延線計画
条約締結からほどなくして。
午後三時。ノーラン侯領・冬の館。
外では雪が横殴りに吹きつけ、窓硝子が低く鳴っていた。
机の上には北方を走る一本の赤い線――《北縁連絡鉄道》。
その終点には、小さく“ティレナ避行ルート”の文字がある。
「――ティレナを通さない、だと?」
ノーラン侯の声は雪より冷たかった。
「中立地を避けて線を引くなど、燃料と人命の無駄だ。地形も悪い」
対面の日本政府代表・黒瀬は、静かに書類を整える。
その横顔は火のように沈着だが、侯の言葉に“村が燃える”という一節がふれた瞬間、黒瀬のまつげがわずかに震え、目が伏せられた。
「……それでも、必要です。あの街はもう国家の領分ではありません」
侯は鼻を鳴らす。
「国家の領分、か……。お前たちの“民間防衛組織”――《ティレナ護衛協会》。あれは実質、軍隊ではないのか?」
黒瀬は軽く笑った。
「形式上は“商業護衛ギルド”です。契約上の管理責任はノーラン侯領に属します」
侯は椅子を軋ませながら窓へ目を向けた。
雪の向こう、白桜の旗を掲げた護衛車両が動いている。
そのさらに奥。
吹雪の裂け目のように、黒い旗が揺れた。
《フリークロス》。
黒旗の下で、白桜を睨むように馬を駆る影がある――
その中には、かつて日本兵だったはずの若者の姿も混じっていた。
しかし、その目にかつて同じ旗を背負っていた頃の光はなかった。
侯は吐息まじりに呟く。
「……つまり、軍服を脱いだ兵を送り込んでいるだけだ」
「違います」
黒瀬は静かに返す。
「彼らは契約冒険者です。現地人と共に働き、生活しています」
侯は苦笑し、黒瀬を見た。
「“生活”か。銃と魔導符で飯を食う暮らしを、生活と呼べるのか?」
黒瀬は答えず、一瞬だけ拳を握った。
僅かな沈黙。
その間だけ、黒瀬は“国家”ではなく“一人の人間”に戻っていた。
「……少なくとも、戦争よりはましです」
その目は、雪を照らす薪火のように揺らいでいた。
やがて侯は話題を変える。
「……“フリークロス”を知っているな」
黒瀬は頷く。
「はい。盗賊団――と呼ぶには組織的すぎる。元傭兵、退役兵、日本から流れた自由志向者……“旗を越える者たち”。理想を掲げて略奪する者ども、ですね」
侯は地図をなぞった。
その指の先には、黒旗の影がたむろする“無国籍地帯”。
彼らが冬に飢えれば、村が燃える。
彼らが怒れば、鉄路が消える。
「この鉄道を通すなら、彼らの領域を横断する。我が領地ではすでに不文の条約を結んでいる。“奴らの存在を見逃すかわりに、我が領の村は襲わない”――というものだ」
黒瀬は目を細めた。
「盗賊と、条約を?」
「愚かに見えるか?」侯の声が少し荒れる。
「だが彼らは“秩序の残骸”の上に生きている。彼らを無視すれば、村が燃え、子供が消える。冬の怒りとは、そういうものだ」
黒瀬は黙り、口を引き結んだ。
侯は続ける。
「鉄道を通すなら、農村や街道の警備を誰が担う? 報復が始まれば、線も民も持たん。“国家の道”を通すなら、“無国籍の怒り”の保証をどうするつもりだ?」
黒瀬は深い呼吸をひとつ置き、答えた。
「……条約の枠外に、もう一つ協定を置きましょう。護衛ギルドが現地契約者を雇い、地元警備を兼ねる。報復行為には迅速な補償を――民への再建金を設けます」
侯は苦い笑みを浮かべた。
「補償金で血が消えると思うか」
黒瀬は目を伏せたまま言う。
「……思いません。ですが、それが秩序の形式です。我々は、理想ではなく“手続き”で平和を買う国ですから」
※
黒瀬が去った後、館は静寂に沈んだ。
ノーラン侯は椅子に深く沈み、天井を見上げる。
「……早期開通など、誰も期待しておらんさ。日本もだ。あれは“形だけの前進”だ」
側に立つ執事クレマンが、静かに目を伏せる。
「地方貴族や分離派からの圧力も……増えるでしょうな」
侯は苦笑した。
「ああ。あいつらは古い地図で世界を測りたがる」
クレマンは――主の背を支えるように、低く言った。
「……侯爵様。ノーラン家は、千年の雪を耐え、七度の王朝を見送りました。領地が揺れるのは、いまに始まったことではありません」
その声には、古い血統の底冷えする誇りがあった。
侯は目を閉じた。
「……守れるだろうか。村を。若い兵を。この領地という形すら」
「守れますとも」
クレマンは静かに微笑む。
「侯爵様は、雪に背を向けられるお方ではない」
窓の外。
白桜の旗と黒旗が、雪煙の中で揺れていた。
どちらの旗も、この国の色ではなかった。
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