第24話 香料ギルドの当主と見えざる敵意

「―――では、共犯者殿。参りましょうか」


翌朝。

レオニード様は、まるでこれから優雅な観劇にでも出かけるかのような涼しい顔で、私にそう言った。

共犯者、という響きに、私の背筋がぴんと伸びる。

そうだ。昨夜、私たちは誓ったのだ。

彼の野望と、私の未来。二つの目的のために、共に戦うと。


「はい。よろしくお願いします、レオニード様」


私は、腕の中のユキをクロードさんに預けた。

彼は何も言わず、ただこくりと頷くと、ユキを慣れた手つきで抱きかかえる。その無言の信頼が、これから戦場に向かう私にとって、何よりのお守りになった。


「クロードさん、ユキをお願いします」

「…ああ。心配するな」


短い言葉。でも、それで十分だった。

私は、レオニード様と共に、大商人ギルドの豪華な馬車に乗り込んだ。

目指すは、王都の経済の中心地、『商業ギルド連合本部』だ。



「……」


馬車に揺られながら、私は窓の外に広がる王都の街並みを、改めて呆然と眺めていた。

昨日見た光景よりも、さらに洗練され、活気に満ちている。

道行く人々の服装は、辺境の村では一生お目にかかれないような、上質な生地で作られたものばかりだ。


(レベルが…違いすぎる…)


バルトロ男爵の屋敷が、この街ではただの『普通の家』レベルに見える。

こんな場所で、本当に私は戦っていけるのだろうか。

ユキノシタ村という、小さな、でも温かい世界しか知らなかった私にとって、この王都はあまりにも巨大な怪物のように思えた。


「緊張していますか、リリアさん」

隣に座るレオニード様が、私の心中を見透かしたように尋ねる。

「…はい。少しだけ」

「無理もありません。ですが、貴女がこれから戦う相手は、この街そのものではありません。この街を牛耳る、古く、そして狡猾な権力です」


彼は、窓の外にそびえ立つ、ひときわ荘厳な建物を指さした。

白い石造りの、まるで神殿のような建物。それが、商業ギルド連合の本部だった。


「今日、貴女はおそらく一人の男と会うことになるでしょう。名を、エルネスト・ド・ヴァリエール。王都の香水や薬草の流通を牛耳る、『香料ギルド』のギルドマスターです」

「香料ギルド…」

「ええ。我々改革派とは、長年対立している保守派の重鎮…。言うなれば、古狸です。貴女の石鹸は、彼のギルドの市場を、根底から脅かす可能性がある。…心しておいた方がいい」


レオニード様の忠告に、私はごくりと喉を鳴らした。

馬車が、神殿のような建物の前で静かに止まる。

いよいよだ。

私の、最初の戦いが始まる。



ギルド連合本部の内部は、外観以上に、権威というものの匂いが充満していた。

磨き上げられた大理石の床に、コツ、コツ、と私たちの足音が響く。

壁には歴代ギルドマスターたちの肖像画がずらりと並び、まるで私たちを値踏みするように、無言の視線を投げかけているようだった。


(うわぁ…空気が重い…! 役所より百倍くらい重いぞ、これ!)


レオニード様は、そんな威圧的な雰囲気に臆することもなく、堂々とした足取りで受付カウンターへ向かう。

「新商品発表会の事前登録に来た。ユキノシタ村生産組合、代表リリア。後援は、大商人ギルドだ」

彼の言葉に、受付の職員は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて手続きを始めた。


その、手続きが終わるのを待っていた、まさにその時だった。

背後から、穏やかで、しかしどこか粘つくような老人の声がかけられた。


「おやおや。これはこれは、ヴァレンティス卿。このような場所で会うとは、奇遇ですな」


振り返ると、そこに立っていたのは、上等な絹のローブを身にまとった、白髪の小柄な老人だった。

柔和な笑みを浮かべてはいるが、その細められた瞳の奥は、全く笑っていない。

レオニード様が、小さく息を吐いた。


「…エルネスト卿。ご機嫌麗しゅう」

(この人が…香料ギルドのギルドマスター!)


