史上最高の恋愛入門 ~ガンジーでも助走つけて殴るレベルの彼女~
@sasak_isaki
序章:七輪と彼女と終末宣言
金曜日の放課後。
チャイムの音が、コンクリートの校舎に気だるく響き渡った。 その解放の合図とは裏腹に、俺、相沢 結(あいざわ ゆう)の気分は、春先の曇り空のように晴れなかった。
「じゃあな、結!また月曜!」 「おう。健太もな」
「結、部活は?今日休みだっけ?」 「ああ。顧問が出張で」 「そっか。じゃあ、カラオケ行く?駅前に新しいとこできたんだって」
前の席の真希が、スクールバッグを肩にかけながら振り返る。 その笑顔は、もうすぐ始まる春休みに向けてキラキラと輝いていた。
「悪い、今日はパス。ちょっと野暮用」 「えー、付き合い悪いー。まあいいや。じゃあね!」 「またな」
健太と真希、それに数人のクラスメイトたちが、賑やかな声と共に教室から出ていく。 ガヤガヤとした喧騒が廊下の向こうへ遠ざかっていくと、教室には嘘のような静寂が訪れた。
窓から差し込む西日が、宙に舞う埃を金色に照らし出している。 机の傷、壁のシミ、チョークの匂い。 昨日と何も変わらない、ありふれた放課後の風景。
別に友達がいないわけじゃない。 ただ、今日はたまたま用事が合わなかっただけ。 本当に、それだけのことだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、自分のカバンを掴んだ。 誰に言うでもなく「さて、帰るか」と呟いてみる。 返事はない。当たり前だ。
変わり映えのない、平和な金曜日。
駅までの道を、一人でとぼとぼと歩く。 イヤホンを耳に押し込むと、世界から余計な音が遮断された。 再生したのは、最近気に入っているインディーズバンドの曲。マイナーなバンドで、ボーカルの気だるそうな声が、今の気分に妙にマッチしていた。
『世界の終わりなんてさ、案外こんなもんかもね/昨日と同じ今日が、音もなく崩れるだけ』
そんな歌詞が、鼓膜を静かに揺らす。 大げさな歌詞だ、といつもなら鼻で笑うところだが、今日はなぜか、そのフレーズが心の隅に引っかかった。
そんな、ありふれた日常が、音を立てて崩れる予兆なんて、あるわけもなかった。
少なくとも、この十数秒後までは。
「……ん?」
駅前のバスロータリー。雑踏に紛れて、見慣れたシルエットが目に入った。 いや、見慣れた、というのは少し違う。 俺の通う高校のブレザーとは違う、隣町の女子高のセーラー服。 風にさらりと揺れる、艶やかな黒髪。
間違いない。黒川 美佳(くろかわ みか)だ。
あいつ、こんな所で何してんだ?
俺は足を止め、声をかけるべきか迷った。 幼馴染とはいえ、別の学校に通うようになってからは、こうして駅前で鉢合わせることもめっきり減っていた。最後にちゃんと話したのはいつだったか。半年前か、それとも一年近く前か。
ふと、小学生の頃の記憶が蘇る。
ドッジボールの試合中、調子に乗って前に出すぎた俺は、六年生の剛速球を顔面に食らって派手に吹き飛んだ。 鼻から熱いものが流れ出し、視界が滲む。 周りのクラスメイトたちが指をさして笑う中、一人だけ、コートの隅で仁王立ちしていた美佳が叫んだ。
「立て! 結! ダサい!」
そう言うなり、彼女は転がっていたボールを拾い、俺を笑った六年生の腹に見事なクリーンヒットを叩き込んだのだ。 そして、未だに立てずにいる俺の腕を乱暴に掴んで引き起こし、保健室まで引きずっていった。
「これくらいで泣くな」
ぶっきらぼうにそう言って、自分のポケットから無理やり取り出した、シワだらけのハンカチを俺の顔に押し付けた。
いつだってそうだ。 こいつは無茶苦茶で、乱暴で、人の話なんて聞きやしない。 でも、なぜかいつも、俺が一番困っている時に現れる。
そんなことを考えているうちに、俺の視線に気づいたのか、美佳がこちらを向いた。 そして、その両手に抱えているモノを見て、俺は思わず二度見した。
「……七輪?」
なんで?
