幕間 融合世界の日常
崩れるまで戦え
午後の光が傾くころ、ヴィラ=フルムの狭い通路に靴音が走った。
橋梁の基部は、古代帝国の遺構を継ぎ足しに継ぎ足して造られた積層迷路――
石、木、鉄、魔導合金。どれも中途半端に繋がって、今にも斜めに崩れ落ちそうな、世界でもっとも人間臭い要塞だ。
屋根の上には倉庫、倉庫の上には狙撃台。
「よくもってるな……」と誰もが呟く。
兵士たちは冗談半分にこう呼ぶ――《崩れるまで戦え要塞》。
機関銃? ない。
日本は貸してくれないし、王国の工房も量産できない。
――いや、正確には「作ってはいる」らしい。だが、貴族連中の
だから、ここでは火力は人間の肩と指先で支えられている。
一発撃てば、次を込めねばならない。旧式の地球式単発銃。
その一斉射撃と、時折降り注ぐ詠唱の光――それがすべてだ。
それでも、マスケットとパイクで突き合っていた時代よりは、まだマシだと老兵は言う。
「全員、配置につけ!」
下士官の声が薄い霧のような空気を裂く。
名はテネリ。かつて造船所で鉄板を叩いていた男。
今は銃の手入れを日課にして、夜には瓦礫の隙間で子どもにガラクタの話をしてやる“橋の父親”だ。
塹壕に並ぶのは、元漁師、流民、前科者、地方の徴用兵、左遷された老騎士。
肩書きも過去も関係ない。ここでは皆、同じ泥に額を押しつける。
「魔法使いや勇者は、遊撃任務だってさ」
「冒険者は?」
「夢追い。現実じゃ食えないって、ティレナに行っちまった」
テネリは笑った。
「地球人は、俺たちは全員魔法を使えるって思ってるらしいぜ」
若い兵が肩をすくめる。
「はは、使えたら、あのショベルに乗って空でも飛んでくるさ」
笑いは一瞬。
夕暮れが崩れ、橋は影の中に沈む。
要塞司令が短く命じる。
「照明は最小、反射を避けろ」
背後では、油の匂いと低いエンジン音が混じっていた。
ショベルカーだ。日本製の中古。塗装は剥げ、車体には詠唱符が貼られている。
武器ではない。けれど、あれがなければ橋は一夜で崩れる。
建材と燃料――それが、この国に売ってもらえる“唯一の輸入品”だ。
「なあ、あれ、日本から来たやつか?」
「らしいぞ。魔術協定の“返礼品”だってよ」
「武器じゃなくてショベルか。変な国だな」
「向こうも戦ってるんだと。魔王軍と」
「……戦ってるのに、売るのか?」
「売れるもんは、売るんだとよ」
風が止む。
闇の向こうがざわめき、最初の影が飛び出した。
小型のゴブリン。
一体、二体――そして十、百、群れ。
枝をかき分け、河原を埋め尽くす影。
「まだだ! 引きつけろ!」
テネリが怒鳴る。
壁に張り付いた兵士たちが、震える指で撃鉄を起こす。
群れが石畳を蹴る獣の爪音を響かせ、壁まで三十メートルを切った。
「第一列――撃て!」
バリィッ!!
