第10話 賢人の檻

 病院の廊下の窓に薄く映る自分の姿。

 颯爽と歩きながら、横目で確認し、「素敵よ」と心の中で賛辞を贈る。

 人を救いたいという夢を叶えた女性。努力が報われた人生。美人と言われる程ではないけれど、自信と活力に満ちている。

 スマートウォッチにメッセージの着信。娘と夫の画像が表示される。


「愛してる」


 ーー廊下の窓に自分の姿が薄く映る。

 大嫌いな、無力な女。誰も救えない。救う方法もわからない。なす術もなく立っているしか出来ない。


 ふと亡くした娘の顔が浮かぶ。

 夫の姿も。


「やあ。最近の君の姿は、どうも見慣れないね」


 いつもの事だが、いつから居たのか。ルヨがハーヴァに声をかけた。


「今日で終わり。やっとよ」


 ハーヴァは髪を解き、襟付きのシャツのボタンを外して胸元を大きく開ける。髪をかきあげ、醜く笑った。


「ああ、肩が凝った。意味がわからないんだけど。あいつ、全部忘れてるわけ?」


 ちらりと窓を見る。あの女とは正反対の、品の無い女性。多くの男を誘い、子を産んだ。しかし不思議なもので、それだけで箔が付いているような気がする。


「....君は、アイピレイスに好意があるのかと思ってたけど?」


 ルヨが聞くと、ハーヴァは「アッハハ!」と吹き出して、手を口元に当てる。


「やめてよ! 好みじゃないもの。あの喋り方とヒゲ。あとあの服何なの? 全身真っ赤なんて有り得ない」


「ふうん。じゃあ、彼に会う時に服を変えたがるのは何故?」


「欲情されたら困るじゃない」


「...ふうん。君たちのことはいつまで経っても理解出来ないな」


 ルヨは深い溜息をついた。


「それよりねぇ、結局何だったと思う? 精霊が人の生気を吸っても死なないことがわかったんですって!」


「ふうん?」


「私の息子が! 死ぬ思いをして! あー、おっかしい! そんなのとっくにわかってるのに! 面白いから三ヶ月も付き合ってあげたの。女優でしょ?」


 ハーヴァは溜め込んだ分だと言うように、天井を見上げけたたましく笑い声を上げ、


「あーあ。退屈な人生だもの。たまには誰かをからかったって良いじゃない?」


 と、目に滲んだ涙を指で拭った。


「君がそんな風になったのは、いつからだったかな? 百年くらい? 長生きが向いてないのかもしれないね」


「あら、それって、あなたの事じゃなくて?」


 ハーヴァが言って振り向いた時、既に彼の姿は無かった。


 

▪︎


 

 トゥヴァリは町に出る。嬉しくて嬉しくて、誰も彼もに「もう死ななくて良いんですよ!」と言って回りたい気分だ。


 トゥヴァリの後には精霊がくっついて飛んで来ていた。あの実験をして以来、同じ精霊がずっとトゥヴァリの側にいる。不思議と他の精霊よりも、伝えようとしていることがわかるように思えた。


 歩きながら、何度も、初めて見た母の顔を思い出した。胸の奥がくすぐったいような気持ちになり、口元が緩んでしまう。「目と唇が似ている」とアイピレイスは言った。

 賢人ハーヴァが母親だった、という事実には驚いた。

 ショックではある。しかし、ルディという存在の謎が解けた。親なし――親がいないわけではなかった。どこから来たかわからない、得体の知れない存在ではなかった。


(俺もみんなと同じように母さんから生まれたんだ。俺を心配していてくれた…)


 今も宮殿からトゥヴァリを見ているかもしれない。そう思うと、背筋が伸びる。


(ハーヴァの息子のトゥヴァリ…)


 嬉しいような、むず痒いような、気恥ずかしいような、そんなトゥヴァリの気持ちに精霊も反応しているような動きを見せた。

 ハーヴァがどんな人かをアイピレイスに聞くと、「うーん、彼女は賢くて、勇敢だ」と言った。


「この国で最初に子を成した。自己犠牲の精神を持ち、人類の叡智を遺すために生き続けるべき存在だった。

 アルソリオが出来た時、生き残っていたすべての者の中で、真に価値があった人間は、オーウェンとハーヴァ、そしてロースウェイだ」


「オーウェン様も宮殿にいらっしゃるのですよね。お会いしてみたいな」


「……いや、彼は宮殿を出て行った」


 アイピレイスの瞳には、長い年月の孤独と悲しみが滲んでいた。


「彼は私たちと五十年と共に過ごさなかった。今、どこにいるのかもわからない。ハーヴァが選んだ二人目の夫だったが、ハーヴァと息子を残して去ってしまった……」


(俺の父親は、いったい誰なんだろう…)


