第6話 絶望を覆す『生活の知恵』という閃光
「私には、知識があります。この村を…この絶望的な状況を、救えるかもしれない知識が」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
私の言葉に、猟師のクロードさんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにその表情はいつもの険しいものに戻る。
「…知識、だと?」
彼の声は低く、疑念に満ちていた。まるで、子供の戯言を聞き流すかのような響きだ。
「フン。男爵領でメイドをやっていた小娘に、一体どんな知識があるというんだ」
(くっ…! やっぱり信じてもらえないか…!)
心の中で悪態をつく。
当たり前だ。私、リリア・フォーサイスは、孤児院育ちの十七歳のメイド。何の学もない、ただのか弱い娘。そんな私が「村を救える」なんて言ったところで、狂人のたわごとだと思われても仕方がない。
だが、今の私の中には、高橋健太としての二十一世紀日本の記憶と知識がある。それはこの世界では、どんな魔法よりも強力な武器になるはずだ。
「口先だけなら何とでも言える。本当にこの村の惨状を理解しているのなら、余計な期待をさせるな」
クロードさんはそう吐き捨てると、私に背を向けた。
「村長に会わせる。お前が何者なのか、どう処遇するかは、村長が決めることだ」
拒絶ではなかった。けれど、それは最後のチャンスだという意味が込められているのが痛いほど伝わってきた。
ここで結果を出せなければ、私はこの子と一緒に、再びあの吹雪の中に放り出されるのだ。
(やるしかない…絶対に、このチャンスを掴んでみせる…!)
私はぎゅっと拳を握りしめ、クロードさんの大きな背中を追って、雪の積もった小道を進んだ。
村の中は、死んだように静まり返っていた。時折、家の中から漏れ聞こえるのは、病人の苦しそうな咳の音と、赤子の弱々しい泣き声だけ。道ですれ違う村人たちは皆、幽霊のように生気がなく、その目は虚ろに雪を見つめている。
(ひどい…栄養失調と、おそらくはビタミン不足による壊血病。そして不衛生な環境が引き起こす感染症…まさに、負の連鎖だ)
高橋健太の知識が、目の前の光景を冷静に分析する。
だが、リリアの心は恐怖に震えていた。このままでは、この村は春を待たずに滅びる。そうなれば、私も、このお腹の子も…。
やがて、村で一番大きな家の前にたどり着いた。家の前には、数人の男たちが深刻な顔で集まっている。その中心にいる、白髭を蓄えた老人が村長なのだろう。
「村長、吹雪の中で倒れていた女を連れてきた」
クロードさんの声に、男たちが一斉にこちらを向く。その視線は、好奇心よりも先に、警戒と敵意に満ちていた。
「おお、クロードか。して、この娘は…」
村長と呼ばれた老人が、私を値踏みするように見た。その目が私の膨らんだお腹に留まり、眉間に深い皺が刻まれる。
「厄介な時に、厄介な拾い物をしたもんじゃのう…」
「申し訳ありません。ですが、見殺しには…」
「わかっておる。お前の優しさは美徳じゃが、今の我々には毒にもなる」
村長の言葉は重く、その場にいた全員の心を代弁しているようだった。
誰もが、私を「食い扶持を減らすだけの、新たな重荷」としか見ていない。
「して、娘よ。お前はどこの誰じゃ。なぜ、あんな場所におった」
「……」
本当のことは言えない。貴族の屋敷から追い出された淫売女だと知られれば、その瞬間に石を投げつけられるだろう。
私が言葉に詰まっていると、別の男が苛立ったように声を荒げた。
「そんなことより、村長! 食料の問題です! もう備蓄の塩漬け肉も、本当に底が見えてきました!」
「ううむ…」
「しかも、見てくださいよ、これ!」
男が差し出したのは、粗末な布に包まれた肉の塊だった。どす黒く変色し、表面にはぬめりのようなものが見える。
「残っている肉も、なんだかこう…色がおかしくなってきてるんです! このままじゃ、春を迎える前に、全部腐っちまいますだ!」
腐る。
その言葉が聞こえた瞬間、私の頭の中で、何かが激しくスパークした。
(腐る? 塩漬け肉が? なぜだ? 塩分濃度が低いのか? それとも保存している場所の温度が高いのか? いや、そもそもそれは本当に『腐敗』なのか?)