数十の銃声が、一つの巨大な破裂音となって響き渡る。
黒色火薬の煙が視界を覆い、最前列のゴブリンが弾け飛ぶ。
「次弾装填、急げ!」
煙が晴れぬうちに、兵士たちは焦燥に駆られてライフルを操作する。
震える手で弾丸を押し込み、閉じる、構える――
だが次の波が、もう壁の下まで迫っていた。
「二射目、撃てぇ!」
まばらな銃声。
もう遅い。柵に飛びついた影が複数。
「銃剣! 押し返せ!」
火薬の匂い、血の匂い、人間の汗の匂い。
弾を込める暇もなく、銃床で殴り、銃剣で突く。
詠唱の光が一度、空を裂いた。
遊撃に回っていた魔法使いが援護に入り、箒の軌跡を残して夜空に消える。
一瞬の閃光が、戦場を昼のように照らした。
その光の下で、別の前線が見えた。
「くっそぉ! こっちくんな~!」
雑言を敵に浴びせる声が聞こえる。
少女兵、イーラ。まだ十六。三日前に徴用されたばかりの新人だ。
彼女の武器は銃だけ。魔法は使えない。使う暇もない。
「まだ来る!」
叫びが橋の骨組みに響く。
脆い板が割れ、通路が崩れた。
瓦礫の上でイーラが銃を構える。
狙いを定め、引き金を引く。一発。肩を殴るような反動。
すぐに次を込めようとするが、指が震えて弾がこぼれ落ちる。
「あ……!」
一体のゴブリンが、装填の隙を見逃さず、瓦礫を駆け上がった。
イーラが息をのむ。
「――っ!」
テネリがとっさに身を投げ出し、少女を突き飛ばす。
爪が肩を裂き、痛みが走る。
それでも、装填を終えたライフルを敵の腹に押し当て、引き金を引いた。
零距離の射撃が、獣を吹き飛ばした。
夜の端で、群れが崩れた。
血の匂いが濃くなり、悲鳴が消える。
静寂が、勝利の代わりに訪れた。
生存者、六百八十。出撃時は七百。
司令は数を数え、参謀は帳面に線を引く。
震える指先で、彼は呟いた。
「……合理的だ、な」
イーラが泥まみれの顔で笑う。
「うん、そのほうが合理的だからここに送られたのかもしれない。だけど、私の壁、壊さないでって思ったから――守りたいと思ったから」
参謀は帳面を閉じた。
合理は、線の上でしか息をしない。
だがこの場所には、線の外で呼吸する人間がいる。
夜明け前、要塞はまた修復の音に包まれる。
だが、それは釘を打つ音や、瓦礫を運ぶ音だけではなかった。
トラックのライトが瓦礫を照らし、ショベルの腕が折れた鉄骨を引き上げる。
荷台の側面には、日本語で「建設機械」と記されていた。
魔術の見返りに送られてきた、最新でも最強でもない機械。
けれど、あれがなければ橋は一夜で崩れる。
それでも動く限り、この街をつなぐ命綱だった。
そのすぐ傍らでは、民間の
そこは、明日死ぬかもしれない者たちが、今を貪る場所だ。
荷馬車を改造しただけの移動酒場では、泥酔した兵士たちが肩を組み、故郷の歌をがなっている。
「――どうせ明日は瓦礫の華よ!」
割れたジョッキが石畳に叩きつけられ、甲高い笑い声が響く。
その隣、けばけばしい布で覆われたテントは即席の娼館。
戦で全てを失った女たちが、生きるために虚ろな笑顔を貼り付かせている。
兵士たちは稼いだばかりの報奨金を握りしめ、その闇に吸い込まれていく。
裏路地では、サイコロの転がる音が響く。
「ちくしょう、もう一回だ!」「次は勝つ!」
今日の弾薬代を賭けてギャンブルに溺れる者たち。
彼らにとって、明日確実に死ぬかもしれない恐怖より、今この瞬間の興奮の方が、よほど現実的なのだ。
鉄くず部隊、棄民、祈りを失くした者たち――。
誰もが、この要塞が「合理的」な捨て駒だと知っている。
だからこそ、酒を飲み、サイコロを振り、肌を重ねる。
それが、明日を生き抜くための、歪で、けれど切実な糧だった。
そんな喧騒の真っ只中に、イーラの姿があった。
泥まみれの顔のまま、屋台の串焼き肉を両手に持って夢中で頬張っている。
口のまわりを脂でテカテカにさせ、まるで明日の分まで食べ込むように。
「んぐ、んぐ……! おじさん、これ、おかわり!」
その姿を、肩に包帯を巻いたテネリが、少し離れた場所から見ていた。
彼は煙草に火をつけ、夜明け前の紫の空を見上げる。
少女の生き汚いほどの食欲が、なぜだかひどく眩しかった。
テネリは煙と一緒に小さく息を吐き、壊れかけた笑みを浮かべる。
この場所では、誰もが必死に呼吸をしている。
鉄くず部隊、棄民、祈りを失くした者たち――。
それでも橋は、崩れながらも繋がっている。
風が吹いた。
瓦礫の隙間で、小さな花が顔を出す。
誰かがそれを見つけ、そっと土を掛けた。
合理の外に、まだ呼吸があった。
ヴィラ=フルムは今日も縫い目を繕い、崩れるまで戦う。
――崩れるまで、戦え。
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