第6章:計画、強奪、そして誤算
「……手に入っちゃったね、結」
美佳の声は、妙に落ち着いていた。 夕暮れの路地裏に、静かに響く。 その手には、さっきまで倒れた男が握っていた、黒光りする鉄の塊。 本物の、銃。 ずしりとした重みが、見ているこちらにも伝わってくるようだった。
「……おい、美佳。それ、ヤバいって……」 俺、相沢 結は、足元で血を流して気絶している男と、銃をうっとりと眺める美佳を交互に見て、完全にパニックに陥っていた。 鉄の匂いと、生臭い血の匂いが混じり合って、吐き気がこみ上げてくる。
「どうするんだよ、この人! 救急車……いや、警察……?」 「……結」 美佳は、銃をパーカーの大きなポケットに隠すと、俺の顔をじっと見た。 そのガラス玉のような瞳に、俺の怯えた顔が映っている。
「私たち、運、良くない?」 「はあ!? 人が撃たれて死にかけてんだぞ! どこが……」 「だって、あんなに欲しかった『銃』が、向こうから歩いてきてくれたんだよ? 奇跡じゃん。神様、まだ私たちのこと見捨ててなかったんだよ」 「……」
こいつの思考回路は、もう完全に常軌を逸していた。 『ゲキツウ』という絶対的な恐怖が、こいつの中から当たり前の倫理観や同情心を全て破壊してしまったんだ。
「……よし。行こ、結」 「行くって、どこに!? この人はどうするんだよ!」 「知らないよ、こんな人。私たちがやったんじゃないし。ほら、早く誰かに見つかる前に」
美佳は俺の腕を強く引っ張り、路地裏から走り出した。 俺は、一度だけ倒れた男を振り返った。男の口から、小さく呻き声が漏れたのが見えた。 だが、美佳の力に引かれて、結局そのまま走り去ってしまった。 見捨てた。俺は、死にかけている人間を見捨てた。 その事実が、鉛のように胃に沈んだ。
俺たちは、近くの公衆トイレに駆け込んだ。 一番奥の、薄汚れた個室に二人で鍵をかけ、息を潜める。 狭い空間に、俺たちの荒い息遣いだけが響いた。
「はあ……はあ……。撒いた、か?」 「……たぶん」 美佳は誇らしげに、ポケットから「それ」を取り出した。 コンクリートの壁に囲まれた薄暗い個室の中で、その銃は異様な存在感を放っていた。
「……すげえ。本物、だよな」 「うん。重い。……これで、やっと……」 美佳は、その銃口を、自分のこめかみに当てようとした。
「ちょ、待て! 馬鹿! ここでやんのか!?」 「え? ダメ?」 「ダメに決まってるだろ! 色々! まず、弾、入ってんのかよ! 確認しろ!」
俺は慌てて美佳の手を掴んだ。 映画とゲームで得た浅い知識を総動員する。 銃の側面にあるボタンみたいなものを押すと、カチャン、と軽い金属音がして、グリップの部分からマガジン(弾倉)が抜け落ちた。
「…………」 「…………」 それは、空っぽだった。 一発も、弾は入っていなかった。
「……うそ」 「……いや、まだだ。本体に一発、残ってるかも……」 俺は銃の上部(スライドというのか?)を掴み、力任せに引いた。 ガチャン!と硬い音がしたが、薬室から弾丸は排出されない。そこも、空っぽだった。
「…………」 「…………」 俺たちは、顔を見合わせた。
「……カラ、か」 「……うそでしょ……。あんなに、あんなにリアルだったのに……。あの男、これで撃たれたんじゃないの……?」 美佳は、その「ただの鉄の塊」になった銃を握りしめ、ガクガクと震え始めた。
「……なんで……。なんでよ……! あと一歩だったのに! 神様、マジで性格悪すぎ……!」 絶望が、美佳の顔を覆う。その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。 「神様なんて、いないんだ……」
「……美佳。もう、やめよう。これは、もう『死ぬな』ってことなんだよ。天がそう言ってる。帰ろう。あの男のことも、匿名で通報して、それで終わりにしよう。な?」 俺は、泣きじゃくる彼女の肩に手を置いた。 だが、美佳は俺の手を振り払った。
「やだ」 「美佳!」 「やだ! やだやだやだ! 『ゲキツウ』で死ぬくらいなら……!」 美佳は、個室の壁を何度も殴りつけた。ドン、ドン、という鈍い音が響く。
「……私たちは、手に入れた。ハードウェアは」 「……は?」 「足りないのは、ソフトウェア。……『弾』だけ」 「……おい、まさか」
美佳の目が、またあのギラギラした色に戻っていた。 涙で濡れた瞳が、狂気的に光っている。
「……結。日本で、確実に『弾』を持ってて、『銃』も持ってる人たちって、誰だっけ?」 「…………」 俺は、もう、その答えを言わせたくなかった。 「……『劇団・黒龍会』?」 「違う!」 「……じゃあ……」 「お巡りさん、だよ」
最悪の答えが、最悪の笑顔と共に放たれた。
