灯をLEDに替えた。長机と折りたたみ椅子、コピー機。冷蔵庫の中のミネラルウォーターはコンビニで買った安い銘柄だ。コーヒーは粉末。


 机の上に、議席配分の表が広がっている。もちろん、すべて架空の政党名と仮定の数字だ。国民保守党

保守

191

伝統保守・地方利益・安定維持


公和党

公和

24

宗教系・平和主義・中道保守


改革市民党

改革

38

行革・市場主義・小さな政府


立憲市民党

市民

148

中道リベラル・福祉・人権


日本保全党

保全

3

右派ナショナリズム・改憲強硬


新政未来党

未来

3

教育・食・健康・自助・オルタナ系


国民進歩党

進歩

28

中道・地方重視・インフラ・中小企業支援


社会共生党

共生

10

福祉・ジェンダー・障害者支援


労働平和党

平和

8

反市場・反新自由主義


緑の未来党

みどり

7

環境・再エネ・動物保護・都市文化


民主党

民主

5

ネット投票・オンライン民主主義


保守自由同盟(主人公)

CLA

0 → 初当選を狙う

現実保守 × 実務改革 × 中小経済再生

――既に出来上がった大きな山の裾野で、彼らの保守自由同盟は、ゼロから始める。だが、ゼロは自由だ。どこにでも行ける。


「午前の予定」あかねが手帳を持ち上げる。「商店街の会長さん。それから、若草保育園の園長。午後は製材組合。夜に山科鉄工」


「全部行く」


「分かってる。……あのさ」


「何」


「一度くらいは、既存政党からの“親切な”お誘いに乗ったふりをしても良かったのかもって、少し思った。資金とか、後援会とか」


「乗らないよ」


「うん、知ってる」


「連立もしない。誘いにも乗らない。現場と国会を直通にする。――それ以外は、全部あとで歪む」


 あかねは笑って、「分かりました」と言った。


あかねが旗の角度を直す。

その指先は、震えていなかった。

俺より強いときもある。


彼女は、時折こうやって亮成に「自分たちの芯」を言わせる。疲れている時ほど、言葉にして確かめる必要があるからだ。芯を言葉にすれば、スタッフの表情が整う。政治は、人の顔の仕事でもある。


 事務所の扉が開いて、青年が入ってきた。黒いパーカーに、ダメージジーンズ。髪は明るいが、瞳は暗くない。名札を見ずに机の上の政策パンフレットに手を伸ばし、表紙を撫でるように見る。


「SNS、僕やります」


「君は?」亮成が聞く。


「唐橋。二十一。大学は中退した。……選挙、面白そうだと思って。いや面白いって言い方、良くないか。なんか、やってみたい。ここで」


 唐橋の指にはギターのタコがある。音楽をやっていたのだろう。夜に打ち込むものを持つ人間の目だ。光が直線で入って、奥で広がる。虚勢がない。


「給料は出せない」あかねが現実を言う。「交通費しか」


「いいです。バイトしてます」


「何ができる」


「動画編集と、配信の設計。あと、炎上しない書き方」


 あかねと目を合わせる。炎上しない書き方。政治においては、地味だが一番大切な技術の一つだ。言葉は届けば届くほど、誤解される可能性が増える。その時に、燃やさず、笑いで受け流し、でも芯は曲げない文章――それは才能だ。


「やってもらおう」亮成は手を差し出した。「今日の夜、工場を回る。ついて来られる?」


「はい」


 握手は、まだ少し汗ばんでいる。二十一歳の手は、これから固くなる。固くなる手と握手を繰り返すのは、政治の根の仕事だ。


 午前中は商店街。シャッターに貼られた手書きの張り紙に「閉店」の文字が並ぶ。おでん屋、時計店、玩具店。十年前の写真では賑やかだった通りに、鳥の鳴き声がよく通る。会長の白髪は短く刈られている。握手の圧は強いが、肩の筋肉は落ちている。


