第9話 衛生の革命~石鹸と病の克服~
「食べ物の次は…この村から、病をなくします」
私の宣言は、漬物の成功に沸いていた村の熱狂を、一瞬で凍りつかせた。
皆が、ぽかんとした顔で私を見ている。
食料の問題を解決しただけでも奇跡なのに、今度はこの村を長年蝕んできた病までなくす? まるで、神様みたいなことを言う。そんな視線が、痛いほど突き刺さった。
(いや、違うんだよ! 神様でも魔法でもない! もっと単純な、理屈の話なんだ!)
心の中で叫ぶが、それはもちろん口には出せない。
最初に口を開いたのは、やはり村長だった。
「リ、リリア殿…お気持ちはありがたい。じゃが、病だけは…あれは、冬の神がお怒りになったことによる呪いじゃ。我ら人の力では、どうすることも…」
「呪いではありません」
私は、村長の言葉を静かに、しかしきっぱりと否定した。
「村の皆さんを苦しめている病の正体は、呪いなどではなく…目に見えないほど小さな、『虫』のようなものです」
「む、虫じゃと!?」
村人たちが、ぎょっとしたようにざわめき始める。
(ああもう、どう説明すれば…! 顕微鏡もないこの世界で、細菌の概念を伝えるなんて無理ゲーすぎる!)
私の中の高橋健太が頭を抱える。
仕方がない。難しい理屈は抜きだ。必要なのは、彼らが理解し、納得し、そして行動してくれること。
「その小さな虫は、汚れた水や、洗っていない手、そして病気の人の咳やくしゃみの中にたくさん潜んでいます。それが口から体の中に入ると、お腹を壊したり、熱を出したりするんです」
私は、村の共同井戸を指さした。
井戸の周りは、ぬかるんでいて、誰かが吐き出したものなのか、汚物がこびりついている。
「例えば、あの井戸。皆さんの命の源ですが、周りが汚れていれば、雨が降った時にその汚れが井戸の中に流れ込んでしまいます。その水を飲めば、虫も一緒に飲むことになる」
「ひいぃっ!」
誰かが悲鳴を上げた。
私は次に、子供たちの泥だらけの手を指さす。
「その手で食べ物をつまめば、虫も一緒に口の中に入ります。だから、まずやるべきことは一つ。その『虫』を体に入れないようにすること。そして、体についてしまった虫を、洗い流すことです」
「洗い流す…水で、か?」
クロードさんが、初めて口を挟んだ。その目は真剣そのものだ。
「水だけでは不十分です。その虫を殺し、脂汚れと一緒に洗い流すための、特別な『洗い粉』のようなものを作ります」
私は、そこで一度言葉を切ると、はっきりと宣言した。
「皆さん、石鹸を作ります」
◇
「せっけん…?」
村人たちは、初めて聞く単語に首を傾げている。
まあ、そうだろう。この世界に、固形石鹸なんて代物があるとは思えない。
「材料は、動物の脂と、暖炉に残った木灰。それだけです」
「脂と灰が…洗い粉になるだと?」
誰もが信じられないという顔をしていたが、漬物の一件で私への信頼度がカンストしている彼らは、文句一つ言わずに動き出してくれた。
クロードさんは腕利きの猟師だ。彼が仕留めた熊の脂身の塊が、すぐに用意された。
「リリア。これで足りるか?」
「はい、十分すぎます! ありがとうございます、クロードさん!」
村の女たちは、各家庭の暖炉から、大量の木灰を集めてきてくれた。
全てが、村の広場に運び込まれる。
「まず、この木灰から、『灰汁(あく)』というものを取り出します」
私は大きな樽に木灰を入れ、そこに熱湯を注ぎ、かき混ぜた。どろりとした灰色の液体。しばらく放置して、上澄み液だけを掬い取る。これが、強アルカリ性の水酸化カリウム溶液、石鹸作りの要だ。
(問題は、この灰汁の濃度だ…濃すぎれば肌が爛れるし、薄すぎれば脂と混ざらない…)
高橋健太の記憶を探る。確か、化学の授業で…いや、サバイバル系の雑学本で読んだ気がする。原始的な、濃度の測り方。