「……もう、無理だ。俺は降りる。警官から奪うなんて……そんなの、ただの凶悪犯罪だ。自殺とは訳が違う」 「この銃(カラ)で脅せばいいじゃん! 本物なんだから、ビビるって!」 「……脅して、どうすんだよ」 「『弾、よこせ』って」 「……くれるわけないだろ。通報されて終わりだ」 「じゃあ、気絶させる。結が、後ろから殴ればいい」 「……無理だ」
俺がはっきりと首を横に振ると、美佳は、急に、泣きそうな顔になった。 「……お願い、結。……もう、時間が無いの」 「……え?」 「……最近、時々、指先が……痛むんだ」 「……!」
俺は、息を飲んだ。 「まだ、我慢できる。チリチリするくらい。でも、これが、だんだん酷くなるんだよね? ネットで見た。最後は、焼けるような痛みになるって……。私、怖いよ、結。痛いのは、やだ……本当に、やだ……」
美佳の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 こいつが、本気で泣いているのを、俺は、久しぶりに見た。 …いや、こんな風に、弱々しく泣く姿は、初めて、見たかもしれなかった。 いつも無茶苦茶で、強気で、俺を振り回してばかりだったこいつが、ただの助けを求める女の子になっていた。
「……分かった」 俺は、自分の口から、諦めの言葉が出るのを聞いた。 もう、正しいとか間違っているとか、どうでもよくなっていた。 ただ、目の前で泣いているこいつを、この恐怖から解放してやりたかった。
「……やれば、いいんだろ。……やるよ」 美佳は、涙をパーカーの袖で乱暴に拭うと、ニカッと笑った。 その笑顔は、ひどく歪んで見えた。
「……さっすが、結」 「……ただし、これが本当に最後だ。これで失敗したら、俺はもう、お前の無茶には付き合わない。…潔く、諦めるんだ。いいな?」 「オッケー! 約束!」
俺たちの、最後の計画が始まった。 それは、今までで一番、馬鹿げていて、一番、取り返しのつかない計画だった。
計画は、シンプルだ。 ① 深夜、俺たちの地元で、一番治安の悪い(=警官が巡回に来る)公園を探す。 ② 美佳が、その公園の暗がりで「助けて!」と叫び、警官をおびき寄せる。 ③ 警官が駆けつけたら、物陰に隠れていた俺が、後ろから警官を殴って気絶させる。 ④ 警官の銃と弾を奪う。 ⑤ 逃げる。
殴るための道具は、美佳がずっとリュックに入れていた、あの『綱引き用のロープ』。 これを、どう使うんだ? 「こうすんの」 深夜の公園。美佳は、ロープの先に、ゴミ捨て場から拾ってきたこぶし大の石を、器用に巻き付け始めた。
「……原始的すぎないか?」 「いいじゃん、当たれば。…結、頼んだよ。一発で、気絶させてね」
俺は、石付きロープ(即席モーニングスター?)を渡され、公園の一番暗い、ツツジの茂みの影に隠れた。 時刻は、深夜二時。春先の夜は、まだ肌寒い。 心臓の音が、自分の耳をおかしくなりそうだった。
美佳は、俺が隠れた茂みから少し離れた、街灯の死角になるベンチに座った。 「……じゃあ、そろそろ、呼ぶね」 「……おう」 俺は、石付きロープを強く握りしめた。美佳が、大きく息を吸い込む。
「……きゃあああああああああ!! 助けてえええええ!!」 美佳の絶叫が、静まり返った公園に響き渡る。 こいつ、劇団黒龍会にスカウトされるんじゃねえか? ってくらい、迫真の演技だった。
数秒の沈黙。…来ない。 「……(おかしいな。もう一回)」 「きゃあああ! 誰か! 痴漢です! ナイフ持ってます!」 美佳が、具体的なワードを追加した。 すると、遠くから、慌てた足音と、無線で何かを話す声が聞こえてきた。
「来た!」 「(……来た……!)」 俺は、石付きロープをさらに強く握りしめた。汗で手が滑る。 足音が、どんどん近づいてくる。
「大丈夫ですか!? どこですか!?」 若い男の声。懐中電灯の鋭い光が、あたりを薙ぐように照らす。 光が、ベンチに座り込む美佳を捉えた。
「君か! 大丈夫か!? 犯人は!?」 「あ、あの……あっちに……逃げていきました……!」 美佳が、俺が隠れている茂みとは、全く逆の方向を指差した。 警官は、美佳の誘導に完全に引っかかり、「そっちか!」と指差された方向に背中を向けた。
……今だ。今しかない。 俺は、茂みから飛び出した。 警官の、無防備な背中。 俺は、石付きロープを、大きく振りかぶり——
「……!」 …殴れなかった。 当たり前だ。人なんか、殴ったことない。ましてや、何も悪くない警官を。 俺の手は、振りかぶったまま、空中でピタリと止まっていた。
「……結!?」 俺の致命的な失敗に、美佳が叫ぶ。 その声に、警官がギョッとして振り返った。
「……君は!?」 警官と、俺の目が合う。俺の手には、明らかに武器である石付きロープ。
「……ち、違う……これは……その……」 「……武器!? 君たち、グルか!?」 警官が、腰のホルスターに手をかける。 まずい!