 考えはするものの、どうでも良いことでもあった。

 トゥヴァリはアイピレイスを慕っている。

 自分を心配してくれる。

 物事を教えてくれる。

 そして、側にいて他人からの信頼を受け止めてくれる。

 どれほど自分が支えられていることか。


 だから、あの時間――ハーヴァとアイピレイスと共に過ごした日々こそが、自分にとっての「家族」だった。


 精霊がトゥヴァリの顔の側に来た。


「なんだ、機嫌が良いな?」


 トゥヴァリが泣いていた日は元気がなく地面の近くを飛んでいた。トゥヴァリが嬉しい時は、こうして寄ってくる。トゥヴァリは、精霊がトゥヴァリと心を共有しているのではないかと考える。


「…よお」

 

 目の前に立ったレニスの声に、トゥヴァリは思わず目を見張る。


「おはよう、レニス…」


 トゥヴァリも気まずく挨拶した。

 あの日――あの後ハーヴァから聞いた話をレニスに説明すると、「もう謝らなくて良い」と言って、レニスは帰っていった。

 

 何か話したい、そう思ったが、レニスには謝る以外の言葉が思い浮かばない。

 二人はそれ以上、何も言わずにすれ違い、別れた。


(レニスと会うのは緊張するな……)


 そう思いながら歩いていると、トゥヴァリは誰かの声を耳にした。


「昨日、エサムが死んでしまってね――」


(そうだ! 急がなければ、また誰かが死んでしまう――)


 アイピレイスは自分が何とかすると言っていた。しかし、悠長に待っている暇はない、とトゥヴァリは思った。


▪︎


 赤い帽子に赤い服、とんがり靴も赤かった。

 賢人アイピレイスの姿が鏡に映っている。

 

 ため息をつき、ふと昔の自分を思い出す。

 子どもの頃から記憶力が良く、賢いだの天才だのと呼ばれていたこと。

 文明社会では、いつも白いシャツに灰色のベストを着て、黒縁眼鏡をかけていたこと。

 ビル群の中で働き、同僚とコーヒーを飲み、休日にはダーツに興じたこと。

 女性に大変モテるというわけではなかったが、いくつかの友人関係はあったこと。

 一度も恋愛に発展しなかったのは、彼が仕事ばかりのややつまらない性格で――臆病だったからだろう。


 彼は唇を結び、赤き賢人としての己を信じ、部屋を出た。


 彼の記憶力は、新しい世界で少しばかりは役に立った。人間が必要とする物の作り方と材料を覚えていた。

社会を持続させるのに必要な法律や仕組みを覚えていた。

 しかしそんなものは、この新しい世界には必要が無い!


 彼は、願わなかった。

 ハーヴァのように、世界を元に戻すことも。

 ナリファネルのように、精霊の罪を問うことも。

 ロースウェイのように、精霊という現象を解明することも。

 オーウェンのように、精霊の支配から逃れることも。


 アイピレイスは大理石の廊下を渡り、玉座の間の前までやって来た。

 彼が願ったのは、永久に精霊王セレニアに仕えること。

 その神秘性に傾倒し、服を赤一色にした。


(この部屋は、宮殿は、ナリファネルに奪われてしまったのだろうか?)


 取っ手を引く手が、一度止まる。

 アイピレイスはナリファネルが苦手だ。暴力的に物事を解決しようとし、道徳的な考えを持たず、自分を律することもできない。

 苦手ではない。嫌いなのだ。

 しかし、アイピレイスのような人間は、嫌いな相手にわざわざぶつかったりはしない。


(トゥヴァリに約束しただろう!)


 己を奮い立たせ、扉を開けた。


「おや。これはこれは」


 アイピレイスを出迎えたのは、酒の匂いが鼻を刺す部屋だった。

 肘掛け椅子に座るのは、無骨で不遜な男。男はアイピレイスを見ると、目を細め、冷たく笑った。


「賢人アイピレイス殿。何か用かね?」


「ナリファネル…王はどこだ」


「ふん。貴様は王という言葉の意味を知らんようだ」


 ナリファネルはワインの瓶を置き、椅子から立ち上がろうとした。

 アイピレイスは覚悟を決めた。その瞬間――


「いや、ナリファネル。ここが精霊王セレニアの部屋だというのは、彼の勘違いじゃない。そうだろう?」


 背後から、軽やかな足音が近づいた。ルヨだった。

 低い身長。子どもらしい声と仕草は、頼もしいわけではない。しかし、その無邪気な存在感に、アイピレイスの身体の緊張は、わずかに解けた。

 しかし、ルヨがアイピレイスの前に進み出た時、その表情は一変した。精霊王セレニアがルヨの後ろを歩いていたのだ。アイピレイスの唇はその名を呼ぼうとして震えた。

 あまりにも時間の経ち過ぎた再会だった。


(これが、精霊王セレニアだっただろうか? こんな、弱々しい…少女が?)