エルネストと呼ばれた老人は、レオニード様の挨拶には答えず、その探るような視線を、私へと向けた。


「ほう。して、こちらのお嬢さんが、近頃噂の…? 辺境からいらっしゃったという、『雪解けの聖女』様でございますかな?」


その言葉遣いは丁寧だった。

だが、『辺境』『聖女様』という単語を、わざとらしく強調する響きに、私は全身の肌が粟立つのを感じた。

見下されている。

明確に、侮蔑されている。


「ご紹介します。彼女はリリア殿。我がギルドが総力を挙げて支援する、新しい組合の長です」

レオニード様が、私を庇うように一歩前に出る。

しかし、エルネスト卿はくつくつと喉の奥で笑った。


「組合の長、でございますか。素晴らしい。いやはや、実に素晴らしい『生活の知恵』でございますな。動物の脂と灰から洗浄剤を作るとは…我々のような、伝統と格式を重んじる者には、到底思いつきもしない発想ですわい」


生活の知恵。

その言葉が、鋭い棘となって私の胸に突き刺さる。

私たちの技術を、そんな陳腐な言葉で片付けるな。

これは、科学だ。

そう叫びたかったが、喉が張り付いたように声が出ない。


彼は、さらに一歩、私に近づいた。

そして、私の顔をじろじろと、まるで品定めでもするかのように眺め回すと、にたりと笑った。


「…して、噂では、聖女様にはお子様もいらっしゃるとか。女手一つで子を育てながら、新しい事業を興すとは…感服いたしますな。ですが」


彼の瞳が、す、と細められる。

その奥に、氷のように冷たい光が宿った。


「あまり、分不相応な夢は見ない方が、よろしいのではないですかな。何より、その愛しいお子様のために、ね」


―――カチン。

私の中で、何かが切れる音がした。

なんだ、こいつ。

私のことを侮辱するのは、百歩譲って許そう。

だが、ユキをダシに、私を脅すような言い方だけは…!


私が何かを言い返す前に、レオニード様の冷たい声が、二人の間に割り込んだ。

「エルネスト卿。そのご発言は、聞き捨てなりませんな。それは、我が大商人ギルドに対する挑発と受け取っても?」


「おっと、これは失礼。老婆心からの、ただの忠告でございますよ、ヴァレンティス卿。若さと勢いだけで、この王都で生き残れるほど、商いの世界は甘くはない…そう申し上げたかっただけですじゃ」


彼はそう言うと、わざとらしく肩をすくめてみせる。

そして、私にもう一度、蛇のような視線を向けると、満足そうに踵を返した。

「では、発表会、楽しみにしておりますぞ。聖女様の『奇跡』とやらを、拝見できるのを」


コツ、コツ、と彼の足音が、大理石のホールに響き、やがて聞こえなくなった。

後に残されたのは、凍りつくような沈黙と、私の胸の中で燃え盛る、黒い炎だけだった。


(…上等じゃないか)


悔しさで、握りしめた拳が、小刻みに震えている。

でも、不思議と恐怖はなかった。

むしろ、はっきりと分かった。

あの男は、敵だ。

私と、ユキと、ユキノシタ村の未来を、踏み潰そうとしている、明確な敵だ。


「…リリアさん」

レオニード様が、心配そうに私の顔を覗き込む。

私は、ゆっくりと顔を上げた。

私の瞳に宿っていたのは、もはや戸惑いや不安ではなかった。


「あれが、私たちの敵ですね」


私の静かな問いに、レオニード様は驚いたように少しだけ目を見開いた後、ふっと口元を緩めた。

それは、昨夜見せた、獰猛な狩人の笑みだった。


「ええ。…あれが、我々が最初に打ち破るべき、古き権力の象徴です」


彼の言葉に、私は強く、強く頷いた。

宣戦布告は、確かに受け取った。

分不相応な夢、だと?

見てろよ、古狸。

私の知識と、私たちの技術が、お前たちのその古臭い常識ごと、木っ端微塵に打ち砕いてやる。


王都の権威の象徴であるギルド本部の、そのど真ん中で。

私の、本当の戦いの幕が、今、静かに上がった。

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