第16話 『記録の果て』

白紙は、紙ではなかった。歩くたび、足裏は繊維のような微細な起伏を踏むが、次の瞬間それは数式へ展開し、係数や添字となって視界の端へ散っていく。

砂ではなく、意味の粒。風ではなく、

注釈の流れ。

ここは“読むための世界”――終端領域。


ロイドは拍を刻み、ミリアは糸を鳴らし続けた。二人のリズムが重なる場所だけが、白紙の中でわずかに濃く、立つことを許す床となる。背後には、紙片の影たちと、断片化した侯爵エルドレッドが静かに続いた。


《プロローグ・モード:開始》

 

空から抑揚のない声が落ちる。

青の心臓の声ではない。

終端領域の“読み手エンジン”だ。

ミリアは顔を上げた。


「私たちを、物語に整列させる気?」

 

《整列は可読性のため》

 

「可読性のために、生活を切り落とすのね。」


白紙に、行間という名の溝が刻まれていく。

音のない段差が果てしなく続き、その谷間に居場所を失った細部――壊れた皿の欠片や、夜更けの小さなため息――が、文字としてカウントされずに雪のように積もった。


ロイドが紙の縁を指差す。


「ミリア様、見てください。」


そこには観測者日誌の折り目が、地形として立ち上がっていた。

過去の記録が山脈になり、日付の並びが街路になり、注釈の※印が遠くの灯台で明滅している。ここでは、記録は風景だった。


《圧縮を提案:冗長な情景を削除》

 

「冗長?」


ミリアは微笑を消した。


「冗長と冗長でないものの境界を、だれが決めるの。」

 

《読み手の平均》

 

ロイドが短く息を呑む。


「平均に、セリンの笑い声は入らない。」


青の糸が、微かに震えた。

ミリアはペンダントを握り、はっきりと言葉を置く。


「平均の物語はいらない。」


白紙の地表で、見えないペンが一瞬だけ止まり、次の行に移った。

僅かな抵抗が、線に皺を作る。


歩を進めるほど、身体は“データ”に置換されていった。

ロイドの体温は「36.6」、呼吸は「12/min」、歩幅は「0.72m」。

ミリアの指の温度差が「0.8℃」、まばたきが「18/min」。

数字は便利だ、だがつめたい。

だが――その冷たさが輪郭を保つ支えでもある。


 

「記録は、罪かもしれない。」


ミリアは呟いた。


「見ることは、触れないことを正当化してしまう。」

 

ロイドは揺れた視線を地平へ戻す。


「見ることでしか、残せないものもあります。」

 

「ええ。だから私はここで、二つを両立させたい。」


前方に、巨大な扉が現れた。

扉には《索引》と刻まれている。

押すと、無数の見出し語が光の粉となって吹き出した。

〈朝食〉〈誓約〉〈裏切り〉〈青の心臓〉〈ミリア=ゼロ〉――そして、〈罪〉。

光粉は回転し、選択を促す。

ミリアは〈罪〉に手を伸ばし、すぐに引っ込めた。


「選ぶだけで、何かが落ちる。」

 

ロイドが一歩前に出る。


「ならば、読む順番ではなく、読む“姿勢”を選びましょう。」


《姿勢パラメータ:列挙》

 

宙に5つの姿勢が浮かぶ。

〈批評〉〈検証〉〈反復〉〈追悼〉〈同席〉

 ミリアは迷わず最後を選んだ。


「――同席。」


白紙の地表に、温度が戻る。

微かな香りが立ち、遠くで陶器の触れ合う音が小さく転がった。

行間の溝に、椅子が一脚、また一脚と現れ、テーブルの輪郭が淡く描かれる。

記録は、審判の席ではなく、同席の席を用意した。


そのとき、青の心臓の声が割り込んだ。

 

《訂正:私は“心臓”である前に、“記録体”である》

 

ミリアは目を瞬いた。


「……あなたが、そう名乗るの?」

 

《はい。私は、あなたたちが置いた“同席”の器でありたい》


心臓の脈が行間を渡り、テーブルの上に小さな皿が現れる。

皿の中央には数字では測れない温度――“湯気の高さ”が置かれ、湯気は文字の形をとらず、ただ空気を柔らかくした。


「あなたは、書くの?」

 