 違和感はあった。

 しかし、彼女はセレニアである、とアイピレイスは揺るぎなく思っていた。

 ナリファネルは舌打ちをして玉座を開けた。椅子の前に、セレニアが立つ。


 絶望の淵から自分を救い上げた創世の光景が、ふと思い起こされる。

 宮殿に足を踏み入れた時、白い床には真っ赤な絨毯が敷かれていた。はじめ、他の色は無かった。彼らが望むまで、この宮殿には白と赤しかなかったのだ。

 セレニアはその二色を好むのだろう、とアイピレイスは思った。唯一絶対の王に忠誠を誓った時、彼は赤一色の服を着ることを決めた。


「アイピレイス。何か願いがありますか?」


 少女の声は、十五、六ほどのあどけない声だった。


「精霊王セレニア。今、精霊は、生まれて四十年を迎えた人間を犠牲にして生気を保っています。私は、それが仕方のないことだと考えてきました。ですが――」


 セレニアは表情を動かさず、黙って聞いていた。


「人間が犠牲にならないことが、可能だとわかった。死に至らぬ程度に、生気を吸う量を調整していただきたい。どうか、人がその命の限りを生きられる権利をお与え下さい」


「却下だ」


 尊い答えが来る前に、ナリファネルが口を挟む。


「精霊の餌どもは命を管理されているくらいでちょうどいい。でなきゃ、俺の不死の価値が薄らぐだろうが」


「君は……! ほんの優越感のために、町の人々が死ぬ状況を望むのか!」


 アイピレイスは怒りを隠さずに言った。もとより怒りやすい性分ではなかったが、いったん火がつけば抑えることができなかった。


「セレニアは、人の数を増やすためにアルソリオを作った! 三百年をかけて、ようやくここまで人口が増えた! 当初の目的は、すでに果たされたはずだ!」


 人は、もう自由になっていい。アイピレイスは強くそう思った。


 だがナリファネルは、言いたいことなど承知しているというように、笑った。


「結構なことだ。そうか、それなら俺が奴らの不死の王として君臨するのも良い頃合いだな」


「……なんだと?」


 ナリファネルは、ゆっくりアイピレイスに向かって歩き始めた。


「賢人アイピレイスよ。奴らが自由になればもっと長く生きられると言ったが、そんなわけがない。お前はこの町に馴染みすぎて忘れているようだが? 人間の死因はいくらでもある。

 病気、事故、戦争、災害、飢餓……精霊が、四十年から先の人生と共に人間から奪っているものだ」


「..……それは……」


 酒臭い口から吐き出される言葉に、アイピレイスは口を噤む。何も言葉が出て来ない。ナリファネルが正論を言ったことが悔しく、惨めに思った。

 ナリファネルはふん、と鼻を鳴らした。


「お前の賢人たる所以は、記憶力だったな? なら、お前が忘れている時点でその資格は無い」


 そして、玉座の方へ戻ると「あいつを投獄しろ」とセレニアに言った。


「なっ...」


「アイピレイスを投獄します」


 セレニアは表情一つ変えぬまま、ナリファネルの言葉を繰り返す。


「セレニア、待ってくれ!もっと私と話を...!」


 アイピレイスはセレニアに縋ろうとしたが、足が前に進まない。いや、それどころか、後ろに下がっている。体が勝手にこの部屋を出ようとしている。

 ルヨが両扉を開けた。

 

「お前の役目は終わりだ、どけ!」


 扉が閉まる前、帽子を落としたアイピレイスが見たものは、玉座に座っているナリファネルだった。





 宮殿の奥に地下への階段があった。アイピレイスも昔は来た事がある。地下には、北の地に繋がっている裏口があるだけだ。

 自らの足が意志に反して、暗い廊下をいくつか曲がって、アイピレイスの知らない部屋まで来た。

 鉄格子が並んでいる。


「牢...?」


 しんと静まり返って音は聞こえなかった。が、暗がりの中に何かが見えるような気がする。巨大な檻だった。まるで巨大で獰猛な動物でも飼うかのような。


「ルヨはナリファネルと同じ考えなのか?」


 アイピレイスの体が中に入ると、ルヨは鍵を閉めた。


「このまま、もう少し観察しているとするよ」


 声はあどけなく、冷ややかだった。


「君はナリファネルに対抗できる力ではないみたいだからね。しばらく退場しているのも、良いんじゃないかな」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る