第6話 悪夢のはじまり

 十ばかりの少女だった。

 あどけない顔つき、長い睫毛、高めの鼻。肌は差し込む外光に輝き、歩くたびに黒髪が揺れた。


 ぺたり、ぺたり。足裏が大理石の床に音を残しながら、宮殿を進んでいく。


「おはよう、セレニア」


 一面の壁に色とりどりの割れた石片を貼り付ける作業を中断して梯子を降りて来た子どもが、言った。


「ここは……?」


 少女は尋ねる。


「宮殿だよ。さあ、君は玉座の間に行く時間だ」


「玉座の間……」


「そうさ。君は、大精霊、精霊王セレニアなんだよ」


 子どもはそう言ってセレニアを、狼の形をした取っ手のある白い扉の前に連れて行く。恐ろしい形相の狼で、セレニアはその姿を見て、とても怖いと思った。

 しかし、入らなければならない。この時間、この部屋に、彼女は存在していなければならなかった。抗えず、セレニアは取っ手を掴んで扉を引いた。


 部屋に足を踏み入れる。

 段の上に、男がいた。体は大きく、少し太っている。くたびれた服に粗野な髭。乱れた髪の奥の目が、自分を射抜くように感じられた。

 腐った果実の匂いが鼻を突き、息を吸うたびに胸が締め付けられる。


「何だ?その態度は」


 賢人ナリファネル。

 声は獣の唸りのように響き、セレニアの体は硬直した。ただ目の前の命令に従わなければならない。何故かは、わからない。


「また忘れたのか? この犬の脳みその寄生虫め。俺に会ったら裸になって謝罪しろ。頭を床にこすりつけてな」


 セレニアの手足は、ためらう間もなく動き、床に頭をこすりつけた。瞬間、体の感覚が現実に引き戻される。衝撃と痛みに体が跳ね上がり、唇と頬から血が滲む。

 恐怖が全身を駆け巡り、心臓は喉元まで跳ね上がった。息を整えようとしても、動悸が収まらない。


「ご、ごめんなさい…!」


 セレニアは訳の分からぬまま謝った。

 考えることは許されず、また次の痛みが与えられるのを待ち、体が震えている。


「ぐ…ぅっ…!」


 内臓が押し潰される。心臓は早鐘のように打った。


「お前に俺を怖れる資格などないぞ。罪があるのはお前らだ。地獄の底から湧いた羽虫。忘れる事など許されない。多くの人間を死に至らしめ、俺の兄を殺した。それでいて人の王になろうとは、傲慢が過ぎる!」


「ご…めんなさ…」


 痛みと血に溺れ、声が喉に詰まる。何も考えることは出来ず、ただ恐怖だけが全身を支配する。


「謝れ! 本当に謝る気持ちがあるのなら、罰を受ける事を厭わないはずだ。俺に何をされても文句を言えないはずだ。それが贖いだ!」


 ナリファネルは何度も足を振り下ろす。――セレニアの体が軋み悲鳴を上げる。しかし、もう声はない。床には血溜まりが出来ていた。ナリファネルは汚いものを見る目で、つまらなさそうに言う。


「さっさと治せ」


 セレニアの指先がぴくりと動く。痛みも血も跡形もなく消え去り、体はまるで何事もなかったかのように元に戻った。

 気怠い感覚のまま、セレニアは体を起こした。


「お前は知りたいだろう、お前が記憶を失う前、お前が何の罪を冒したのか。俺に感謝して残りの時間を過ごせ。忘れ癖のあるお前のために、明日も俺が教えてやろう。繰り返して言え。お前はセレニアで、俺に謝罪し贖罪を受けると。お前は俺の望みをすべて叶えると」


 セレニアは言葉が紡げなかった。

 頬も唇も切れてはいない。腕も足も折れてはいない。腹も肺も潰れていない。脳も損傷していないけれど、思考が始まらない。


「本当に悪いと思っていれば言葉を迷う事などないはずだ!」


 ナリファネルは再び、激昂した。


▪︎


 何度めかの再生を繰り返した後――。

 白く華奢な体を折り曲げ、膝と頭と両の手の先を冷たい床にしっかりとつけて、小さく震える声で言った。


「私は精霊王セレニアです。貴方の望みをすべて叶えます。

 私は謝罪します。人々を傷つけ、尊い命を奪い、貴方の兄を殺しました。彼らの痛み、悲しみを一時も忘れることはありません。

 私は贖罪します。過ちを繰り返さないよう、己に出来ぬ戒めに、貴方の手を借りて罰を受けます」


 返事は無い。

 ナリファネルは酒に酔い、玉座にひっくり返って高いびきをかいていた。床は割れたガラス瓶。甘酸っぱい匂いが部屋を満たしている。


 セレニアは恐る恐る立ち上がり、音を立てぬように扉へ向かう。慎重に閉じたはずなのに、やけに大きく音が響く。

 狼の彫刻にもたれかかると、中にいる男のいびきが止まる。

 セレニアは逃げ出した。細く長い腕と足が、ばらばらに動いた。転びそうになる度に惨めに床に手を付きながら、冷たい石の廊下を進んでいく。


「やあ、おつかれさま」


 誰かがいて、立ち止まる。咄嗟に体を隠そうとして、服が元に戻っていることに気付いた。立っているのが女性と子どもだと気づき、張り詰めていた気が抜ける。


「お願い……助けて!」


 涙を滲ませて叫びながら、セレニアはわかっていた。助かる方法などない。助かる理由がない。


「まだちょっと時間がかかりそうだね」


 子どもは困ったように笑った。

 セレニアは女性を見た。腕組みをしたまま、目を逸らす。


「私がこうなる前の、忘れてしまった私の事を、知ってる?」


「……知ってるわ。人殺し」


 女性は背を向け、早足でその場を去った。高い天井に響くハイヒールの音が、溢れ出した嗚咽をかき消した。

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