「人が歩かん」会長は開口一番に言った。「大型店に持っていかれた。道路の計画も、こっちには曲がってこない。若い店が根付かん」


「《地方創生包括法》」亮成は即答する。「自治体に、地元仕入れの割合を公表させます。公共施設のカフェは市内の豆。学校の給食の野菜は市内の農家。図書館の備品は市内の木工所。民間にも“見える化”で競争圧をかける。観光のコースに“買い物”をちゃんと組みます。写真だけ撮って帰る観光は、納税を置いていかない」


「言うは易しだ」


「会長、言うだけのやつはここに立ちません。やるために立っています」


「……口がうまいな」


「説明がうまいだけです」


「それを口がうまいって言うんだ」


 笑いが起きる。笑いが起きると、古い木の柱の色が少し明るく見える。人は笑うと、対象の輪郭が柔らかく見える。政治は硬い言葉の連続だ。だから、たまに柔らかさを入れないと、耳は閉じる。


 昼は保育園。園庭で走る子どもたちの声は、政治の言葉よりも強い。園長は五十代で、目が忙しい。常に子どもと職員の動線を無意識に追っている。そこに頭のリソースの半分を使いながら、こちらの話も聞いている。彼女のような人に、曖昧な言葉は使えない。


「無償化はありがたいです。でも、現場は人の問題です」


「処遇改善加算の一本化と、自治体間格差の是正をやります。資格取得の費用も《子育て未来投資法》で国が持つ」


「それだけで保育士は戻りませんよ」


「戻すのは、社会です。保育は“預かり”じゃなく“教育”だと、はっきり言います。言葉が変われば、待遇が変わる。待遇が変われば、人は戻る」


 園長は短く笑って、「都合の良いこと言うわね」と言いながら、目をほんの少しだけ柔らかくした。現場の人は、約束の厚さではなく、声の温度を見ている。どこまで本気か。逃げ場のない言葉か。そこを見る。


 午後は製材組合。木の匂いは会議室にも沁み込んでいる。木目の上に置かれた書類は、それだけで少し高く見える。彼らの話は、東条市を包む山の話だった。災害のたびに荒れた斜面。間伐の人手不足。林業の価格。木が人を呼ぶための街路樹計画。すべては繋がっている。亮成は、すべてを手帳に書きながら、頭の中で政治の回路図を描く。一本ずつの線が太くなって、やがて束になって、法律になる。


 夕方、事務所に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。差出人の欄に、見覚えのない筆跡。開けると、白い紙に一行だけ。


「君たちの政策は、誰かの飯の種を壊す」


 無署名。あかねが一瞬だけ眉を寄せ、すぐに戻した。


「来たね」


「予告状だ」亮成は紙を折って、ゴミ箱ではなくファイルに入れた。「壊れる種は、芽が出ない。畑を変えないと」


「言葉、割と怖いよ」


「怖がらせるつもりはない」


「でも、届いてる」


 夜。山科鉄工。工場の扉は重く、内側から押すと油の匂いが肺に入る。金属を削る音は、最初はうるさいが、耳が慣れると規則を持つ。音の規則は仕事の規則で、規則は技術の積み重ねだ。手を洗う洗面台の水は冷たく、手拭きの紙は粗い。床のラインに沿って人が動き、機械が止まるたびに誰かが、理由を必ず一つ以上言葉にする。ここには嘘がない。


「見ていけ」


 山科が案内する。旋盤、ボール盤、切削油の槽。棚には規格外になった素材が積まれている。無駄が多いと、山科は言わない。無駄は現場用語ではない。


「発注元の仕様変更が、今は多すぎるんだよ。図面の微調整が業務時間の二割を食う。金にならん」


「仕様変更を発注側に可視化させます。回数、時間、コストの負担配分。契約で義務化。国の調達は先にやります」


「国だけがまともでも、民間は動かん」


「国が先に動く。見本を作る。民間は“真似”が早い」


 山科はふっと笑って、扉の横にあった折りたたみ椅子を蹴って広げ、「座れ」と言った。唐橋がカメラの角度を調整する。動画にする合意は取っている。工場の音が背景に入るのは構わない。むしろ入れたい。政治の動画は音が綺麗すぎると嘘っぽくなる。


