第14話 白い山
ぎゅむ、ぎゅむ、と音を立てて、踏んだことのない感触の地面に足が沈み込む。
『雪』
トゥヴァリが口に出す前に、ナランサは疑問に答える。歩き始めは楽しいと思えた柔らかさも、進むほどにつらくなり、足をとられて身体の疲れが増していく。
『冷たい空で水が砕けて白く降るのだ』
「じゃあ、これは水なのか」
トゥヴァリが手にひとすくいすると、白い砂のようなものはじわりと溶けて流れ落ちる。
「不思議だ」
『この地では生きられぬ人間を、寄りつかせないためにある』
《ーーーーーオオーー》
時々聞こえてくる声。恐ろしい気配には、トゥヴァリも気付いている。
「あれがいるからか」
『そうだ』
トゥヴァリは馬の背のセレニアを見た。白くくっきりした顎の筋に細い首。黒い髪に、ちらつく雪は触れていない。ナランサの魔法の中で守られており、草色の馬毛も濡れてはいなかった。
「……あなたはどうして、俺を助けてくれるんですか」
『お前の声が聞こえたからだよ』
ナランサの言葉は優しかった。
『強く、揺るぎなく願わなければ、精霊に言葉は届かない。声が聞こえたから、お前は選ばれたのだよ。私はセレニアに与する者だ。お前がしようとすることを、見届ける役目を負ったのだ』
彼らはようやく、山の麓まで来た。雪が無ければ、西地区から宮殿へ行くくらいの遠くない道程だった。山はひどく吹雪いている。登って行く道に一歩足を踏み入れる。
途端、トゥヴァリの目から涙が溢れ出した。
過去となったはずの感情が――ペルシュが死んだ時、それを受け入れない、ペルシュを必要とする自分の叫びと、それでいてもう生き返ることはないと知っている悲しみ――今が、死に直面したあの時かのように、ぼろぼろと、頬を流れて筋になる。
もし魔法が効いていなければ、その涙は凍てついてトゥヴァリの皮膚を固めただろう。
『ここはセレニアの結界と、あれの力がぶつかり合い激しい嵐になっている。様々な感情の渦が襲ってくるだろう。進めるか?』
「俺に必要な力が、ここにある。それがなければアイピレイス様も、精霊王も救い出せない」
トゥヴァリは涙を拭って歩を進めた。道無き道だった。斜めに降りつける吹雪は目を閉じさせ、視界を奪い、足を深く雪に沈める。腰で雪をかき分けながら進む。木の一本も生えぬ岩肌で、風を避ける影はどこにもない。
しかし、呼び声に従って進むと、苦しみながらも次の一歩を踏み出す場所は必ずあった。
そのうち、山の中腹まで来ただろうか。岩肌にぽっかりと口を開けた洞穴をトゥヴァリは見つけた。ようやく、吹雪から身を休める。ナランサも、セレニアを自らの体に横たえ、四肢を折りまげて寄り添った。
「ずっと眠ったままだ」
よほど深い夢に囚われているのか、セレニアは瞼ひとつ動かさない。
トゥヴァリは、眠っている人の顔をこれほど間近に見つめるのは初めてだった。それは死のように静かでありながら、愛らしく、胸に不思議な緊張を呼び起こす。
精霊が親切に火を起こし、トゥヴァリの衣服を乾かした。寒さは感じていなくても、火の揺らめきを見ているだけで心が落ち着いた。
疲れは十分にあった。
意識はゆっくりと沈み、何かに引き込まれるように朦朧としていった。
青白い炎が、闇にゆらめく。
(やめろ……!)
その声に脅かされ、トゥヴァリはハッと目を醒ます。肺が荒い呼吸を繰り返している。視界に映るものに驚く。状況が、理解出来ない。
髪を乱したセレニアが、虚ろな瞳でトゥヴァリを見上げていた。白い体――トゥヴァリの両手が、彼女の纏う布を引き裂こうとしている。
「……俺が? どうして……」
心臓が、体を震わせるほど強く脈打っている。
トゥヴァリは苛立った。
なぜ彼女はされるがままになっているのか。
どうしてありったけの力で、トゥヴァリを押し除けようとしないのか。
セレニアがわずかに唇を動かした。
「私には罪があります」
トゥヴァリは衝動的に、右手を振り上げる。セレニアの表情はぴくりとも変わらない。華奢な少女の頬に比べれば、骨ばって大きな、男の手だ。筋肉のついた腕。逞ましい肩。
少女に振り下ろすには、力が余り過ぎている。
トゥヴァリはその手をゆっくりと降ろし、後ろを向いた。セレニアの肩を掴むことも、触れることもしなかった。
「ごめん……」
また嵐がやってきたのだ、とトゥヴァリは理解した。そうであって欲しいと思った。あの涙のようにいつかの自分の感情が呼び起こされたのであれば、この衝動は――あのとき、確かにあの扉の前で抱いたもの。
自分にもあの恐ろしいことに似た欲望がある。
(とっくに知っている。でも、俺には理性がある……)
呼吸を整え、辺りを見回す。彼女の服を元に戻してもらおうとしたのだが、精霊もナランサもいなかった。
「うう...」
背後から、苦しげな声が聞こえる。
「どうしたんだ、」
意識のないうちに、既に何かしてしまったのか。不安に駆られたトゥヴァリが近寄ろうとすると、
「ううううう...いや...いやあああーーーっ!」
セレニアは突然、耳を劈くような悲鳴を上げた。
「来ないで! 触らないで! あああーーー!!」
破れた服で必死に体を隠し、部屋の隅へ後ずさる。顔は恐怖に歪み、涙が頬を伝い、歯を小さくカチカチと鳴らす。
その震える瞳には、戸惑うトゥヴァリの姿が映っている。
(どうしたんだ、一体、どうすれば――)
『彼女もまた、感情を呼び起こされている』
洞穴の入り口に、ナランサがいた。
『安心しなさい。お前が試されている時、そこに在ったのは幻。彼女が見ているのも、幻。しかし、彼女はこれを越えられないようだ』
ナランサは、セレニアのもとに歩み寄り、彼女の前にそっと身を横たえる。悲鳴が止み、セレニアは気を失って、ナランサの背の上に倒れた。
様子を見守っていたトゥヴァリの緊張も解ける。
(さっきのは、幻……)
心の底から安堵する。しかし、後悔がないわけがない。
(本当は、彼女を押さえつけることさえ、していなければ良かったのに)
自分の内にある衝動を憎む。
安らかに眠るセレニアを見つめ、耳に残った彼女の悲鳴を思い出す。
(あれが本当の感情なら……当然だ。あんな恐ろしいことが繰り返されていたのだから)
見つめているうちに、小さな寝息が聞こえてくる。
トゥヴァリの思考が掻き乱される。
「……彼女は本当に……」
セレニアなのか?
言いかけるも、すぐ思い直した。
(何をバカな……彼女がセレニアでなくて何だと言うんだ?)
『何か?』
「いや...何でも……」
『ならば先に進もう』
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