第1章

​「マルコ。お願いがあります」

​虐げられ続けた少女の目が、初めて強い光を宿して彼を見つめた。

​「私を、その公爵様の元へ連れて行ってください」

​マルコは一瞬、シエラの顔に宿った異様な光に気圧されたが、すぐに侮蔑を込めた笑みを浮かべた。

​「何を戯言を。侯爵様がお前のような役立たずを連れて行くわけがないだろう。それ以前に、あの方の傷は本物の聖女でなければ治せない。お前のその地味な治癒魔法ごときで、あの『氷の公爵』の命を救えるとでも?」

​「治せます」

​シエラは迷いなく断言した。疲労と空腹で痩せ細った身体の奥底から、強い意志が湧き上がる。

​「あの公爵様の傷は、古の呪詛に由来します。義妹のリリア様が持つような光の魔力では、傷を焼くだけで治癒はできません。私の【回復】の魔力こそが、傷口に付着した呪詛を中和し、肉体そのものの生命力を引き出して治す唯一の手段です」

​彼女の言葉は論理的で淀みがなかった。転生者であるシエラは、この世界の魔法体系に関する知識を前世の小説から得ていた。

​マルコが戸惑いの色を見せた次の瞬間、ドタドタという足音と共に、シエラの義母である侯爵夫人と、侯爵家の宝である義妹、リリアが部屋に入ってきた。リリアの顔には、聖女らしからぬ明確な焦りが浮かんでいた。

​「シエラ、何を言っているの! 公爵様の傷は、わたくしが治すことになっているのよ!」

​リリアは派手な光を放つ治癒魔法の使い手として、王宮でも持て囃されている。だが、呪詛のような特殊な傷には彼女の魔力は効果がないことを、王宮の治癒師たちは知っていた。そのため、王宮はすでに国内中の治癒魔法使いを招集しているという噂だった。

​「リリア様、落ち着いてください。貴女の治癒魔法が最上であることは、皆が知っています」侯爵夫人がリリアを慰めつつ、シエラを睨みつけた。「この薄汚い娘が、あなた様の功績に泥を塗ろうとしているだけよ」

​シエラは頭を下げたまま、静かに続けた。

​「泥を塗るつもりはありません。ただ、これは取引です。もし私の治癒が成功すれば、私は侯爵家から自由になる権利をいただきたい。そして、二度と私に手を出すことも口を出すことも許さない」

​公爵の命という人質を取ったシエラに対し、侯爵夫妻は顔色を変えた。公爵を治癒できれば、侯爵家は王家から巨額の報酬と爵位の名誉を得られる。しかし、失敗すれば公爵家からの報復は免れない。そして、リリアの魔力では治せないことは、既に侯爵夫妻も薄々気づいていたのだ。

​侯爵夫人は一瞬の逡巡の後、シエラを睨みつけながら唇を歪めた。

​「よかろう。だが、万が一治せなかった場合は、ただの大嘘つきとして、公爵家へ突き出し、代わりに侯爵家への賠償金を生涯かけて払ってもらうわ」

​「受け入れます」

​シエラは即座に答えた。これで道は開けた。

​その日の午後。シエラは侯爵夫妻の監視のもと、王都の奥深くにある公爵邸へと馬車で向かった。

​(侯爵家の人々は、私が公爵様を治せないことに賭けている。そして、治せなければ私は地獄へ落ちる。だけど――)

​握りしめた手に、わずかな魔力が宿る。

​(私は知っている。公爵様を治せるのは私だけ。そして、この瞬間こそが、私を虐げた者たちすべてへの、終わりの始まりだと)

​馬車の窓から見えたのは、荘厳な石造りの門。その奥に佇む建物は、噂の通り、氷の公爵の名の通り、冷たく、厳粛な雰囲気を纏っていた。

​シエラは、人生で初めて、自らの意志で地獄から天国へと続く扉を叩こうとしていた。

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