第4話 死の淵で蘇る記憶と、小さな灯火

冷たい。

いや、もう冷たいという感覚すらない。

手足の指先から順番に、自分の体が自分のものではなくなっていく。痛みも、寒さも、遠い世界の出来事のようだ。

降り積もる雪が、まるで優しい綿のように私を包み込んでいく。


(ああ、私…ここで、死ぬんだ…)


不思議と、恐怖はなかった。

あるのは、静かな諦めと、そしてたった一つの後悔。

私は、凍える手で、そっと自分のお腹をさすった。ほとんど感覚のない指先で、そこに宿る小さな命の温もりを探す。


(ごめんね…守ってあげられなくて…ごめんね…)


あなたに、暖かい日の光を見せてあげたかった。

きれいな花の匂いを、教えてあげたかった。

私の腕の中で、笑ってほしかった。

それなのに、こんな冷たい雪の中で、一緒に死なせてしまう。


(最低の、お母さんで…ごめん…)


涙も、もう凍りついて流れない。

視界が白から黒へと、ゆっくりと塗りつぶされていく。

これで、終わり。

あの男爵夫妻への憎しみも、裏切られた悲しみも、全てがこの雪に埋もれて消えていく。


そう、思った、瞬間だった。


――まだだ。


頭の中に、直接声が響いた。

私の声じゃない。女の声でも、男の声でもない。

もっと、ずっと馴染みのある、けれど思い出せない、誰かの声。


『まだ、終われない』


――お前は、俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。


(だれ…? あなたは…)


問いかける間もなく、脳が焼き切れるような激痛と共に、膨大な情報がなだれ込んできた。

それは、奔流。記憶の洪水だった。


チョークの匂いがする、四角い部屋。緑色の黒板と、窓から差し込む西日。

『たかはしー、ここの問題わかるかー?』

気怠そうな教師の声。クラスメイトたちの笑い声。


夜の闇を煌々と照らす、ガラス張りの建物。『コンビニエンスストア』という、知らない単語。

プラスチックの容器に入った麺に、熱湯を注ぐ。立ち上る湯気と、化学的な旨味の香り。


手のひらに収まる、光る板。『スマートフォン』。

指でなぞるだけで、世界のあらゆる情報が手に入る魔法の道具。


知らない風景、知らない人々、知らない文化。

それは、リリアという少女が生きてきた十七年間とは、全く質の違う、別の人生の記憶。


(違う…これは、私の記憶じゃない…! なに、これ…痛い、頭が、割れる…!)


必死に抵抗しようとしても、記憶の濁流は止まらない。

それは、ある一人の人間の、生まれてから死ぬまでの、全ての記録。


――俺の名前は、高橋健太。

――日本の、ごく普通の、男子高校生だった。


『俺』?

違う、私はリリアだ。

なのに、どうして『俺』の記憶がこんなにも鮮明に?

混乱する意識の中で、最後の記憶がフラッシュバックする。


けたたましいブレーキ音。

目の前で悲鳴を上げて立ち尽くす、小さな女の子。

突き飛ばす、鈍い衝撃。

そして、視界いっぱいに広がる、巨大なトラックのフロントグリル――。


(ああ、そうだ…俺は、死んだんだ…)


納得、してしまった。

高橋健太は死に、そしてメイドのリリアとして、この世界に生まれた。

なんてことだ。こんな死ぬ間際になって、思い出すなんて。

皮肉なものだな、と『俺』が笑う。

いや、笑っている場合じゃない!


(そうだ、私はリリアで、俺は高橋健太で…どっちでもいい! 今、私は、死にかけてるんだ!)


二つの人格が、思考が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。

リリアとしての絶望と、高橋健太としての客観的な分析。


『状況、最悪。気温は氷点下、装備は薄いメイド服のみ。低体温症で意識混濁が始まってる。このままだと数十分で心停止』


(そんな…! じゃあ、もう助からないの…!?)


『いや、まだだ! 知識がある! 俺の記憶が使える!』


健太の記憶が、必死に活路を探す。

テレビで見たサバイバル番組の特集。雪山で遭難した登山家のドキュメンタリー。

そうだ、雪だ!


『雪は、敵じゃない…! 使い方次第で、最強の味方になる!』


雪は、無数の空気の層を含んでいる。それは、最高の『断熱材』だ。

外の冷気を遮断し、中の熱を逃がさない。

つまり、雪で壁を作れば、体温が奪われるのを劇的に遅らせることができる!


(かまくら…? 雪の家…?)


そうだ、テレビで芸人が作っていた。あんな立派なものじゃなくていい。風を遮る壁があるだけで、生存率は格段に上がるはずだ!


希望。

真っ暗な絶望の淵に、マッチの火ほどの、小さな、小さな希望が灯った。


「…う…ぅ…」


呻き声が漏れる。

死んだように動かなかった体に、意志の力が無理やり命令を下す。

立て。動け。生きろ。


(死んでたまるか…!)


リリアの心が叫ぶ。


(あんな奴らに、私の人生を終わらせられてたまるか…!)


高橋健太の魂が、それに呼応する。


(そうだ! あのクソ男爵と性悪女! 俺が、いや、私がどんな思いで…! あの女、なんて言った?『その腹の汚らわしい子ごと、どこかで静かに凍え死ね』だと? ふざけるな!)


憎しみが、怒りが、凍りついた血液を再び沸騰させる。

復讐。

その黒い炎が、生きるための燃料になった。


「…う、ご…け…!」


指先に、ほんの少しだけ感覚が戻る。

雪に埋もれた腕を、必死に動かす。

体を起こそうとするが、凍りついた筋肉が悲鳴を上げて、うまくいかない。

それでも、諦めなかった。


(この子と…生きるんだ…!)

(そして、いつか必ず、あいつらの目の前に立って、笑ってやるんだ…!)

(お前たちが捨てた女は、お前たちが殺そうとした赤ん坊は、こんなにも幸せに生きてるぞって! 最高のざまぁを、くれてやる…!)


その一心で、私は雪の中を這いずった。

風を避けられる場所を探して。岩陰でも、木の根元でも、なんでもいい。

朦朧とする意識。

明滅する視界の端に、何か黒い影が見えた気がした。


(あれは…なんだ…?)


岩だろうか。それとも、ただの幻覚か。

もう、何もわからない。

けれど、あそこまで行けば、少しは風をしのげるかもしれない。


最後の力を振り絞って、私はその影に向かって手を伸ばす。

指先が、何かに触れた気がした。

硬くて、冷たくて、そして、少しだけ温かい、何かに。


そこで、私の意識は、完全に途切れた。

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