姉妹、サロンにて
香炉の煙が薄紫の層を描きながら、静かに天井へ溶けていく。
ステンドグラスを透かした夕陽は、ワインのような赤を床にこぼした。
ここは王都でも限られた者しか入れぬ私設サロン――《ノウムの庭》。
昼の議会で交わされた怒声の残響が、まだ耳の奥にわずかに揺れていた。
イリア=ヴェル=オルディアは頬杖をつき、グラスをゆるやかに回しながら吐息のように言う。
「……結局、ルメルシエ公は“見守る”の一言だけ。あの沈黙、戦略よりも厄介ね」
対面の席。ティーカップを傾けるクラリーチェ・フォン・オルディアが首を傾げた。
「つまり、どちらの陣営にも加担できる――ということですの?」
「いいえ。“どちらが勝っても損をしないように動く”のよ。戦場に帳簿を置く家だもの」
イリアは微笑した。
「政治的には敵にできず、味方にしても動かない。――最も退屈で、最も強いわ」
クラリーチェは小さく息をつく。
「姉上の演説も見事でしたけれど……また敵を増やしましたわね」
「敵なんて、情熱の燃料よ」
イリアは笑いながら机の上の積んだ書物を指先で弾いた。
そこには、地球から輸入された書籍と円盤。背表紙には、この世界ではまだ音すら馴染まぬ文字列――
“ユリ”、“ビーエル”、“オタク文化論”。
「友情と恋の境界を、こんなにも柔らかく描けるなんて……。この文化、戦よりも人を動かすわ」
クラリーチェはため息を落とした。
「また日本の“文化研究”でいらっしゃいますの? 政治サロンのはずが、趣味の集会みたいですわ」
「文化外交よ」
イリアは顔を上げずに、涼しく言い切った。
「日本の官僚たちは、“萌え”を語ると本気で打ち解けるの。萌えの理解なくして、これからの外交官は務まらないわ!」
イリアは勢いのまま立ち上がり、窓のカーテンを開け放つ。
香水とインクの匂いが夕風に溶け、サロンの空気が一段軽くなった。
「それにね、屋敷のメイド服も改革するつもり。スカート丈をあと十五センチ――」
「……姉上」
クラリーチェの咳払いが鋭く響く。
「理想の共有と民心の動揺は紙一重ですわ」
「でも日本では皆そうなのよ? 動きやすくて、視覚的にも――」
「“視覚的”の部分が問題ですの」
「あなたは真面目ね。だから安心して暴走できるのよ、私は」
イリアが紅茶を注ぎ直し、クラリーチェは呆れ顔のまま本を一冊手に取った。
「“ファビウス”という将、面白いですわね。“遅滞戦略”……敵の焦燥を利用して勝つなんて」
「読んでくれたのね!」
「理にかなっています。魔王軍にも応用できそうですわ」
クラリーチェの瞳がわずかに光る。
「けれど、戦略とは理性で情熱を制御する術。感情で進む軍は、美しくとも脆い。……詩のような戦いは、少し怖いのです」
イリアは唇に笑みを乗せた。
「ほんとに私と正反対ね。私の“火”を、あなたの“水”が支えてくれる」
「理性は戦場の最後の防衛線ですもの。姉上の情熱が“補給切れ”を起こさぬように見張るのが、わたくしの務めですわ」
二人の間に、紅茶の香りが静かに漂う。
イリアはからかうように目を細めた。
「それでも、“恋の戦略”には興味ないの? ハンニバルみたいに、情熱で理性を包む戦い方」
「……恋ではありませんわ。尊敬ですの」
クラリーチェは頬をわずかに染め、視線を逸らす。
「ただ、“恋”を執着と定義するなら――論理的には、否定しきれませんわね」
イリアが柔らかく笑った。
「ふふ、可愛い妹」
「分析対象にされるのは苦手ですわ」
「あなたを見ていると安心するの。火薬と理性の、危うくも美しい均衡」
二人は杯を傾け、夜が始まる。
奥の使用人たちが囁きあった。
「イリア様、また“日本式文化会議”ですって」
「妹様までご一緒とは……本当に仲がよろしい」
「でも……スカート短くなるって本当?」
小さな笑いがこぼれた。
クラリーチェはカップを揺らし、静かに呟く。
「姉上の情熱……羨ましくもありますわ。理論では再現できない熱――まるで火薬のよう」
「あなたの理論の方がずっと熱いのよ。燃え方が静かすぎて、怖いくらい。――私だけが知っている炎ね」
二人は微笑み合い、最後の光が床を撫でる。
香の煙が天井へと融け、夜の幕が降りた。
この夜の記録は後に王立文書館に保管され、“文化接触第零号報告”と題される。
ただ一行の注釈が添えられていた。
『文明は、銃と花と恋愛漫画の同盟によって動いた』
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