第51話 腐臭とプライド
「夜になるとね、お屋敷の裏の方から、代官様が誰かとケンカしてるみたいな、大きな声が聞こえるんだよ」
子供たちのスパイ大作戦が、完璧な成果を上げて幕を閉じた後。
一人の少年が残したその言葉だけが、私の心に小さな棘のように引っかかっていた。
横領の証拠は揃った。王都のレオニード様も、政治的な盤面を整えてくれているはず。
だが、この計画外の要素は、一体何を意味するのか。
(マルクスの仲間割れか? それとも、別の勢力が関わっている…?)
私の内なる高橋健太が、あらゆる可能性をシミュレーションする。
最悪のケースは、マルクスの背後にいる宰相アーチボルドが、直接介入してくることだ。そうなれば、私たちの小さな村など、一瞬で踏み潰されてしまう。
その日の夜。
私はギルドの執務室で、子供たちが集めてくれた情報を整理していた。
ロウソクの灯りが、壁に私の不安げな影を揺らしている。
コンコン、と控えめなノックの音。
「……クロードさん?」
「ああ」
入ってきたのは、夜の森の匂いをかすかにまとったクロードさんだった。
彼は、私が何か言う前に、静かに口を開いた。
「子供たちが言っていた『ケンカ』の件、探りを入れてきた」
「! 本当ですか!」
私は、思わず椅子から立ち上がりかけた。
「それで、何か分かりましたか?」
「ああ。……聞くに堪えない、下劣な話だったがな」
クロードさんは、そう吐き捨てると、昨夜、彼が代官宿舎の裏で目撃した光景を、淡々と語り始めた。
彼の言葉が、その場の光景を、私の脳裏に鮮明に映し出していく。
---
昨夜、月も隠れた闇の中。
クロードさんは、音もなく木の枝から枝へと渡り、代官宿舎の裏手にある大木の枝に、その身を潜めていた。
まるで、闇に溶け込んだ梟のように。
やがて、宿舎の裏口が軋みながら開き、二つの人影が現れた。一人は、もちろん代官マルクス。もう一人は、小太りで卑屈な笑みを浮かべた、見慣れない商人風の男だった。
「―――いい加減にしろ、マルクス様! 話が違うじゃねぇか! 分け前が少なすぎる!」
商人風の男が、声を潜めながらも、ヒステリックに叫ぶ。
「黙れ、下衆が。誰のおかげで、南方の高級木材なぞに手が届くと思っている。村からタダ同然で巻き上げた物資を、売りさばく手間賃としては、十分すぎる額のはずだぞ」
マルクスの声は、ねっとりと粘りつくような優越感に満ちていた。
「手間賃だと!? あんたはただふんぞり返ってるだけだろうが! 足がつくリスクを負って、王都の貴族どもに売りつけてるのは、この俺なんだぞ!」
「ほう? ならば、その取引の全てを、宰相閣下にご報告してもよいのだぞ? お前のようなゴロツキ商人と、私が裏で繋がっている、と。……どうなるか、分かるな?」
マルクスの脅し文句に、商人はぐっと言葉を詰まらせる。
権力を笠に着た、一方的な恫喝。それは、彼が私たち村人に見せる態度と、何ら変わりはなかった。
「くっ……! 汚ねぇぞ!」
「ふん。言葉を慎め。全ては、偉大なる王家と、宰相閣下のためにやっていること。そのおこぼれを、貴様のような虫けらに恵んでやっているのだ。感謝こそすれ、不満を抜かすとは、片腹痛いわ」
その、あまりにも醜悪な会話。
クロードさんは、ただ静かに、その一部始終を聞いていた。彼の瞳の奥で、氷のような殺意が、さらに温度を下げていく。
だが、その時。
クロードさんは、自分以外にも、この会話の『聴衆』がいることに気づいた。
少し離れた物陰。そこに、二つの人影があった。
傭兵隊長のバルガスと、副官のセラだ。
(……なるほどな)
クロードさんは、口の端を歪めた。
彼らもまた、雇い主の裏の顔を、その耳で確かめに来たのだろう。
バルガスの肩が、怒りで微かに震えているのが、闇の中でも見て取れた。
隣のセラは、ただ唇を噛みしめ、拳を握りしめている。
やがて、マルクスが商人を罵倒しながら宿舎へと戻り、商人も悪態をつきながら闇に消えていった。
静寂が戻った裏庭で、バルガスが、ぽつりと呟いた。
その声は、押し殺しているにもかかわらず、煮え滾るマグマのような怒りに満ちていた。
「……もう、たくさんだ」
「隊長……」
「俺たちの剣は、無抵抗の村人から奪った富で私腹を肥やす、あんなクズを守るためにあるんじゃねえ……!」
バルガスは、そう言うと、おもむろに物陰から姿を現し、クロードさんが潜む大木の方を、まっすぐに見上げた。
最初から、気づいていたのだ。互いの存在に。
「―――そこにいるんだろう、猟師殿」
---
「……その後、少し話をした」
クロードさんの報告は、現在へと戻ってきた。
「バルガスは、こう言っていた。『あんたたちが、何を企んでいるかは知らん。だが、あの代官を失脚させるというのなら、俺たちは見て見ぬふりをしてやる』と」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「それって……」
「ああ。事実上の、中立宣言だ。奴らが動かなければ、マルクスはただの丸裸の貴族だ」
全てのピースが、完璧にはまった。
子供たちが集めた『横領の証拠』。
レオニード様が整えた『政治的な舞台』。
そして今、クロードさんがもたらした、傭兵団という『物理的な障害の無力化』。
私たちのチェス盤から、相手の強力な駒が、自ら盤を降りたのだ。
(勝てる……! これなら、確実に!)
私の内なる高橋健太が、勝利の二文字を確信する。
子供たちから聞いた、些細な『ケンカ』の情報が、最後の、そして最大の決定打を呼び込んでくれた。
私は、クロードさんに向き直り、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クロードさん。あなたがいなければ、ここまで来られませんでした」
「……フン。俺は、俺の『群れ』を守るだけだ」
ぶっきらぼうな言葉。だが、その声には、確かな信頼がこもっていた。
私は、帳面に書き留めていた計画の、最後の項目に、力強く丸をつけた。
視線の先には、憎き代官宿舎がある。
(見ていろ、マルクス。あんたが振りかざした権力も、あんたが信じた暴力も、もうあんたを守ってはくれない)
残るは、仕上げの一手のみ。
それは、武力でもなければ、法廷闘争でもない。
私の前世の知識―――科学の力が生み出す、最も狡猾で、最も屈辱的な、静かなる『時限爆弾』。
チェックメイトへの、カウントダウンが始まろうとしていた。
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