第2章 第24話 『白の図書館 序:欠番司書(ナンバー・ゼロ)』

風は匂いを持たないのに、紙のこすれる音だけが微かに聴こえた。白の図書館は、世界の果てでも中心でもなく、ただ「記録の外側」に綻びた余白に建っている。天井はない。棚は空に向かって伸び、背表紙のない本が雪片のように並んでいた。


 新人司書のナユタは、朝の点検をしていた。といっても、本の数を数えることはできない。ここにある本のほとんどは、まだ“本になる前の可能性”で、触れれば頁が増え、目を逸らせば目次ごと消えてしまう。だから点検は、数ではなく「呼吸」を確かめる作業だった。


 彼は棚の間に耳を澄ませた。――かすかな息。未読の本は、読まれたいとも、読みたくないとも言わない。ただ、呼吸する。その呼吸の乱れを、司書は直す。乱れが続けば、本は「欠番」になる。図書館の記録に載らない本。存在しているのに、数えられないもの。


 その朝、北列三段目の奥で、はっきりとした乱れがあった。ナユタが近づくと、白い背の隙間に、薄い影が立っていた。背のない本のあいだに人影――いや、本の形をした人、という方が正確だった。


 「……あなたは?」

 影は首をかしげ、少しだけ笑ったように見えた。声は出ない。代わりに、彼の胸の前に一枚のカードが浮かぶ。『欠番司書 Ø(ゼロ)』。


 司書。ここで「欠番」とは、数えられないものの番をする者、という意味だ。ゼロは、棚から一冊――表紙すら持たない真っ白な束をそっと引き抜くと、ナユタに差し出した。束は軽いのに、腕に乗せると微かな熱を帯びる。


 「壊れているのか?」

 ゼロは首を横に振る。カードが二枚目を示す。『壊れていない/ただ、読み手がまだ来ていない』。

 「でも、呼吸が乱れている。」

 『呼吸は、呼び声に似ている』


 ナユタは、束の中央に指を差し入れた。頁はまだない。けれど、紙のような何かが彼の指の熱に応えて、柔らかな抵抗を見せた。彼はその抵抗を「不安」と訳し、深く息を吸ってから、図書館の古い作法を思い出す。


 ――読む前に、座る。


 通路に折りたたみ椅子を置き、束を膝にのせる。声にしない声で、最初の一文の「手前」をなぞる。図書館では、これを“同席”と呼ぶ。読むより前に、同じ空気を吸うための儀式。


 ゼロが隣に座った。影のような身体が、紙でできた衣擦れの音を立てる。彼は指で空中に線を引いた。線は目に見えない「栞」になって、束の端へふわりと落ちる。


 ナユタは小さく頷き、束に囁いた。「――ぼくは、まだあなたを読まない。でも、ここにいる。」

 そのとき、束はわずかに重くなった。重さは、不安の形を変えた証拠だ。読まれない恐れが、読まれる前の安堵へと置き換わる。


 ぽつ、と遠くで音がした。図書館の中央広間――大時計の下で、誰かが背のない本を落としたのだ。ナユタとゼロは顔を見合わせ、同時に立ち上がる。北列の乱れは落ち着いた。新しい乱れが、中央に生まれている。


 広間へ出ると、天井のない空に、淡い青が混じっていた。いつかどこかで見たことのある青。誰かが昔、ここに残していった色。時計の下には、本を抱えた旅人がひとり、膝をついていた。旅人の指は紙粉で汚れ、息は荒い。抱えた本は――白くて、少しだけ青を帯びている。


 「たすけてくれ。」旅人がかすれ声で言う。「この本が、読むたびに“次”を見せる。終わらない。終わらせ方が分からない。」

 ナユタは目を細めた。終わらない本。未完ではない。読まれる限り続く本。彼の教育の中で、ただ一度だけ聞いたことがある。伝説の分類記号。――〈青の屋敷〉。


 ゼロが旅人の肘を支え、椅子へ導く。カードがまた浮かぶ。『終わりは、読者の側にある』。旅人は首を振る。「おれの側に“終わらせる言葉”が、どこにも見つからない。」

 ナユタは旅人の本に触れた。熱は低いが、呼吸は深い。青い色は、記憶の温度だ。彼は慎重に本の端をめくろうとし、すぐにやめた。――ここでは、決して勝手にめくらない。めくるのは、いつだって本の側だ。


 「終わらせたくないのかもしれない。」ナユタは呟いた。「君が。」

 旅人は顔を上げる。瞳の奥で何かが揺れ、やがて苦笑が滲む。「……かもしれない。」


 ゼロは本の上に手をかざした。影の掌から、細い白い文字が降りる。『終わらないことは、祈りに似る』。文字は紙面に着く前に消え、代わりに本の青がわずかに明るくなった。


 「ここは“記録の外”。」ナユタは旅人に向き直る。「だから、ぼくたちは記録しない。――同席する。」

 彼は椅子をもう一脚取り出し、旅人の隣に置いた。ゼロも反対側へ座る。三人が囲むようにして、本は静かに横たわった。


 しばらくして、旅人が深く息を吐いた。「……すこし、楽になった。」

 ナユタは微笑む。「なら、次の段取りだ。君が出す合図で、ぼくらは“読むふり”をする。」

 「読む、ふり?」

 「読みたい気持ちを、言葉にしないまま、空気だけ本へ送る。すると本は自分でめくる。――めくったら、ぼくらは目を閉じる。」

 旅人は笑った。「ずいぶんと、読書に向かない作法だ。」

 「ここでは、それが礼儀なんだ。」


 三人は呼吸を揃えた。時計の針がないのに、刻む音だけが遠くでした。旅人が小さく頷く。ナユタとゼロは目を閉じ――その瞬間、紙の音がした。頁が、一枚だけ、自らめくれる音。


 光が瞼の裏を滑った。見ないまま、ナユタは確かに「文」を感じた。具体的な名詞や動詞ではなく、温度、湿度、誰かの指の重み、空気のゆれ、胸の奥の“在る”。本はその頁で、何かを言った。終わらせないまま、続ける術を。


 目を開けると、旅人は泣いていた。声は出ない。けれど、涙の落ちる速度が、たしかに「納得」のリズムを刻んでいる。彼は本を抱きしめ、ゆっくりと立ち上がった。

 「……行くよ。続きは、ぼくが読む。」

 「いつでも戻っておいで。」ナユタは微笑む。「終わらせたくなったら、ゼロが“終わらないままの終わり方”を教えてくれる。」

 ゼロが静かに頷く。カードが最後の一枚を示した。『終わりは、席を空ける合図』。


 旅人が去ると、広間はいつもの静けさを取り戻した。空の高みに白が流れ、棚の本たちは穏やかな呼吸へ戻っていく。ナユタは膝の上の空気を両手で押さえ、ふと隣を見る。

 「君は、どこから来た?」

 ゼロは答えない。代わりに、ほんの一瞬だけ、青い光が彼の輪郭に走った。


 その青は、どこかで見た。誰もが一度は読んだことのある、あの物語の残響。ナユタは胸の奥に、その青をしまい込む。今は問わない。ここは記録の外。問いは、いつでも後で読める。


 点検は、まだ終わっていない。ナユタは棚の呼吸へ戻り、ゼロは影のままその背を見守った。白の図書館は今日も、数えられないものの息を整え、読まれないまま在るものたちに椅子を置き続ける。


 そして、誰にも読まれなかった記録の片隅に、小さな見出しだけが増えた。

 〈欠番司書 Ø、在職を開始す〉

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