第19話 北の村の旅立ち

「…本当に、行っちゃうんだねえ、聖女様」


出発の朝。ユキノシタ村の入り口は、いつになく賑わいと、そして一抹の寂しさに包まれていた。

村の女たちが、私の腕の中で眠るユキの頬を代わる代わる撫でながら、名残惜しそうに声をかけてくれる。


「これは、旅の途中でユキ坊がお腹を空かせないように、干し肉を細かく砕いたもんだよ」

「こっちは、夜は冷えるだろうから、とっておきのテンの毛皮で作ったおくるみさ」

「聖女様も、お体を大事になすってくださいね」


差し出される数々の餞別。

その一つ一つに、この村の人たちの温かい心が込められているのが、痛いほど伝わってくる。


(うっ…ダメだ、泣きそう…)


私は、こみ上げてくる熱いものをぐっと堪え、一人一人に深く頭を下げた。

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます…。皆さんのこのご恩は、必ず、村の未来という形で持ち帰りますから」


私の言葉に、村人たちは「聖女様なら大丈夫だ!」「我らがギルドマスター殿だもんな!」と力強い声を上げてくれる。

ギルドマスター、という新しい響きに、まだ背中がむず痒い。

数ヶ月前まで、屋敷の片隅で虐げられていたただのメイドだった私が、今や一つの村の未来を背負う組織の長。人生、何が起こるか分からないにも程がある。


「リリア殿」


人垣をかき分けるようにして、村長さんが杖を突きながらやってきた。

その皺の刻まれた顔には、不安と期待が半分ずつ浮かんでいるように見えた。

彼は私の前に立つと、震える手で、私の手をぎゅっと握りしめた。


「聖女様…いや、ギルドマスター殿。この村の未来を、どうか、お頼み申します。わしらには、貴女様だけが頼りなのじゃ」

「…はい。必ず、この村の技術と豊かさを、国に認めさせてみせます。誰にも奪わせたりしない、盤石な未来を、この手で掴んできます」


私の決意に満ちた返事に、村長さんは深く、深く頷いた。

その瞳には、うっすらと光るものがあった。


ふと、視線の先に、微動だにせず佇む大きな背中が見えた。

クロードさんだ。

彼は、村人たちの輪から少しだけ離れた場所で、まるで感情のない石像のように、ただじっと前を見据えている。

でも、私には分かった。

彼が、その全身全霊で、周囲への警戒を怠っていないことを。

彼がいる。

その事実だけで、私の心の中の不安が、すうっと和らいでいくのを感じた。


「準備はよろしいかな、ギルドマスター」


涼やかな声と共に、輪の外からレオニードさんが姿を現した。

彼の後ろには、屈強な護衛たちに守られた、一台の巨大な馬車が控えている。

それは、私が今まで見たどんな馬車とも違っていた。

車体は分厚い木材で補強され、車輪には鉄の輪がはめられている。それでいて、内装は揺れを吸収するための工夫が随所に凝らされているのが見て取れた。


(すげえ…装甲車かよ。これなら、多少の悪路や盗賊の襲撃にも耐えられそうだ)


「道中の安全は、我がギルドの名誉にかけてお約束します。さあ、リリアさん、クロード殿。ご乗車を」


レオニードさんに促され、私は名残を惜しむ村人たちに再度頭を下げると、馬車へと向かった。

クロードさんが先に乗り込み、中から手を差し伸べてくれる。

その無骨で大きな手に自分の手を重ね、私はゆっくりと車内へと足を踏み入れた。


馬車の内部は、外見の武骨さとは裏腹に、驚くほど快適な空間だった。

柔らかいクッションの効いた座席に、ユキを寝かせるための小さな揺りかごまで備え付けられている。

レオニードさんの、細やかな気配りが感じられた。


「リリアさん、クロード殿。私は別働隊を率いて、少し先回りして王都の宿や情報の確認に向かいます。道中の指揮は、護衛隊長のガストンに一任してありますので、何かあれば彼に」

「はい。何から何まで、本当にありがとうございます、レオニード様」

「いえ。これは、未来への『投資』ですから」


彼はそう言って悪戯っぽく笑うと、馬車の扉を静かに閉めた。

窓の外で、村人たちの「いってらっしゃーい!」「お元気でー!」という声が、波のように押し寄せる。


やがて、御者の掛け声と共に、馬車がゆっくりと動き出した。

ガタン、と一度大きく揺れ、車輪が雪解け後の柔らかな土を踏みしめる感触が伝わってくる。


私は、窓から身を乗り出すようにして、遠ざかっていく村に向かって、力の限り手を振った。

小さな、貧しい、でも、私とユキを救ってくれた、世界で一番温かい村。

私の、新しい故郷。


村の姿が、丘の向こうに見えなくなる。

寂しさで胸が締め付けられそうになった、その時だった。


「…心配、ない」


向かいの席に座っていたクロードさんが、ぽつりと呟いた。

彼は、窓の外を見つめたまま、静かに続ける。

「俺たちが、帰る場所は、あそこだ。それを守るために、俺たちは行く。…それだけだ」


その言葉は、飾り気も、甘さも、何一つなかった。

だけど、どんな慰めの言葉よりも、私の心を強く、そして穏やかにしてくれた。


「…そう、ですね」


私は、微笑んで頷いた。

そうだ。これは、逃げる旅じゃない。守るための旅なんだ。

腕の中のユキが、ん、と小さく身じろぎした。

私は、この子の柔らかい頬に、そっと自分の頬を寄せる。


(大丈夫だよ、ユキ。お母さんと、クロードさんが、必ずあなたを守るからね)


馬車は、北の山々を背に、南へと続く街道をひた走る。

目指すは、王都。

この国の中心であり、巨大な富と権力が渦巻く、未知の世界。

そこには、バルトロ男爵など比較にならないほどの、大きな困難が待ち受けているのかもしれない。


でも、もう私は一人じゃない。

私には、守るべき宝物と、共に戦ってくれる仲間がいる。

そして、この世界では誰も知らない、『科学』という最強の武器がある。


私は、ユキを強く抱きしめた。

窓の外に広がる、どこまでも続く緑の大地を見つめながら、静かに誓う。


私の、私たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ、と。

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