高橋健太の記憶が、猛烈な勢いで回転を始める。
家庭科の授業で習った、食品保存の科学。
『腐敗』と『発酵』。その二つを分けるのは、人間に有害な菌が増えるか、有益な菌が増えるかの違いでしかない。
そして、どちらの菌が優勢になるかを決めるのは、塩分濃度、水分量、そして何より『温度』だ。
(そうだ…! 味噌! 漬物! 日本では、冬の間に仕込んで、春までゆっくりと熟成させるじゃないか!)
この村の人たちは、ただ塩をまぶして、常温で放置しているだけなんだ。だから、雑菌が繁殖して『腐敗』してしまう。
でも、もし適切な環境を整えてやれば? 有益な微生物の働きをコントロールできれば、それは『腐敗』ではなく、旨味と栄養価を増す『発酵』になる!
そして、もう一つ。
村人たちが忌々しげに見つめる、この世界を覆い尽くす白い絶望。
雪。
テレビのサバイバル番組で、雪山に遭難した芸人がやっていた。雪で壁を作り、即席のシェルターを構築していた。
『雪は、無数の空気の層を含んだ、最高の断熱材です!』
ナレーターの声が、脳裏に鮮明に蘇る。
(断熱材…そうだ、そうだよ! この雪は、外の寒さから身を守る壁になるだけじゃない…! 逆に、中の冷気を外に逃がさない、天然の巨大な『冷蔵庫』になるんだ!)
閃光。
絶望という名の暗闇を切り裂く、二筋の、あまりにも鮮やかな光。
『発酵醸造 (ファーメンテーション)』と、『雪室構築 (スノーシェルター)』。
魔法じゃない。女神様から与えられたスキルでもない。
前世の、ごくありふれた、ただの『生活の知恵』。
けれど、この知識が、この死を待つだけの村を救う。
私と、お腹の子の命を、繋ぐ。
「…おい、どうした。顔色が悪いぞ」
クロードさんの声で、我に返った。
いつの間にか、私は息を荒くし、その場に立ち尽くしていたらしい。村長たちが、怪訝な顔で私を見ている。
もう、迷いはなかった。恐怖も、躊躇も、どこかへ消え失せていた。
(見てて、高橋健太。お前の無念は、お前の知識は、私がこの世界で必ず意味のあるものにしてみせる)
(そして、見ていなさい。バルトロ男爵、男爵夫人。お前たちがゴミのように捨てた女が、ここからどうやって生き延び、笑うのかを)
私は、村長たちに向かって、一歩、踏み出した。
それは、か弱いメイド・リリアが、未来を掴むために踏み出した、最初の一歩だった。
「そのお肉、腐ってはいません」
凛とした声が、しんとした広場に響き渡る。
村人たちの視線が、驚愕と不審の色を浮かべて、一斉に私に突き刺さった。
「なんだと、小娘…?」
「失礼ながら、申し上げます。それは腐敗ではなく、やり方次第で、もっと美味しく、もっと長く保存できる宝物に変わります」
私は、凍える手で自分のお腹をそっと撫でる。
この子のために。
私はもう、ただ助けを待つだけの無力な存在じゃない。
「そして、この村を覆う雪。それは、皆さんを苦しめる呪いなどではありません」
私は、天を仰ぎ、降りしきる純白の絶望を、希望に満ちた瞳で見つめた。
「それは、私たちの食料と命を守る、天然の『貯蔵庫』です」
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