「一つだけ、政治家にずっと言いたかったことがある」


「何でも」


「うちみたいな工場の人間はな、政治家に“ありがとう”と言わせたいんじゃない。“すみません”と言わせたいわけでもない。“頼む”と言わせたいんだ。

政治が誰を見てるかなんて、工場はすぐ分かるもんだ」




 亮成は一瞬、言葉を探し、探さずに、頷いた。


「頼む」


 山科が肩をすくめて笑った。「それでいい」


 帰り道、名都鉄道の高架下を通る。夜風が、昼より少し冷たい。自販機の光に虫が集まる。駅の階段の上に、制服の女子高生が三人。笑い声が高架に跳ねる。街の夜は、若い声で温度が上がる。


「亮成」


「ああ」


「今日の一日で、何かが動いたって、思う?」


「分からない」


「分からないの?」


「分からないことを分からないと言える政治家は、少ない」


 あかねは笑った。唐橋も笑った。笑い合う夜道で、ふいにスマートフォンが震えた。通知。SNS。唐橋が一歩早く覗き込む。


「バズってます」


「何が?」


「朝の“守るべきを守り、変えるべきを変える”の切り抜きと、工場で“頼む”って言ったやつ。文字起こしがもう上がってる」


 通知音が連なる。数字が加速の曲線を描く。線が上がること自体は目的ではない。だが、線が上がらなければ、誰の目にも届かない。政治は届かないと、存在しないのと同じだ。


「コメント、荒れてない?」


「荒れてません。“静かで刺さる”が多い。あと“年齢見て驚いた”」


「二十九歳に国を任せられない、も来る」


「来てます。だけど“任せたい若さもある”が勝ってる」


 駅の階段を上がる。改札を抜ける手前で足が止まった。朝、旗を立てた場所に、誰かが紙を貼っている。近づくと、A4。のりは雑だが、字は丁寧。


《本日、十九時〜 東条駅前ロータリー 

保守自由同盟 葛城亮成 ミニ集会

椅子はありません。立ち見です。

子ども連れ歓迎。耳だけで結構です。》


 あかねが、目で「私じゃない」と言う。唐橋も首を振る。つまり――誰かが勝手に作った。勝手連。自発の火だ。政治には、これがいちばん強い。


「やろう」亮成は言った。「十九時」


「準備、間に合わないよ」


「準備はいらない。声だけでいい」


 十九時。日が落ち、ビルの窓が鏡のように外灯を映す。会社帰りの人の流れが粗くなる時間帯。ロータリーの片隅に、十五人ほどの輪ができていた。ベビーカーの母親、山科、唐橋、制服の高校生、スーツの男性、杖をついた老人。輪は小さい。だが、厚い。各人の立ち位置が、昼より一歩近い。


「始めます」


 マイクはない。マイクがないと、声の出し方に頭が集中する。胸郭の下に小さな火を灯し、喉を通す。喉だけで押さない。胸で押す。声は、体だ。


「この街は、守るべきものがたくさんあります。家。仕事。子ども。商店街の灯り。夜の工場の音。駅前で笑う声。――守るべきものは、政治が守る」


 輪の外側がゆっくり膨らむ。通りすぎる人が、足を止める。止まって、諦めたように、立つ。諦めの形をした立ち姿は、実は期待の裏返しだ。何度も裏切られて、期待のふりをするのが怖いだけ。