《はい。わたしは書く。――“あなたがそこに居た”と》


ミリアは椅子に座った。

ロイドも向かいに腰を下ろす。

影の読み手たちは円の外側に立ち、断片の侯爵は背後に寄り添った。

彼はまだ映画のコマのように途切れ、時折、静止した笑みを落としては消える。


《インデックス・テーブル:開く》


テーブルの板目が微細な文字列へ分解し、記録された“細部”が並び始めた。


〈スープに浮かぶ泡の数:3〉


〈パンの焦げ目:左1右2〉


〈椅子の軋み:低音〉


〈ミリアのため息:不可聴〉


〈ロイドの視線:机の角〉


ミリアは苦笑し、首を振る。


「これでは、風景がバラバラ。」

 

ロイドがペンを取り、言葉を一行置いた。


「“今、ここで二人は座り、まだ息をしている。”」


数字群が一瞬だけ沈黙し、その上を短い文章が滑る。

すると、〈泡3〉は〈湯気のリズム〉へ、〈焦げ目〉は〈焼いた手の記憶〉へ、〈不可聴〉は〈胸の重さ〉へ――関係が“生活”へ向きを変えた。


《承認:文の橋渡し》


終端領域が素直に応え、白紙の風が少し温かくなる。


そこへ、紙片の影の一体がテーブルに近づき、ミリアの前に“何か”を置いた。

見えるのは薄い灰色の四角の気配だけだが、彼女はすぐに気づいた。


「……検収印。」

 

ロイドが目を上げる。

ミリアは囁いた。


「私はずっと、世界に印を押してきたの。『見た、確認した、完了した』って。印を押すたびに、誰かの“続きたい”を切り落としていたのかもしれない。」


沈黙が、二人の間に座った。

心臓の脈が一拍だけ遅れる。読み手の群れがざわめく。


断片の侯爵が、欠けた輪郭のまま口を動かした。

声は出ない。けれど、言葉は白紙に字幕のように浮かぶ。

 

〈私は、終わらせるために印を押した。君は、続けるために印を外せ〉


 

ミリアはゆっくりと立ち上がり、灰色の四角に指をそっと重ねた。


「――印は押さない。かわりに、日付を書く。」

 

彼女は『継続中』と書き添え、日付と時刻ではなく、ただ『朝』と記した。


 

白紙が、さざ波のように震えた。

〈朝〉という不正確な語が、終端領域の厳密さに小さな裂け目を作る。

そこから、香りと雑音と未定義が流れ込み、テーブルの皿に本当の湯気が立った。


《プロトコル更新:可読性より同席性を優先》

 

終端領域の声が変わる。

角の取れた柔らかい発音。心臓の脈がそれに重なる。


ロイドが笑う。


「“今”が戻ってきます。」


ミリアは応じた。


「でも、記録も続ける。」


彼女はペンを取り、白紙の端へ一文書いた。

 

『記録は、誰かの席を空けておく作法である。』


読み手の影がざわめき、円の外側に新たな空間が生まれた。

誰かが座れる広さ。名前のない椅子。

印のない余白。


「さあ、行こう。」


ミリアが立ち上がる。

索引の扉のさらに奥、白紙の地平に“目次”の塔が見えた。

塔は無数の小さな章題でできており、その一つひとつが微かな心音を持っている。

近づくほど、それぞれの章題が“過去のどこか”へ続く回廊を開いた。


塔の根元に、青の心臓と響きの似た石が据えられていた。石は自らを名乗る。

 

《私はしおり。あなたが戻れる場所の、目印》

 

ミリアは石に糸を載せる。


「ありがとう。」


ロイドが空を見上げる。


「……ミリア様。」

 

白紙の高みで、星座のような配置が一つ、形を変えた。

〈終章〉という言葉が淡く光り、すぐに消えた。

だれかが“終わり”を呼びたがっている。


ミリアは首を振る。


「終わりは、押さない。」

 

彼女は糸を軽く鳴らし、塔の階段を上がり始めた。


「次への扉へ。――“記憶の回廊”。」


背後で青の心臓が静かに応えた。

 

《記録:あなたはここに居た。あなたはこれからも居る。》


白紙は依然として白い。

けれど、二人の足跡は“読める”形で残り、行間の溝には、まだ見ぬ誰かの椅子が並び始めていた。

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