第8話 『揺らぐ信念』
廃都の上層、崩れかけた回廊の一角。
風が吹き抜け、瓦礫の隙間から淡い陽光が差し込む。
ミリア、ロイド、そしてセリンは、崩れた壁の陰に身を潜めていた。
外では“再構成者”たちの巡回の足音が響く。だが、三人は息を潜め、誰も言葉を発さなかった。
「……静かね。」
ミリアが小声で呟く。
セリンは膝を抱え、額に汗を浮かべていた。
「この時間帯、彼らは上層の制御塔で点検をしている。今なら少しだけ安全。」
ロイドは崩れた壁越しに外を見張っていた。
視線は冷静だが、その指は常に剣の柄を握っている。
「警戒を解くな。儀式の準備が進んでいる。あの黒の中枢が完全に動けば、もう手は出せない。」
ミリアは頷き、空を仰いだ。灰色の雲が低く流れている。
「セリン。」
彼女は小さく首を傾けた。
「あなたは、まだ“再構成”を信じているの?」
セリンは少しの間、口を開かなかった。
やがて、震える声で答えた。
「信じたい。でも……見たの。黒の中枢の中で、記憶が“選ばれて”消えていくのを。痛みを消すために、笑い声まで削られていった。」
ミリアは黙って聞いていた。
セリンの指先が、焦げた床の跡をなぞる。
「母の声が、もう思い出せないの。優しい顔も。なのに、“幸せだった記録”だけが整然と残っている。」
「それは、あなたの“幸せ”を定義し直した結果。」ミリアの言葉は静かだった。「でも、それはもう“あなた”のものじゃない。」
セリンは俯いたまま、唇を噛んだ。
「あなたは設計者だったんでしょう? なぜ最初から、こんな世界を造ったの?」
ミリアは一瞬、答えを失った。
ロイドがその沈黙を補うように口を開いた。
「ミリア様は“完全”を望んでいなかった。だが、当時の評議会は“再現可能な幸福”を設計方針に据えた。それが最初の誤りだった。」
「再現可能な幸福……。」
セリンが呟く。
「ええ。」
ミリアは頷く。
「誰かが笑えば、他の誰かも同じ条件で笑えるように。痛みの差異を無くすための設計。でも、それは“世界を均す”ことだった。」
風が通り抜け、瓦礫の間に残る青い花が揺れた。
ミリアはその花を見つめる。
「花は、同じ形をしても、ひとつひとつ色が違う。それを均一にすれば、美しい庭になるけれど……それは、死んだ庭でもあるの。」
沈黙。
セリンの瞳がわずかに潤む。
「……私たちは、死んだ庭に住んでいたのね。」
ロイドが立ち上がる。
「動こう。ここも長くはもたない。」
彼は瓦礫の隙間から通路を確認し、手信号を送った。
ミリアが先に立ち、セリンが続く。
廃都の上層を抜けると、そこには巨大な空洞があった。
かつて中央広場だった場所。
今は崩壊し、宙に浮かぶ断片だけが残っている。
浮遊する石橋、回転する街路。空間そのものがひずみ、上下の感覚すら失われていた。
「これは……」
セリンが息を呑む。
「世界の“縫い目”よ。」
ミリアが答える。
「再構成者たちは、この断層を足場にして新しい秩序を織っている。」
彼らは浮遊する道を慎重に進む。
だが途中で、遠くから光弾が飛来した。
「伏せて!」
ロイドが叫び、三人は石の影に身を隠す。
崩れた柱の向こうに、数名の黒衣の兵が見えた。
「捕獲対象、設計者を確認!」
「来たか……。」
ロイドが剣を抜く。
青い光が閃き、空気が震える。
ミリアは手をかざし、青の紋章を空間に展開した。
「防御層を張る!」
光弾が防壁にぶつかり、霧のように散る。
だが数が多い。包囲されれば終わりだった。
セリンが叫ぶ。
「あの奥の塔、避難用の昇降核がある!」
ミリアが頷く。
「走るわよ!」
ロイドが先頭に立ち、剣で敵の進路を断ち切る。
青と黒の火花が散り、回路の音が空気を震わせた。
塔の内部へ飛び込むと、古い昇降核がまだ微かに作動していた。
ロイドが制御盤を叩き、セリンが配線を切り替える。
「動く?」
「保証はできない。」
「それでもいい!」
昇降核が唸りを上げ、ゆっくりと上昇を始めた。
下では黒衣の兵が追いかけてくる。
「閉鎖!」
ロイドが叫び、青の光線で扉を封じた。
数秒後、爆発音と共に塔の下部が崩れ落ちる。
ミリアは息を荒げながら、セリンの肩を支えた。
「大丈夫?」
「ええ……でも、怖い。信じていた世界が、全部壊れていく。」
「壊れてもいいの。」
ミリアは優しく言った。
「壊れたあとに、もう一度“選べる”から。」
昇降核の窓から、廃都の全景が見えた。
黒い回路が都市全体を覆い、ところどころに青の光がまだ点在している。
それはまるで、死の海に浮かぶ小さな命の灯火のようだった。
セリンがその光を見て呟く。
「この青……もしかして、あなたの?」
「ええ。屋敷とつながっている。青の心臓が、まだ“観測”を続けているの。」
「観測って、何のために?」
「“消えたはずの痛み”を、記録するために。」
セリンはその言葉を噛み締めるように繰り返した。
「消えたはずの痛み……を、記録する。」
昇降核が止まる。
最上層――廃都の頂上。
そこには風に削られた石の祭壇があった。
ミリアはゆっくりと歩み寄り、石の上に手を置いた。
「ここが“黒の中枢”への最終アクセス層。」
ロイドが剣を構える。
「侯爵が待っている。」
ミリアは頷き、振り返って二人を見た。
「どんな結果になっても、もう逃げない。」
セリンが小さく笑った。
「じゃあ、私も逃げない。」
彼らの後ろで、遠雷のような音が響いた。
“再構成”の儀式が始まろうとしている――。
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