第41話 知識という名の『工場』始動
翌日、ユキノシタ村の広場は、昨日までの重苦しい沈黙が嘘のような、奇妙な熱気に包まれていた。
村の中心にある一番大きな作業場の前に、村人たちがほとんど全員、集まっている。誰もが不安と期待、そして戸惑いが入り混じった複雑な表情で、私と、私の後ろに広げられた大きな羊皮紙を見つめていた。
「―――以上が、代官マルクスに対抗するための、私たちの反撃計画です」
私は、集まった村人たちをまっすぐに見据え、宣言した。
羊皮紙には、私が昨夜、レオニード様とクロードさんと共に練り上げた、原始的な『工場』の設計図が描かれている。
「これから私たちは、この村の石鹸作りを、根本から変えます」
私の言葉に、村人たちの間から、ざわ…とどよめきが起こった。
「仕事を…変えるだぁ?」
「一体、どういうこった…?」
無理もない。彼らにとって、石鹸作りは熟練の職人が長年の勘と経験を頼りに行う、神聖な仕事のようなものだ。それを、根本から変えると言われて、すぐに理解できるはずがない。
私は、ゆっくりと、そして全員に聞こえるように、言葉を続けた。
「皆さんに覚えてもらう仕事は、たった一つだけです」
「一つだけ?」
「はい。例えば、Aさんは一日中、油をかき混ぜるだけ。Bさんは、その液体を型に流し込むだけ。Cさんは、固まった石鹸を棚に並べるだけ。Dさんは、出来上がったものを包装するだけ。……ただ、それだけです」
シン、と広場が静まり返った。
誰もが、私の言っている意味が理解できず、呆気にとられている。
「そ、そんな馬鹿な話があるかい!」
最初に声を上げたのは、村で一番の腕を持つ木工職人のゲルトさんだった。白髪混じりの髭を蓄えた、いかにも頑固一徹といった風情の老人だ。
「仕事ってもんは、十年、二十年かけて、やっと一人前になれるもんだ! そんな子供のままごとみてぇなやり方で、まともな品物ができるわけがねぇだろうが!」
ゲルトさんの怒声に同調するように、他の古参の職人たちも口々に不満を漏らし始めた。
「そうだそうだ! 聖女様、あんたは俺たちの仕事を馬鹿にしてるのか!」
「技術ってもんを、なめてるんじゃねぇのか!」
(…来ると思ってた。当然の反応だ)
私の心の中で、高橋健太が冷静に分析する。
彼らのプライドを、私は今、真正面から踏みにじろうとしているのだから。
だが、ここで引くわけにはいかない。
「皆さんのおっしゃる通りです」
私は、あえて彼らの言葉を肯定した。
「皆さんが長年培ってきた技術は、本当に素晴らしいものです。ですが、その素晴らしい技術だけでは、あの代官の搾取からは、私たちの村を守りきれないんです!」
私の声が、広場に響き渡る。
「あの男は、私たちが汗水たらして作ったものを、ただ同然の値段で奪っていきます。私たちの子供たちが食べるものまで、平気で奪っていきます! このままでは、私たちはまた、あの飢えと病に苦しんだ冬に逆戻りしてしまう! それでも、いいんですか!」
村人たちが、息を呑む。
彼らの脳裏に、あの絶望の日々が蘇ったのだろう。悔しさに、誰もが唇を噛み締めていた。
そのタイミングを見計らって、私の隣に立っていたクロードさんが、静かに口を開いた。
「…狩りと、同じだ」
彼の低い声は、不思議なほどよく通った。
「巨大な獣を仕留める時、一人の腕利きの猟師が挑むより、十人の素人が役割を分担した方が、確実だ。獲物を追い込む者、足止めする者、止めを刺す者…。リリア殿が言っているのは、そういうことだ」
村の若者たちが、尊敬するクロードさんの言葉に、ハッとした顔になる。
続いて、レオニード様が、にこやかな笑みを浮かべて前に出た。
「そして、この計画が成功すれば、皆さんの収入は、今までの比ではありませんぞ! 代官に七割奪われても、なお、お釣りがくるほどの富が、この村にもたらされるのです! そのための資材や資金は、全て我がヴァレンティス商会が、責任を持って提供いたします!」
金と、未来。
レオニード様が提示した甘い言葉に、村人たちの目の色が変わる。
特に、新しいやり方に興味津々だった若者たちが、次々に声を上げた。
「面白そうじゃねえか!」
「俺、油を混ぜる係、やりてぇ!」
「代官をギャフンと言わせられるなら、なんだってやってやるぜ!」
若者たちの熱気が、徐々に村全体へと伝播していく。
古参の職人たちは、まだ納得いかないという顔で腕を組んでいるが、もはや反対の声を上げる雰囲気ではなくなっていた。
こうして、ユキノシタ村の、歴史上誰も見たことのない『工場』建設が、始まった。
レオニード様の商会から、見たこともないほど大量の木材や工具が運び込まれる。
村の男たちは、クロードさんの指揮のもと、作業場を解体し、生産ラインに沿って、新しい作業台を組み上げていく。
「おい、そっちの柱、もっと右だ!」
「分かってるよ! うおお、重てぇ!」
女たちは、私が書き上げた『マニュアル』――油を混ぜる回数や、材料の分量などを細かく記した手順書を、必死に読み込んでいる。
「なになに…『灰汁を、線のここまでゆっくりと注ぎ、泡が消えるまで時計回りに百回かき混ぜる』…? ひゃ、百回!?」
「リリア様が決めたことだ! やるんだよ!」
村は、代官が来た日とは比べ物にならないほどの、新しい活気に満ち溢れていた。
誰もが、理不尽な搾取に屈するのではなく、自分たちの手で未来を切り拓こうと、目を輝かせている。
腕の中のユキも、その喧騒が楽しいのか、きゃっきゃと嬉しそうに手足をばたつかせていた。
(始まった…。私たちの、産業革命が)
この光景に、私は胸が熱くなるのを感じていた。
だが。
その希望に満ちた光景を、作業場の隅から、冷たい目で見つめる者たちがいることに、私は気づいていた。
木工職人のゲルトさんをはじめとする、古参の職人たちだ。
彼らは、自分たちの居場所を奪われたかのように、ただ黙って、若者たちが楽しそうに働く姿を眺めているだけだった。
その瞳に宿るのは、諦めか、それとも、燻る怒りの炎か。
新しい希望の光は、同時に、古い誇りとの間に、避けられぬ軋轢の影を、静かに落とし始めていた。
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