制服姿の女子高生が、新品ピカピカの、やけに立派な箱に入った「七輪」を、大事そうに抱えている。 世界で一番ミスマッチな光景だった。
通行人が皆、奇妙なものを見る目で彼女を避けながら通り過ぎていく。 サラリーマン風の男がギョッとして振り返り、女子高生のグループが「あれすごくない?」「コスプレ?」と囁き合っているのが、イヤホンをしていても伝わってきた。 俺は、自分まで恥ずしくなって顔が熱くなるのを感じた。
美佳はスマホを耳に当てていたが、何か気に入らないことがあったのか、イライラした様子で乱暴に通話を切ると、俺の姿をはっきりと認識して、ぱあっと顔を輝かせた。 その表情は、小学生の頃と何も変わっていなかった。
「結!」
まずい、と思った時にはもう遅い。 美佳は、その大きな七輪の箱を抱えたまま、器用に人混みをすり抜け、まるで俺という目標にロックオンしたミサイルのように直進してくる。
「結! 探した!」 「……美佳。お前、そのカッコ……いや、その七輪はなんだよ。学校は?」 「あ、今日昼から病院だったから」
美佳はそう言うと、持っていた七輪の箱を「重い」と言わんばかりに、何の断りもなく俺の腕の中に押し付けてきた。 ずしり、とした生々しい重み。陶器と土でできているのだろう、見た目以上に重い。
「ちょっ、なんだよこれ!」 「その帰り。買った」 「なんで病院帰りに七輪買うんだよ!?」 「ん? 使うから」
美佳はあっけらかんと言った。 相変わらず、会話のキャッチボールが成立しない。俺が彼女に投げたボールは、常に予測不能な角度で宇宙の彼方に打ち返される。
「それより結。ちょっといい?」 「ああ? いいけど……って、これ(七輪)はどうすんだよ」 「持ってて。大事な話」
美佳は俺の制服の袖を掴むと、周囲の雑踏など気にも留めず、まっすぐに俺の目を見た。 その真剣な眼差しに、俺はゴクリと唾を飲む。
そして、彼女はまったく隠す気のない、普通の声量で、こう言った。
「私、死ぬわ」
「…………は?」
時が止まった。 いや、世界は普段通り動いている。 バスの発車を告げるアナウンス。客引きの呼び込みの声。高校生たちの笑い声。 イヤホンから流れる、気だるいボーカルの声。 全てが聞こえているのに、全てが遠い。
俺の世界だけがフリーズし、美佳の言葉だけが、頭の中で何度も何度もリピートされた。
「だから、死ぬの」 「……いや、何が?」 「え、だから、私が。病院行たら言われた。『めちゃくちゃ痛くなって死ぬ』って」
セミの声はもう聞こえない季節だというのに、俺は確かに、脳内でけたたましく鳴り響く幻聴を聞いた気がした。 目の前の美佳は、至って真面目な顔をしている。冗談を言っている時の、意地悪く細められた目じゃない。 ただ、事実を告げるための、静かな目をしていた。
「……お前、疲れてんのか? とりあえず、その七輪のせいで頭おかしくなったとか……」 「違う。だからさ、どうせ痛くて死ぬなら、その前に楽に死のうと思って」 「……うん?」 「でも、痛い死に方とか面倒なのは嫌じゃん?」 「……まあ?」
話がまったく見えない。 俺が、腕に食い込む七輪の重さに耐えながら必死に思考を巡らせていると、美佳はニヤリと、いつもの悪戯っぽい顔で笑った。
ああ、その顔だ。俺が知っている黒川美佳は、その顔をする。
「結。手伝え」
ほら、始まった。 黒川 美佳の、人生で最後になるであろう、とんでもない無茶振りが。 (※「無cha振り」→「無茶振り」に修正しました)
そして俺、相沢 結は、金曜日の放課後、駅前のど真ん中で、腕に七輪を抱えたまま、ヒロインの「自殺計画」の共犯に任命されたのだった。
イヤホンからは、まだあの曲が流れていた。 『昨日と同じ今日が、音もなく崩れるだけ』
大げさな歌詞だと思っていた。 だが、今この瞬間、俺の日常は確かに、派手な爆発音も無く、静かに、しかし決定的に崩れ落ちていく音を立てていた。
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