「変えるべきものがあります。税の歪み。情報の縦割り。遅い行政。動かない議会。言葉だけで動かない政治。――変えるべきものは、政治が変える」


 高校生が、スマートフォンを下ろした。目で聞く。若い目が正面から向くと、言葉は空気の温度を上げる。


「守るべきを守り、変えるべきを変える」


 言葉は一つだ。何度も言わない。言ったら、黙る。沈黙は、言葉の形を確定させる。喋り続ける政治は、不安が喋るだけだ。


 沈黙の間に、掌の中で風が動いた。風は人の間を通り、旗を鳴らし、夜の空の方へ行く。夜の空は、意外と低い。手を伸ばせば届きそうな高さにある。


 集会は十五分で終えた。拍手は控えめ。声援はない。だが、輪は解けず、個別に話の輪がいくつもできる。唐橋がその輪をゆっくり泳いで回り、短い動画を撮り、音を拾う。あかねは、その輪の端で、話の流れを壊さない距離で立つ。政治は、誰の話をどこで止めるか、誰の話をどこで延ばすか、その配分の仕事でもある。


 終わって、ロータリーの端に立つ。駅前のスロープを風が下りてくる。あかねが横に立つ。唐橋が背後から近づく。


「今日」


「今日」亮成は頷いた。「旗は立った」


「旗は、朝に立ったよ」


「夜に、心に立った」


 唐橋が笑った。あかねも笑った。笑いの温度が夜気を押し返す。駅のアナウンスの女性の声が聞こえる。終電までには、まだ時間がある。今日のうちに、もう一軒だけ行ける場所がある。亮成はポケットからメモを取り出す。そこには、昼間にすれ違いざまに渡された、丁寧な文字の走り書きがある。


「高架下の小さな学童。人手が足りません。来てください」


 歩き出す。旗は畳まない。旗は、風に晒したままがいい。布は、風に吹かれるほど、皺が伸びる。


 初日が終わる夜に、彼は分かっていた。

 これは票を数える物語ではない。

 人の暮らしの形を、もう一度“普通”に戻す物語だ。


 駅の時計が、二十一時を少し過ぎたところで止まって見えた。実際には動いている。時間は動く。止まるのは、見ている側の心だ。心を動かすのは、言葉と、風と、手だ。


 その夜、事務所のポストには、投函されたばかりの一通の封筒が入っていた。ざらりとしたクラフト紙。宛名は太いペンで、震えながらも正確に書かれている。開けると、罫線のある便箋に、短い文章。


「泣けました。泣けたのは久しぶりです。

娘が来年、小学校です。楽しみです。

ありがとうございます。頑張ってください。

名前は書きません。名前を書けるほど、まだ信じ切れていません。

でも、明日、また駅に行きます。」


 あかねが、便箋の角を揃えて封筒に戻す。唐橋が、照明を落とす。事務所の奥の古い壁掛け時計が、低く二回鳴る。音は小さいが、確かだ。


 亮成は机に両手を置き、背筋を伸ばした。

 背を伸ばす時の肩甲骨の手前で、小さな痛みが走る。今日使った声と、握手と、立ちっぱなしの足の疲れが、そこで呼吸をする。痛みは、生きているしるしだ。


「行こう」


「どこに」あかねが聞く。


「明日の朝の、同じ場所に」


 旗は夜のうちに乾いて、朝にはまた、よくはためく。

 旗が立った日は、旗が毎日立つ日の、ただの一日目にすぎない。

 その一日目が、彼らの政治の、最初の礼だった。


夜風は、駅前のネオンよりも低い温度で流れていた。

事務所の蛍光灯を落とし、旗を畳まず、手に持ったまま出る。

「高架下の学童」——便箋の文字が、ポケットの中でかすかに衣擦れした。


葛城亮成は歩き出す。

あかねと唐橋も、無言で続く。


政治は、演説ではなく、ドアの前で始まる。


その夜、扉を叩く前に、彼は自分の背中にあったものをひとつ思い出していた。


父は市役所で三十年、福祉課の窓口に立っていた人間だ。

兄は、霞が関で制度を作り、疲れ果てて、今はこの街で政策研究をしている。


——「寄り添う力」と「制度で変える力」。

どちらも、この家にはあった。

だから自分は、ここに来た。


扉の向こうに、街の未来が眠っている。

亮成は、指先で静かにノックした。

小さな部屋の奥で、子どもの笑い声がした。

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