「やめて!」 美佳が、警官に飛びかかった。 懐に隠していた、あの『カラの銃』を、警官に突きつけていた。 「動くな! 動いたら、撃つ!」 「……! 銃!?」
警官は、美佳が突きつけたのが本物の銃(に見える)ことに驚き、動きを止めた。 「……おい、嬢ちゃん。早まるな。それを下ろせ。まずは話を聞くから」 「うるさい! 弾、全部よこせ! あと、あんたの銃も!」
美佳が、完全に強盗犯のセリフを言っている。 警官は、俺と美佳を交互に見て、ゆっくりと両手を上げた。 「……分かった。分かったから、落ち着け」 「結! 今のうちに、こいつの銃、奪って!」 「……お、おう!」
俺は、まだ石付きロープを持ったまま、恐る恐る警官に近づいた。 警官のホルスターに手を伸ばす。 その瞬間。
「……今だ!」 警官は、プロの動きだった。 俺の手を掴むと、そのまま体勢を崩させ、俺を人間の盾にするようにして美佳との距離を取った。
「ぐわっ!?」 「結!」 「銃を捨てろ! 早くしろ!」 警官は、俺の腕を背中に回し、完璧に関節技を決めていた。 痛い! マジで痛い! 腕が折れる!
「……いや! 結を離せ!」 「お前が銃を捨てれば、離してやる!」 「……く……!」 美佳は、カラの銃を構えたまま、俺と警官を睨みつけ、動けない。
「……いいか、嬢ちゃん。それが本物かオモチャかは知らんが、君たちが今やってることは、公務執行妨害と、強盗未遂だ。…もう、やめろ。高校生だろ。まだ間に合う」 「……うるさい!」 「それを下ろせば、俺も大事にはしない。な?」 「……うるさい、うるさい、うるさい!」
美佳が、パニックになっていた。まずい。こいつ、何するかわからない。
「美佳! もういい! 捨てろ! 捨ててくれ!」 「……だって、結!」 「もういいんだよ! 諦めよう! 俺、本当に腕折れる!」
俺が叫んだ、その時だった。 美佳の背後、公園の入り口から、別の懐中電灯のライトが差し込んだ。
「おい! 何してる!」 別の警官の声。 パトロールの増援か、あるいは通報で来たのか。 最悪だ。二人目。
「……!」 美佳が、増援の警官に気を取られた。 その一瞬の隙を、俺を押さえていた警官は見逃さなかった。
「うおおっ!」 警官は、俺を突き飛ばすようにして、美佳に猛然とタックルした。 ドサッ! 美佳と警官が、二人もつれ合って、地面に倒れ込んだ。 美佳が持っていたカラの銃が、カラン、と乾いた音を立ててアスファルトに転がる。
「……美佳!」 「……確保! 確保!」 後から来た警官が、俺に飛びかかってきて、地面に押さえつけた。 抵抗も、何もできなかった。
もつれ合っていた美佳と、最初の警官。 警官が、美佳の上からゆっくりと体を起こした。 「……くそ……。…おい、嬢ちゃん。大丈夫か?」
警官は、倒れた美佳に声をかけた。 だが、美佳は動かない。 「……おい?」 警官が、不思議そうな顔で、自分の手を見た。 その手が、ぬるり、と赤く濡れていた。 ……血?
「……え?」 警官が、ゆっくりと自分の腹部に目をやる。 そこには、さっきまで俺が持っていたはずの、『石付きロープ』が、深々と突き刺さっていた。
「…………あ」 どうやら、タックルした際、俺が手放したロープの上に、二人で倒れ込んでしまったらしかった。 石の、一番尖った部分が、運悪く、警官の腹に。
「……おい……。うそ、だろ……」 警官は、信じられないという顔で、自分の腹からロープを引き抜こうとした。 だが、力が入らない。 そのまま、美佳の横に、仰向けに倒れ込んだ。 「……ぐ……。あ……」 口から、ごぽり、と血の泡が漏れている。
俺を押さえつけていた警官が、その光景を見て、顔面蒼白になった。 「……おい! 佐藤! 佐藤!? しっかりしろ!」 無線で、絶叫している。 「応援! 応援! 佐藤が刺された! 救急車! 早く!」
俺は、手錠をかけられながら、そのすべてを、ただ、見ていた。 美佳が、ゆっくりと体を起こした。 その手には、血まみれの『石付きロープ』の代わりに、倒れた警官(佐藤さん)の手から離れた、本物の『銃』が握られていた。
「……あ……」 美佳は、その銃を見て、満足そうに、笑った。
……俺たちの計画は、最悪の『誤算』の末に、最悪の形で『成功』してしまった。
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