「すみません、誰か、鶏の卵を一つ持ってきてください」
「卵?」
村人が不思議そうな顔をしながらも、貴重な卵を一つ持ってきてくれた。
私は、その卵をそっと灰汁の中に浮かべる。
卵は、ぷかぷかと浮かび、そのてっぺんが十円玉くらいの大きさで見えていた。
「よし、完璧です!」
思わずガッツポーズが出た。
「な、なんだ? 卵が浮いたぞ!」
「これが、何か関係あるのか?」
「ええ。この卵の浮き沈みで、灰汁の濃さがわかるんです。これなら、肌を傷つけない、ちょうどいい石鹸が作れます」
私の説明に、村人たちは「おおぉ…」と感嘆の声を漏らす。
もう彼らにとっては、私がやる事なす事すべてが魔法に見えているらしい。
次に、熊の脂を鍋でゆっくりと熱して溶かし、先ほどの灰汁を少しずつ加えながら、ひたすら棒でかき混ぜていく。地味で、根気のいる作業だ。
「リリア殿、代わろう」
「私も手伝います!」
村の女たちが、代わる代わる鍋をかき混ぜてくれる。
最初は分離していた脂と灰汁が、やがて混ざり合い、とろりとしたクリーム状に変化していく。これが『鹸化』という化学反応だ。
「いい感じです! あともう少し…!」
数時間後。
鍋の中身は、もったりとした白い塊に変わっていた。
これを木の型枠に流し込み、数日間乾燥させれば、固形の石鹸が完成する。
◇
そして、一週間後。
村には、劇的な変化が訪れていた。
私が作った即席の石鹸――まだ少し柔らかくて不格好だったけれど――を使い、村人全員が『手洗い』を徹底した結果、あれほど村中に響き渡っていた病人の苦しそうな咳が、嘘のように減っていたのだ。
「ばあちゃんが…! ばあちゃんが、飯を食ったんだ!」
広場で、小さな男の子が泣きながら叫んでいた。
彼の祖母は、もう何週間も寝たきりだったはずだ。その老婆が、家の前で、日向ぼっこをしながら、お粥をすすっている。
「すごい…本当に、病が治っていく…」
「リリア殿の言う通り、手を洗っただけだぞ…?」
「呪いじゃなかったんだ…俺たちのやり方が、間違ってただけだったんだ…」
村人たちの顔から、絶望の色が消えていく。代わりに宿るのは、生命力に満ちた、力強い光。
子供たちが、元気に雪の中を走り回っている。その笑い声が、こんなにも村に響き渡るのは、何ヶ月ぶりのことだろうか。
私は、その光景を、胸がいっぱいになりながら見つめていた。
そっと、自分のお腹を撫でる。
(見てる、あなた? お母さん、またやったわよ。たくさんの人を、笑顔にできた)
「…リリア」
不意に、クロードさんに声をかけられた。
彼はいつものようにぶっきらぼうな表情だったけれど、その目には、今まで見たこともないような、深い感情が揺らめいていた。
「…無理は、するな。お前も、体は一つしかないんだ」
その不器用な労りの言葉に、張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
涙が、零れそうになる。
その時だった。
村長が、広場にいた全ての村人たちを引き連れて、私の前にやってきた。
そして、次の瞬間。
村長を先頭に、そこにいた全員が、まるで示し合わせたかのように、雪の上に、ひざまずいたのだ。
「え…!? ちょ、村長!? 皆さん、どうしたんですか、立ってください!」
私が慌てて駆け寄ろうとすると、村長は深く、深く頭を垂れたまま、震える声で言った。
「リリア殿…いや…」
村長は、顔を上げた。
その瞳は涙に濡れ、神を見るかのような、絶対的な畏敬の念に満ちていた。
「あなたは、我らを見捨てられた民を救うために、天から遣わされた『聖女』様に違いありません…!」
聖女。
その言葉が、雷鳴のように、私の頭に、心に、突き刺さった。
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